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カテゴリ:★『各種霊的知識』 > テスター 『死』とは何か

テスター 『死』とは何か 目次

『死』とは何か-悩める人へのガイドブック

自分とは一体何だろう

なぜこの世に生まれて来たのか

自由意志はあるのだろうか

悪いことをするとバチが当たるか

自殺と死産と幼児の死について

背後霊とは

死ぬ時はどんなふうになるのか

霊界にも結婚生活はあるか

死ぬ前にどんな準備をしたらいいか

自殺ダメ



 『背後霊の不思議』 M・H・テスター著 近藤千雄訳より


 モーリス・テスター
 二年間激痛に苦しめられたヘルニアを、心霊治療家テッド・フリッカーによって、僅か十分間の手当で治された。同氏から「あなたにも治病能力がある」と指摘され、間もなく治病能力を発揮、英国でも指折りの治療家として活躍した。1987年12月他界。



 今、仮に医学関係の図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物が所狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。我々門外漢-門外婦人とでも言うべきか-の為の本も大変な数である。それに加えて最近では至る所で婦人の為の講演があり、診療所があり、テレビ番組がある。人間の誕生については驚くべき段階まで研究が進んでいると言える。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。
 さて、無事出産の過程を経てこの世に出て来ると、今度は、いかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく、目にも見せてくれる。最近出版された人生の書をちょっと拾ってみても-
『人を動かす』、『一年365日をいかに生きるか』、『生涯を生き生きと暮らす法』、『悩みを忘れて生きる法』等々がある。
 地球を破壊するか、それとも無節操な快楽の場にするか、そんなことに躍起になっているように思える今の時代に、こうした真面目な人生指南の書が次々と出ていることは注目すべきことではある。
 もっとも、難解な人生哲学ならいつの時代にもあった。が、そうした哲学書は神学者か大学出のエリートが読むものと相場が決まっていた。又誰しも何らかの人生の書に接する時期はあるもので、バイブルなどもある意味では人間の生き方を説いた書であり、かつては(西洋の)どこの家庭でもこれを人生訓として父親が読んで聞かせたものである。今日の人生訓と異なるのは、最近のものが平易な日常語で書かれていて、誰にでも理解出来るという点である。実際それは徹底して大衆を相手に書かれているのである。
 これでお分かりの通り、今や我々は、この世にいかに生まれいかに生きるかについては、ありとあらゆる知識を手にしたと言えよう。が、いかにして死ぬか、についてはなぜかまだ一冊もお目にかかっていない。
 一冊もないというのは語弊があろう。死とは何かという問題を扱った書物があることは私も認める。が、それは皆宗教家の書いたものである。宗教家というのは、まず第一に宗教的理論に終始するという点、第二にいかなる教えもその人の宗派的教説から離れることを許されないという点、この二点において徹頭徹尾一つの枠の中に閉じ込められている。しかも大方の宗教は古臭い罪と罰の教義の上に成り立っている。真面目に生きておれば報われ、悪いことをすると罰せられるというのである。が、現実には必ずしもそうでないから、それは死んでから裁かれるのだと言い出す。すなわち、真面目にしておれば天国へ行き、悪いことをすれば必ずや地獄へ行くのだ、と。
 こうしたいい加減なハッタリ理論は当然正常な思考を歪めてしまう。宗教家は天国と地獄、罪と罰の理論からしか死の問題を扱えないのである。
 私は書物を読んでいていつも感じるのであるが、本当によく解った人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実に解り易いのである。が、よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で用語をこしらえるので、普段理解している意味で読んでいくと理解出来ないところが出て来る。読み終わってみると、読み始める前よりも一層分からなくなっている、といったことになる。
 死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が一度も死を経験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。
 こうなると、平凡人が死について迷うのも無理はない。歳を取り、死が近づいて来ると、遅ればせながら何か死後の保証のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそ教会へ通い始めるのもその現れである。慈善事業に寄付したりするのもその為である。そして、いいおじいちゃん、或いはおばあちゃんと言われるように努力し始める。それもこれも、六、七十年に亘って人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうした僅か二、三年或いは数年の〝立派な行い〟によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。
 もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それもお座なりの宗教的教説に縛られず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間-霊界のスピリット-によって書かれた死の参考書が必要なのである。
 死ぬということは生きるということと全く同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日一日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければ行かなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身で通したければそれでもよい。が、死だけはそうはいかない。必ず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を買われたお金も決して無駄ではないであろう。

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 あなたがまず第一に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教え込まれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。天国も地獄も忘れよう。天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたり虐められたりするとか、そんな子供騙しの観念を拭い去ってしまおう。
 更に、〝最後の審判〟の教えも忘れてしまおう。要するに聖典教典の類を忘れてしまうのである。そして死というものを一度も考えたことのない自分に戻るのである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。更に今度はその前、つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そして更にその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に・・・
 こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く。喋る。歌う。車を運転する。が、肉体そのものがそうしているのではない。そうしたことをさせる何かが内部にある。その何かが〝精神〟である。ではこの精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操る、いわばコントロール・ルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発しているのである。
 脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。が、その脳を取り出して瓶の中で保存することも出来る。やはり脳も身体の一部に過ぎないことがこれで分かる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それを買って食べる人もいる。
 実はこうしたものとは全く別に、第三の要素があって、それが肉体と精神と共にあなたという一個の人間を構成しているのである。その第三の要素がスピリットである。そのスピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神を纏って生活しているのである。
 ではその証拠を見せてくれ-あなたはそう仰るかも知れない。スピリットを見せろと仰るかも知れない。が、スピリットは人間の目には見えないのである。ここに一人の人間がいる。衣服を剥ぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴を開ければ脳味噌が見える。が、スピリットはどこにも見当たらない。
 死体を御覧になったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうその人はそこにはいない。ただの抜け殻。肉と骨と繊維の塊にすぎない。放っておくと直ぐに腐敗するので穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。
 その死体がその人そのものだったのだろうか。その肉の塊が愛し、喜び、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、創造力を働かせ、理論を立て、異性に求愛したのだろうか。誰にもそうは思えない。何か大切なものが失われている。つまりスピリットが脱けているのである。つまりその肉体は死んだのである。
 人間は肉体と精神とスピリットの三つの要素から出来上がっている。そのことをしっかりと認識して頂きたい。この地上を旅する為の道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、一個の生命体としての存在を与えているスピリット。この三つである。
 死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。〝自分〟は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質体を通して六、七十年の地上生活で自分を表現しているのである。

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 実はこの世とは全く別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやって来た。そして、又そこへ戻って行くのである。この世と違うと言っても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が違うのである。
 仮にリップ・ヴァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が百年後の今地上に戻って来たとしよう。そこであなたはこう教えてあげる。
 「あなたの身の回りには無数の音楽が流れているんですよ。交響曲もあり、ダンス音楽あり、行進曲あり。歌もあるし、喋っている人もいるし、劇もやってますよ」と。
 それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いするであろう。そこであなたは、やおら、ポケットからトランジスタラジオを取り出してスイッチを入れる。成る程、色んな声、色んな音楽が聞こえる。リップは狐につままれたような気分になるであろう。
 実はスピリットの世界もこれと同じなのである。我々の身の回りに常に存在している。ただ波長が異なる為に感じられないだけである。従ってそれを感じ取ろうと思えば、トランジスタラジオのような特殊な受信器が必要である。それが所謂霊能者又は霊媒と呼ばれている人達である。
 私は今ガイドブックを書いているのであって専門書を書いているのではない。あまり入り組んだことは述べない。スピリチュアリズムの専門書なら沢山出ているから、細かいことはそちらにお願いして、私はただ案内するだけに留めたい。
 スピリットは常に進化を求めて活動している。この為には経験と教育と悟りが必要である。地上という所は地上でなければ得られない特殊な体験を提供する所である。言ってみれば特別の教育施設、それも極めて基礎的な教育を授ける場である。あなたがこの地上に来たのはその教育を受ける為である。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦とチャンスを求めてやって来たのである。
 地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。所謂背後霊である。あなたと同じ系統に属するスピリットで、困難や悩みに当たってアドバイスをしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。実はあなたがこの世に来るに際しては、その背後霊(となるべき仲間)と一緒になって地上で辿るべき工程と体験について検討し、最終的にはあなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。
 その仲間達は予め地上を霊界から調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間達に別れを告げる。これはあなたにとっても仲間達にとっても悲しみであろう。というのは地上生活中も背後霊として援助するとは言っても、その意識の疎通は肉体によって随分制限されるからである。やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間を狙って、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。
 ここでちょっと横道へ逸れるが、今世界で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。今言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、所謂産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットは宿っていないからである。が、一旦受精(妊娠)したら、既にそこに生命が宿っていると考えねばならない。
 それ故に堕胎は一種の殺人行為と考えねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は九ヶ月に亘って母体の温もりと気楽さの中で生長する。そして十ヶ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命は既に受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間に霊界から地上に移行するのである。
 我々地上の人物は子供が誕生すると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当たり前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した際、霊界では悲しみを味わっている。なぜなら人間界への誕生は即ち霊界への別れだからである。反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。なぜなら仲間と再会出来るからである。
 さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任は全て自分にある。
 苦難に直面したり病気になったり、大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。
 「どうして私はこんな目に遭うのでしょうか。私は真面目に生きて来たつもりです。人を傷付けるようなことは何一つしていません。なのになぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。
 実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。が、そうやって鍛えられて初めて一段と立派な刀となるのである。苦しみ悩んで初めて霊的に成長し、この苦難を乗り越えるだけの力が身に付くのである。
 そんな不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受け止めて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得、そうした神の試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。
 要するに地上生活は勉強なのである。人生が与える様々な難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身に付けるか、それがあなたの霊的成長の程度を決定付けるのであり、更にどれだけ高度なものに適応出来るかの尺度ともなるのである。

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 人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。この自由意志と宿命についてはとんでもない説が横行している。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。人生は既に〝書かれてしまっている〟-つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どう足掻こうと、なるようにしかならないのだと観念して乞食同然の生活に甘んじる。
 もう一方の極端な説は、何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけて生きていく連中である。物事の価値を全て物質的に捉え、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。
 両者共完全に真実を捉え損ねている。まず宿命について考えてみよう。仮にヨーロッパの白色人種として生まれたとしよう。これだけは変えようにも変えられない。黒人に生まれる可能性もあったし東洋人に生まれる可能性もあった。が現実は長身で細身で色白、そして青い目をしている。両親の系統の遺伝的特質を少しずつ受けている。これもどうしようもない。
 又、あなたはこの二十世紀に生を享けた。出来ることなら十六世紀に西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、どうしようもない。そうした条件の下であなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも決まっている。どんな人生を送るか、その大よその型も決まっている。また苦難の内容-病気をするとか、とんでもない女と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気-こうしたこともみな予め分かっている。
 あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。但し地上生活中のある時期に必ず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。これも分かっている。
 宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意志はあってもその因果律の支配からは逃れることは出来ない。水仙の球根を植えれば春になると水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。
 それは極めて単純な法則である。科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為には必ず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。
 先に、地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際は僅かながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔を覗かせることがある。その程度は人によって異なるし、霊的進化の程度にもよる。
 例えば、酷い痛みに苦しんでいるとする。仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。散々苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って、奇跡的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧き出る。
 実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。この機に、その感謝と喜びの気持でもって、自分に奇跡をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来上がっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとっての神の啓示の時なのである。
 こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちの道をとるかに迷っている時が考えられる。道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。左をとれば確実に大金が入るが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる、といった場合もあるであろう。神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間である。
 更にもっと日常的な例では、自分自身は厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐をもって臨む、その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。
 因果律は絶対に変えられない。歪めることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶのである。生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種-こうした枠組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。

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