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テスター 性生活の偏見を無くそう 目次

性生活の偏見を無くそう 一

性生活の偏見を無くそう 二

性生活の偏見を無くそう 三

性生活の偏見を無くそう 四

性生活の偏見を無くそう 五

性生活の偏見を無くそう 六

性生活の偏見を無くそう 七

性生活の偏見を無くそう 八

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 『背後霊の不思議』 M・H・テスター著 近藤千雄訳より


 モーリス・テスター
 二年間激痛に苦しめられたヘルニアを、心霊治療家テッド・フリッカーによって、僅か十分間の手当で治された。同氏から「あなたにも治病能力がある」と指摘され、間もなく治病能力を発揮、英国でも指折りの治療家として活躍した。1987年12月他界。



 健康と富と成功を得る方法をいかに立派に説いても、性の問題を無視しては完全とはいえない。というよりも、致命的といってよい程の手落ちといえる。性愛及びそれによってもたらされるところの悦びと幸福感は、心身両面の健康生活によって極めて重要な要素を占めている。その事実を心霊治療家としての生きた体験から説明して認識して頂くのが本章の目的である。
 人間誰しも、何らかの偏見を多かれ少なかれ持っているものである。偏見のない完璧な人間というのは有り得ない。というのも、人間は所詮は生れ落ちてから今日に至るまでの教育と環境、遺伝、様々な人生体験によって形成されてきたものだからである。
 そうなると、性の問題一つに絞ってみた場合、結局それも、あなたならあなたの生まれついた家庭、地方、国家の信仰上のしきたりや親のしつけ等によって大きく影響を受けている筈である。そしてそれが一つの偏見となって、無意識の内にあなたの性生活を縛り付けている筈である。
 私はこれからそういったしきたりや偏見、タブーの一切から離れて、全く新しい自由な観点から性を検討してみたいと思うのである。あなたも暫くは一切の既成観念から離れて、虚心坦懐に私の意見に耳を傾けて頂きたいのである。
 第一に認識して頂きたいのは、性にはこれが正常といえるような基準又は標準はないということである。
 人間一人一人顔形が違うように性欲の強さも千差万別であり、性的快感がもたらすところの心理的、感情的、知能的な効果も又千差万別である。あなたがこれが正常だと思い込んでいるのは実はあなたにとっての正常を意味するのであって、それを他人に当てはめて批評するのは間違いである。
 例えば体位の問題を取り上げてみても、かつてキリスト教の宣教師が太平洋諸島の布教に乗り出した時、男上位の所謂「正常位」を説いたら原住民は馬鹿馬鹿しいとばかりに大笑いをしたという話が残っている。原住民は原住民なりの楽しい体位があるわけで、それを正常と思っているのである。今でもそこの原住民は宣教師の説いた正常位のことを「宣教師体位」と呼んで笑いの種にしているという。
 この一例をみても分かるように、所変われば品変わるの譬で、性についての考えも小は地域により大は民族によって異なるのが実状である。性についての偏見を拭い去るには世界各地の性風習をあるがままに見ていくのが一番効果的のように思われる。
 現代の文明国では一夫一婦制が当たり前のように考えられているが、歴史を見れば分かるように、古代は無論のこと、つい近世まで、いずこの国でも一夫多妻が一般的であった。その例を中国に見てみよう。
 西洋人はモーゼを文明の始祖のように考えがちであるが、モーゼの時代つまり今から五千年前には中国は西洋より遙かに高度の文明を持っていた。既に文字があり、優れた詩人や劇作家がいた。三千年前には絹織物を完成し、陶器の製造法を考案し、印刷術も発明していた。孔子の如き大思想家が輩出して透徹した人生訓を残している。
 その中国の性観念は至って単純で正直であった。つまり性は楽しむべきものである。が、度が過ぎると飽きが来るから、夫婦で色々と工夫をこらし勉強もしなくてはならない、というものであった。
 男が妻を娶る。妻は夫を喜ばせるべく秘術をつくし、夫も妻に不満の残らないよう工夫する。仕事の上でも孔子の訓えを忠実に守って、夫は夫として妻は妻としての義務に勤しむ。
 が、やがて子供が出来る。妻には母親としての仕事が付加されるから、夫に対する妻としての勤めが疎かになる。そこで二番目の妻を娶る。若くて元気だから夫は満足し、家事の手伝いもするから正妻も助かる。
 が、その二番目の妻にもやがて子供が出来る。すると男はあっさりと三番目の妻を娶る。妻としてではなく妾として何人かの女を置く者もいる。或いは遊郭にはけ口を求める者もおろう。中国ではこうしたことが別に「悪い」ことではなく、トラブルの原因となることもなく、ごく当たり前のこととして認められていたのである。

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 趣は少し異なるが、古代ギリシャにおいては男女共に肉体美そのものを崇拝した。男性は観衆の前で一糸纏わず肉体を披露し、女性は腰の回りにごく簡単なものを纏うだけでその肉感溢れる美を披露したものだった。そこには淑女ぶった態度も羞恥心もない。ひたすらに自分の肉体の美しさを自慢し、見る者は又それを賛美したのだった。
 当然のことながら、この風習は性生活そのものにも反映し、肉体的快楽を求める風潮が強かった。同性愛も盛んで、別に異常とは見なされなかった。
 インドにおいても性の悦びを心行くまで楽しもうとする風潮は強く、古来、単なる動物的交接以上の楽しみを得る為の工夫がなされてきた。その指導書が、今では古典として残っている有名な『カーマ・スートラ』で、性生活におけるマナーやエチケットまで細かく指導している。今日ではいささか陳腐な感じも無いではないが、その説くところは至って健全で範とするに足るものが少なくない。
 概して、欧米人はエチケットにはとても厳しい。かつてアメリカでベストセラーになったものに、エミリー・ポストという女性の書いたエチケットの本があった。社会生活を営む上でのエチケットとマナーを説いたものであるが、非常に砕けていて、全体的に自由主義的思想が行き渡っている。その点、インド人のエチケットは堅苦しく形式的な面が強いが、そのインドにおいて、世界的にも有名なカーマ・スートラという性生活のマナーとエチケットの本が出たという事実は注目に値する。人間生活において、性生活がいかに重要であるかを示していると見てよい。
 同じような傾向は日本においても見られる。日本とインドとの間に性思想の交流があった歴史もないのに、両国には非常に似通ったものが見られる。性は楽しむべきものであり、本来楽しいものなのだ。美味しい食事、心を和ませる生け花、精神を落ち着かせる掛け軸などと同じように、人間生活を豊かにする要素として性を扱ってきた。遊郭が芸術の温床のような役割を果たしていた点は、日本的性観念を示す大きな特徴として注目してよい。
 もう一つ、日本の風習で面白いのは男女が混浴する温泉場があることである。そこではヨーロッパ人が想像するように羞恥心を感じる者は一人もいない。それどころか、日本に来るヨーロッパ人までが平気で入るようになるというから不思議である。やはりそれが自然だからではなかろうか。

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 次に、アラブにはインドのカーマ・スートラによく似た『香の園』という性愛の書がある。これも性の技法から作法、心がけなどを説いたもので、中々高度な中身をもっている。その根本思想はやはり性愛を一種のレクリエーションと見なし、その悦びを素直に堪能すべきだというところにある。
 元々アラブ人は、男女の数が平均している社会では一夫一婦制が好ましいという考えをもっていた。が所詮、それは理想であって、一方において男の本能が許さず、他方又妻が家事に追われて夫への配慮を忘れていくことが一夫一婦制の維持を困難にさせたというのが実状である。
 戒律の厳しさで知られるユダヤは、その歴史をみると厳しくしなければならないそれなりの理由があったのである。ユダヤの戒律といえばモーゼの十戒を思い出すが、当時のモーゼは実は非常に難しい問題を抱えていた。奴隷として働かされていたイスラエル人を大挙してエジプトから脱出させたのはよいが、これを統率していくには奴隷根性を捨てさせて民族意識と誇りを持たせ、良い意味での闘争心を植え付けねばならない。
 一方、土地は荒涼としていて、太陽は灼熱の如く照りつける。こうした環境の中ではまず第一に体力の無駄な消耗を防ぐことが要求される。次に一単位として家族の団結が要求される。ユダヤの戒律はこうした環境を背景として生まれたことを理解しなくてはいけない。
 長い年月に亘って戒律に縛り付けられてきたユダヤ人は、その戒律の正当性を云々するよりも、戒律を犯すことの罪意識の方が先に立つ。例えば、姦通罪は姦通そのものが罪だという意識よりも、姦通によって出来るかも知れない子供が法律によってユダヤ人として認められないから困る、という意識の方が強いのである。子供は女が産む。そこで、ユダヤの法律は女に厳しく出来ていた。姦通罪も女の方にだけ適用された。男には姦通罪はなかったのである。

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 南アメリカのアマゾンの奥地に面白い結婚の風習をもつ人種がいる。男が結婚年齢に達すると首長の所へ出頭する。すると、首長はその男の性格や能力を検討した上で適当な嫁を探してやる。興味深いのは、その嫁は決まって中年の未亡人だということである。中年であるから家事はもとより性生活のテクニックも心得ているから、若い旦那は満足するに決まっている。いわば嫁が母親的役割を兼ねる訳である。
 が、やがて年上である妻の方が先立つ時期が来る。すると又首長の所へ行く。首長は今度は若い嫁を世話する。嫁は何事につけ未経験だが、男は既に万事に知恵と体験がある。若い嫁は男にリードされて心行くまで性の悦びを味わい、男の方は忘れかけていた青春の喜びを呼び戻すことになる。いわば旦那が父親的要素を兼ねている訳である。
 が、今度は旦那の方が先立つ時期が来る。すると、女は首長の所に出向いて若い婿を世話してもらう。若い旦那は経験豊富な嫁にリードされて抵抗なく夫婦生活を営み、一方中年の嫁は若々しい男の性に、忘れかけていたものを呼び覚まされることになる。
 こうした風習が今日でも実にスムーズに抵抗無く行なわれていると聞くが、私はこの種族は決して野蛮とは言えないと思うのである。

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