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カテゴリ:★『各種霊的知識』 > テスター 性生活の偏見を無くそう

自殺ダメ



 次に一転して禁欲主義の最右翼であるところのキリスト教に触れてみたい。
 ある所にテントの製造を商売にしているサウロという男がいた。晩年になって南ヨーロッパからギリシャ諸島、小アジア、イタリア、スペインの各地を旅した。彼にはてんかんの持病があり、また大の女嫌いであった。歴史家の中には彼をインポ(性的不能者)だったとする者もおれば、ホモ(同性愛)だったとする者もいる。
 このサウロが実はキリストの有名な弟子パウロであり、キリスト教の性的戒律を生み出した人物である。この戒律は肉体的欲望を〝悪〟と決め付け、従って肉体的欲望の所産であるところの出生そのものが悪であり、結局人間の存在そのものも根源的には悪であるという思想に発している。
 要するに人間は悪の塊であり、なかくずく性欲が諸悪の根源である。その悪から少しでも善に近付く道は禁欲生活であり、処女性であり、夫婦それぞれの貞節であり、裸体をむやみに人目に晒さないことである、という。ヨーロッパ人の性観念に罪悪感と羞恥心を注入したのはこうしたキリスト教的戒律である。
 つまり、教会が信者に対してこの罪悪感と羞恥心を吹き込むことによって、教会との繋がりを保ち強化しようと努力してきたことが、信者の心に性交は本来いけないことという観念を植え付けてしまったのである。そして今日では、そのことがかえって諸悪の根源となってしまった感がある。性問題の専門家であるカンフォート博士もその著書の中で
 「性というごく当たり前の自然現象を厄介な問題としてしまったその最大の責任はキリスト教にある」と断言している。
 確かに、教会のこうした固陋(ころう)な反進歩的教説は数多くの精神的ないし神経的な病気を生んでいる。特に、西洋諸国においては離婚を始めとする人間関係の破綻や不和は、その大半がキリスト教的戒律から来る罪悪感、不安感、挫折感といったものによって引き起こされていると言ってよい。
 実際に患者の治療に当たっている私は、そういった根拠のない宗教的罪悪感や抑圧観念から病気になっている事実を、目の当たりに見せ付けられている。だからこそ、右のようなことが断言出来るのである。初めの内は精神的ないし心理的なもので留まっているが、やがて肉体にはっきりと症状が出て来る。胃潰瘍、腫瘍、偏頭痛、関節炎、慢性的消化不良、喘息、吹き出物、そして癌。
 本章の初めの所で、私は一切の先入観、既成概念を捨て去って欲しいと要求したが、〝一切〟は無理としても、ここまで私の説に耳を傾けられたからには、あなたの性愛観にもかなりの変化をきたしていることを期待しよう。そう期待した上で、私は今度は性のあり方について積極的な立場に立って、人間の性生活はかくあるべきだ、という意見を述べてみたいと思う。ご批判はその後にして頂こう。

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 言うまでもなく性は本来悪ではない。目によって美しいものを観賞し、舌によって美味しいものを味わうのと同じように、性器によって肉体の快楽を味わうことは極めて自然なことであり、有り難いことであり、これが自然に出来ることに感謝しなければならない。これを罪悪感や過度な羞恥と結び付けるなどは、もっての外というべきである。身体そのものが性的快楽を味わうように出来ているのであるから、罪悪感や羞恥心から性行為を忌み嫌うというのは実に愚かなことである。
 イヤ、私の言わせれば、性を否定することこそ神を否定することだと言いたい。性を抑制せんとする人達がとかく病的なまでに精神的に歪められている事実が、その何よりの証拠だと思う。神は何一つ不要なものは与えていない筈である。又具わっている道具は使うのが自然な筈である。
 宗教的とは別に、生理的な面から性行為を有害視する人がいるが、これも又大変な誤りである。精子も卵子も適度に消費するように出来ている。生理的機能に異常のある場合は別として、正常な機能を具えた健康な男女なら、欲するままに行動して決して害はない。正常であれば害になる前に欲求が止まる筈である。少し位の疲労は、若い健康な男女なら一晩熟睡すれば回復する筈である。
 若者は自然な性行為を知る迄には、色んな形で性の快楽を味わい欲求のはけ口を求めようとするものである。その一つの現れが自慰行為であるが、これも至って自然な行為であり害もない。大人になってからでも、これを性のはけ口として精神安定の為に行なうことは極めて賢明なことである。
 ところがこの自慰行為においても、キリスト教的罪悪感に根ざした有害説によって、どれだけ多くの若者が精神的に苦しい思いをさせられてきたか測り知れない。つまり生理的に抑えようにも抑え切れなくて自然な衝動によって行なうのだが、その時の心理状態は悪いことをしているという罪悪感が付き纏い、それがかえって生理的にも悪影響を及ぼし、結局は精神的にも肉体的にも性のはけ口としての効用を少しも果たさないことになるのである。これほど愚かで罪作りな話はないといっていい。
 ある孤児院で興味深い調査が行なわれた。そこの子供達は当初は性的行動についてあまり厳しい監視をされていなかった。それで殆ど全員が自慰行為の体験を持っていたが、ある時、実験的にその子供達を二つのクラスに分け、一つのクラスではそれまでどおり自由に行動させ、もう一つのクラスには厳格な監視と説教を徹底させてみた。
 やがて成人して社会へ巣立って行った後、福祉員が追跡調査を行なった。その結果は、厳格に育てられたクラスの全員が何らかの精神的症状を訴え、中には精神病院に入院した程の重症患者もいたが、一方自由に行動させたクラスには一人も病的症状を訴える者はいなかった、ということだ。

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 自慰に次いで問題となるのは婚前交渉であろう。が、これについても私は自由な考えを持っている。これも自慰行為と同じで、性に目覚めた若者が体験する自然な行動であり、正常な結婚生活に入るまでの段階的体験の一つと見るべきだと思う。少なくともこれを宗教的な意味での罪悪と決め付けるのはもっての外である。その根拠を説明しよう。
 成人から見て何でもないことでも、若者にとってはたまらない魅力の対象となるものが沢山ある。音楽、芸術、スポーツ、自動車、その他何もかもが新鮮な興味の源泉である。そして、やがてその中に性というものが入って来る。
 素直に考えれば、若い男女がお互いの肉体の秘密を知りたいという衝動を覚えるのは自然である。これを暴行とか強姦とかいう形で体験するのは無論罪悪であるが、愛し合っている者同士が心の関係から肉体の関係にまで発展していくのは極めて自然な成り行きであり、これは断じて罪ではない。
 が、全く問題がない訳ではない。女性が妊娠した場合である。中絶は絶対に許されない。なぜなら霊的に見れば人間は母体に宿った時から事実上の地上生活が始まっているからである。母体から出て呼吸を始めた時を一般に誕生と言っているが、実際には母体に宿った時が誕生なのである。
 そうなると、妊娠した以上は責任を持ってその子を出産し育て上げる義務があることを、まず自覚しなくてはいけない。もしもそれがイヤだと言うなら、妊娠しない工夫をすることである。つまり避妊である。
 宗教家の中には避妊を罪として禁止する人がいるが、これはナンセンスである。どうしても生まれて来る宿命を持った子なら、如何なる避妊法を講じても必ず妊娠してしまう。人間がそこまで心配する必要はない。

 次に結婚後の問題に進もう。よく問題になるのが浮気であろう。勿論単なる色好みによる浮気は許すわけにはいかない。が、奥さんがあまりに淡白過ぎたり潔癖過ぎたりして旦那の要求を拒否し過ぎる場合は、たとえ旦那が〝外食〟しても奥さんは文句を言えた義理ではない。旦那の浮気を弁護するのではなくて、不自然な夫婦関係の副産物として、これは止むを得ない結果だと言いたいのである。
 というのは、こんな時もし旦那があくまで貞節を要求され、それを正直に完遂しようとすれば、よくよく出来た人間でない限り、精神的な面で不自然な反応が現れ、遂には肉体的にも異常を来たすようになるに決まっている。
 こんな時、お国柄によっては公然と二人目の妻を娶ったり、所謂二号さんを置いたりする所もあろうが、〝先進国〟ではそれが許されない。となると、当然の成り行きとして〝こっそり〟とやる他ないことになる。霊的にまだまだ未熟な地球上においては、単なる法律や戒律によって形の上だけで綺麗事を説くよりも、もっと肉体の自然な欲望を素直に認めて、その欲求を満たす為の現実的な手段を講ずることの方が大切ではなかろうか。
 よく考えてみると、一夫一妻制というのは男女の数がほぼ平均しているからそうなっている面が多分にある。考えてもみるがよい。もし男性の数が女性の半分とか三分の一とかになったら、どういうことになるか。逆に女性の数が極端に少なくなったら、どういう現象が生じるか。大方の想像は大体一致する筈である。
 そういう面から考えても一夫一婦制というのは結婚形態としては数ある形態の中の一つにすぎず、それも男女の数が平等な社会における便宜上の制度だということになる。

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 以上、私は従来の性道徳観から見て、異論とも非道とも言える説を述べてみた。が、私自身は少しもそうは思っていない。なんとなれば従来の性観念のよってきたる根源に遡ってみると、性的に不能又は異常な一個の人間によって作られた戒律に発していることが分かったのである。
 異常な人間の書いた掟に、どうして正常な人間が従わねばならないのだろうか。従う必要もないし、第一従えるわけがないではないか。それを無理して従わねばならぬと信じ込み、肉体的にも精神的にも不自然な努力を強いられて、古来どれだけ純心な若者或いは成人があらぬ性的罪悪感に悩まされ、それが原因でどれほど多くの副産物的罪悪を生んできたことか。現代人はこの点をよくよく反省し、厳正に見極めなければいけないと声を大にして叫びたい。
 確かに人間は肉体のみで生きているのではない。が、霊も肉体に宿って生活している以上、自然な肉体的欲求を抑えたり無視したりしては肉体そのものに不健康であるのみならず、ひいては精神的にも悪影響を及ぼし、結局は肝心の霊的進化をも妨げることになる。このことを私は単なる理屈からではなく、多くの患者に接してそう結論せずにはいられないから言っているのである。
 結論として言いたいのは、要は動機が一番大切だということである。動機が自然な欲求に発したものであれば、決して罪悪ではないということである。
 この点は性の問題に限らない。人生百般皆そうであろう。人に迷惑をかけず、責任を自覚した上であれば、何をやっても構わない。罪悪感でもって人間を小さく縛りつけ、まともな性行為一つ出来ないような、そんなだらしのない人間をこしらえるよりも、責任を自覚しながらノビノビと行動する人間に育てることの方がどれだけ立派か知れない。
 その為には、まずあなた自身が従来の根拠のないタブーや迷信から脱し、人間の原点に立ち帰ることが先決だと思うのである。

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