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カテゴリ:★『各種霊的知識』 > 祈願の本来の目的と意義

祈願の本来の目的と意義 目次

浅野和三郎の講演から

《かんながら》に欠落しているもの

敬神崇祖

自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]



 信仰には、本来、組織は不要の筈である。かんながら流に考えれば、家の中に質素な神棚があって、地域に氏神、即ちその地域の守護神を祀る神社があればそれで十分な筈で、更に理想を言えば、霊覚の鋭い霊能者、治癒力の強いヒーラーがいてくれれば申し分ないのであるが、現実は、いい加減な霊能者やヒーラーが法外な礼金を取ったり低俗な教えを説いたりしていることが多い。
 地上界は様々な意識レベルの人間が同じ平面上で生活している世界である。従ってその中に、どこかの組織に属している方が心が安まるという人がいてもおかしくはない。その意味では組織宗教の存在意義も皆無とは言えない。
 一方「○○教」という看板を掲げながら、実質的には教祖ないしは中心的指導者の人格及び霊格の高さが多くの信奉者を引き寄せ、看板も組織も有って無きが如きサークルもあれば、反対に「組織はいけない」「宗教になってはいけない」と公言しながら、暗々裏の締め付けによって実質的には営利を追及し、おまけに常識的な論理道徳にも悖(もと)るような人間関係がはびこっているサークルもあることを筆者は確認している。
 そうした事実を踏まえた上で、では一体、日常生活で一番大切なのは何かと言えば、守護霊を中心とした背後霊との感応道交であろう。抽象的に響くかもしれないが、難しく考える必要はない。要するに背後霊団が指導しやすい精神状態を維持することである。
 それは必然的に正しい信仰のあり方の問題となってくる。その答えを次の二つの論説から読み取って頂きたい。いずれも、先に紹介した浅野氏の講演『神社と祈願』から引用するのであるが、その中に出てくるマイヤースの通信部分は筆者自身の訳文と差し替えたことをお断りしておく。

 つらつら考えるに、祈願又は祈祷の起源は、人間が人間を超えた存在を認めてこれを依存せんとする心持の表れで、非常に古い歴史を持っているのであります。そしてそれは恐らく思索の結果というよりは寧ろ感情又は本能の所産であって、ある程度、理屈抜きで自然に始められたものでありましょう。
 さて、祈願にも色々種類がありますが、中でも最も原始的なのは恐らく一つの哀願、つまり困った時の神頼みでありましょう。俗にこれを現世利益だのご利益信心だのと申します。これもある程度は仕方ないでしょうが、ただ困るのは、それがあまりにも私利私欲の色彩を帯びることであります。こんな祈願は神様に通じないどころか、ややもすると茶目っ気たっぷりの動物霊などに通じますから、お気をつけください。
 もう一つ祈願で困るのは、口癖の文句の行列になることであります。どこの神社に詣でても、いつもすらすらとオウムのように決まり文句を並び立てえる。これでは、ご本人の耳には届くかもしれませんが、到底神様には通じる筈はありません。祈願には熱と力が必要です。つまりそれがやむに止まれぬ衷心の思想・感情の勃発したものでなければならないのであります。
 つまるところ祈願は、それが単独の私的祈願であろうが多数合同の公的祈願であろうが、いずれにしてもまず動的であり、また積極的であることを要し、さもなければ祈願の甲斐がないのです。(中略)
 フランスの神経専門家のバラダック博士は先年多くの実験を行い、人間の放射線を写真に収めました。それは、ある特別に調整された種板を用いて空間を写すのですが、ある大勢による祈祷会でそれを試みると、大衆の頭上に飛竜のような大円柱が現れた。
 それから又、熱心なカトリック信者のローカス大佐の身辺を写してみると、その種板には頭上約一メートルの辺りまで上昇しているシダ状の光体が現れた。これらの実験が何を物語るかは甚だ明白で、熱情を込めて祈願すれば、その人の体内から一筋のエネルギーの流れが放射されるということです。口から出る言葉は空気に振動を与えるだけなのであります。
 私は今ここで、いかなる祈願がいけないかを判で押したように決めることは出来ません。人間の発達程度には一人一人差があり、従ってある人にとって適当な祈願が別の人にも適当とは言えない。日本国内にも色々な種類・性質の神社が必要視されているのも、その為でありましょう。
 が、祈願の概括的指針をしては、出来る限り私利私情を遠ざけよ、というのが古今東西の識者の等しく推薦するところであります。マイヤースの通信にもこんなことが説かれています。

 マイヤースの通信から

 それ故、祈りの行為に入る時は神の国に入ろうとしていることを忘れてはならない。即ち、ちまちまとした日常の煩悩の世界から無限の世界へと入るのである。永遠の生命と一体となろうとするのであり、従って純心で一途な目的を持ち、疑念や恐怖心や不信、その他諸々の地上的煩悩を捨て去らねばならない。なぜなら、そうしたものが神の国への門を閉ざすからである。
 神へ近付く道について本格的に書けば一冊の書物になるであろう。しかし、いかなる祈りにせよ、祈る場所によって神聖化されるものでないことを知って頂きたい。寺院、教会、大聖堂、こうした場所は大霊との交わりを得ようとするその心を正しく導く上では効果があるかも知れないが、世俗から隔絶した山中でも、小我から脱する為の条件は同じである。要するに恐怖心、不信感、利己心、怒り、妬みといった煩悩を振り落としさえすればよい。こうした雑念は小鳥を捕える罠のようなもので、祈りの翼をもぎ取ってしまう。
 カモメを思い浮かべて頂きたい。断崖絶壁にある巣を飛び立って地球を離れると、海の上を素早くそして雄大に飛翔し、気流に乗って高く高く舞い上がって行く。人間が祈る時は、このカモメのように魂を世俗から断絶して飛翔させ、創造の大霊を求めて上昇しなくてはならない。
 私の説くところは完璧を要求しているかに思えるかもしれない。が、各自それぞれに分相応の努力をすればよい。各自の知性並びに情的本性に応じて、私が述べたことを人生に応用して頂きたい。
 但し一つだけ共通して言えることは、口にする祈りの言葉の背後に確信と誠意がなくてはならないということである。たとえ教養はなくても幼子の如く純心な羊飼いの方が、教会の最高の地位にある者よりも、天の父のもとへ確実に至ることも有り得る-無心に、そして信念をもって祈れば、のことであるが・・・
 そういう次第であるから、年齢を重ね、青年期から中年期へと至り、煩わしいことや複雑な人間関係で雁字搦めになった中で祈る時は、より慎重に自己を見つめ直し、神に向かって自分の願い、或いは他人の為の願いを申し述べることは取りも直さず神の聖域に足を踏み入れることであることを忘れないで頂きたい。

自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]


 世界の三大宗教を初めとして、他の全ての宗教に共通して言えることは、宗教的論理・道徳については独自の規範でそれなりに細かく説いていながら、実在としての死後の生活の概念が欠落しているか、ないしは非常に稀薄なことである。死後の概念はあっても実生活が説かれていないのである。
 これを別の角度から見れば、地上の現実界が実在界であって、死後に存続するのは通俗的に「霊魂」と呼んでいる曖昧なもので、それには活動的生活の概念はなく、いずれは消滅して行くものらしいのである。
 その一方で、キリスト教も仏教も「地獄・極楽」説を説く。いわば善と悪の二元論であるが、科学的知識がこれ程進み宇宙観が果てしなく広がっている時代に、そんな単純な理論で納得する人間は一人もいない筈である。少なくとも「考える」ということを知った人間なら、「足し算」と「引き算」だけの計算で済むかのような子供騙しの説では、とても納得出来る訳がない。
 キリスト教ではイエス・キリストへの信仰を告白すれば永遠の生命を授かると説くが、イエス自身はそんなことは言っていない。イエスと共に永遠に賛美歌を歌うなどという退屈この上ない天国説、炎で焼かれ続けるという、明らかに化学的法則に反する地獄説、そんな教義は西暦325年のニケーア会議で勝手にこしらえられたもので、所謂“でっち上げ”である。
 このニケーア会議での陰謀については拙著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版)で詳しく紹介してあるので、感心のある方は参考にして頂きたい。
 仏教も、まともに考えたら、おかしなことだらけである。根本経典とされているものは釈尊の死後三百年から五百年の間に何度が行われた会議で纏められたものだそうであるが、どの経典も冒頭に「如是我聞」、即ち「私はこのように聞いています」とあるように、それが正確かどうかは分からないし、たとえ「正確」であっても「真実」であるとは限らない。
 しかもそれが中国語に翻訳されて日本に移入されたというのであるから、ますますもって危うさを感じずにはいられない。『神道論』の石村博士は、輸入された仏教の哲理は容易に理解されず、影響を及ぼし始めるのに半世紀は掛かった筈だと述べているが、その理解もあくまでも日本人的理解だった筈で、釈尊の教えを正確に理解したか否かは判断の限りではない。失礼ながら現代の仏教学者も僧侶も、その点に関する限り同列であろう。
 筆者の知る限り、歴史上の宗教家で死後の現実味のある生活を説いているのはイエスくらいのものであろう。「父の国には多くの家がある」とか「死後は後なる者が先になり、先なる者が後になることが多い」といった表現からそれが窺われる。
 「先なる者が後になることが多い」とは、この世で上流階級だった者や地位の高かった者が死後の世界でみすぼらしい状態に置かれていることが多いことを述べたもので、現代の啓示でもそのことに言及したものが多い。
 翻(ひるがえ)って《かんながら》の思想を見るに、「人は祖に基づき、祖は神に基づく」といった表現によって大雑把ながら他界者の実在を暗示していることは認めるが、そこに具体性が欠けている。特に地上生活と死後の生活との因果関係についての言及が全く見られないのは重大な欠陥と言わざるを得ない。
 スピリチュアリズムの霊界通信、私の言う「現代の啓示」によって明らかにされた死後の世界については八章で詳しく扱うが、死後もやはり地上と同じく主観と客観の生活が営まれており、そこでの幸不幸は地上時代の精神的並びに身体的行為がいかなる性質のものだったかによって決まるという。

自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]


 締めくくりとして浅野氏の『心霊研究とその帰趨』から一部を抜粋して参考に供したい。

 日本の伝統的思想は、人は祖に基づき祖は神に基づく、と教えているが、近代心霊研究の結果はこの言葉が正しく科学的事実に相違ないことを実験的に証明する。この点において日本国民は世界の民族の中で最初から最も恵まれた地位に置かれたことを感謝してよい。他の民族にあっては、ややもすれば敬神はあっても崇祖がなかったり、崇祖はあっても敬神がなかったりする。これでは甚だ不徹底である。
 幽界以上には我らの祖先の霊を初め人類の遠祖である偉大なる存在、所謂自然霊が厳然と存在し、首尾連関、四通八達、もって深遠奥妙なる造化の経綸に当たりつつあることは、今日では最早一点の疑を挟む余地がない。(中略)
 但し、敬神崇祖の意義を曲解し、若しくは乱用して、かの漫然たる無批判的迷信の材料に供されては堪らない。心霊研究の結果からすれば自然霊にも人霊にも大小・高下・善悪・賢愚など無数の階級があり、従って人間がやたらなものを崇拝することは禁物である。
 自然霊の中の一部は低級未発達のいたずら者で、全く箸にも棒にもかからない。ただ、優れたのが途方もなく優れているまでである。人間の霊だとて、生前良い者は良く、悪い者は悪いのである。死は万事の解決でも何でもない。物質界から超物質界への関門に過ぎない。従って我々は死者に向かっていたずらに余り多くを期待してはならない。
 ただ、我らの優秀なる祖霊中には現世に比して遙かに理想的な境涯において、百年千年にわたって不断の精進努力を続けた結果、しばしば驚嘆すべき見識力を発揮するようになっているのがいる。
 なお、ここで忘れてならないことは、この敬神崇祖という言葉の反面に、報本反始(ほうほんはんし)-元に報い初めに帰る、つまり先祖の恩に報いること-の意義が多分に含まれていることである。善くても悪くても本は本、先祖は先祖である。根を培わずして枝葉の繁茂することは到底期待されない。ここに祭祀の本義がある。
 人間がその眼を単に上方にのみ向けるのは決して醇呼(じゅんこ)たる宗教心の発露とは言えない。人間の眼は同時に下方へ向かっても注がれるべきである。仏教が特に済度・慰霊・供養等に力点を置いているが為に一般民衆の間に中々根強く勢力を張っていることは、深く慰留すべき事柄であると思う。

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