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日露戦争時の不思議な話
自殺ダメ
『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』近藤千雄著より
P68の途中(霊視の話)から引用
日本語に〝千里眼〟という言葉があるところをみると、同じような話がよくあったのであろう。近代の有名な話としては、日露戦争で勇名を馳せた秋山眞之海軍中将の話がある。敵艦の作戦行動に関する二つの霊視体験で、それを浅野和三郎氏に細かく語り明かしている。
「誤解を受けますから誰にも発表したことはありませんでしたが、あなただけにお話します」
と前置きして、次のように語ったという。長文の引用になるが、貴重な資料なので煩を厭わず紹介する。(漢字・かな一部修正)
《一つは、ウラジオ艦隊が突出して常陸丸を襲撃した時のことだった。日本の上下はこの奇襲に遭って色を失って震駭(しんがい)した。
秋山さんは当時東郷艦隊の参謀として軍艦「三笠」に乗り組み、旅順の封鎖任務に従軍していた。無線電信で右の状況は頻々として報告されるが、勿論東郷艦隊としては旅順の沖を一時も離れることは出来ない。その時の秋山さんの苦心焦慮は極点に達した。
人間がいかに知能を搾ってみても到底決しかねる時、人間がサジを投げて神の前にひれ伏した時、神は初めてまごころの人間を助けるということ、この際秋山さんは初めて体験したのだった。
終夜考え尽くして考え得ず、疲労のあまりトロトロとまどろんだと思った瞬間、秋山さんの眼の中が東雲(しののめ)の空のように明るくなり、百里千里の先まではっきり見え出した。ふと気が付いてみると、眼中に展開したのは日本の東海岸の全景で、そして津軽海峡が彼方に見えるではないか!
なお仔細に注意して見ると、今しも三隻の船が津軽を指して北へ北へと進航する。その三隻は夢寐(むび)の間も忘れ難い、かねて見覚えのあるウラジオ艦隊のロシヤ、リューリック、グロムボイではないか!
「あいつども、日本の東海岸を廻って津軽へ抜けるのだな・・・」
そう直覚した瞬間に、海も波も艦も一時にパッと消えて、パッチリと眼が開いた。夢か、夢にあらず、現(うつつ)か、現にあらず。秋山さんは生まれて初めての経験とて、しばし戸惑い気味であったが、これはかねて聞き及べる〝霊示〟というものではないかと気付いた時に、言い知れぬ感激に打たれた。この時分から、〝天佑〟〝神助〟という考えが秋山さんの胸から寸時も離れなくなった。
右の霊示によって秋山さんはウラジオ艦隊が太平洋を廻って津軽海峡に抜けることを自分では確信したが、さて、いかなる形式でこれを公表すべきかについては、いささか困ったそうだ。
「今朝、霊夢によって知らされた・・・・」
などと言ったところで、海軍内部の人達は神霊の実在など知らぬ者ばかりだから、単に冷笑を買うだけに終わる。仕方がないので秋山さんは、霊夢のことは自分の胸に仕舞い込んで誰にも語らず、単なる理知の判断で敵艦隊の行動を推察したことにして、こう意見を発表した。
「自分はウラジオ艦隊が必ず太平洋に突出して、津軽海峡を通過してウラジオに帰航するものと確信する。上村艦隊はこの推定のもとに行動を起こし、日本の捷路(しょうろ)を取り、津軽海峡の内面において敵艦隊を扼(やく)すべきである。敵艦隊の後を追いかけて太平洋に出るのは、空しく敵を逸するおそれがある・・・」
この意見は無電で軍令部にも上村艦隊にも通達されたが、惜しいかな、当事者達はこれを採用しなかった。その結果、〝流星光底に長蛇を逸〟し、敵は悠々として津軽海峡を通過して、ウラジオストックに入ってしまった。
秋山さんのもう一つの霊的体験は甚だ重要なもので、例の日本海海戦当時の出来事だった。
日本艦隊のこの時の用意と覚悟とは実に想像の外にあった。根拠地を鎮海湾に置いて、敵の接近を今や遅しと待ちながらも、さて当局の心痛苦慮!敵は果たして対馬海峡にやって来るだろうか?来てくれれば有り難いが、万一太平洋を迂回し、津軽海峡か宗谷海峡を通過してウラジオに入られては大変だ・・・五月も二十日を過ぎてからは心身の緊張が一層極点に高まって行った。
旗艦「三笠」には幾度か全艦隊の首脳が集まって密議が行なわれた。この時の秋山参謀の責任は山よりも重かった。幾日かにわたって着のみ着のままでゴロ寝を続け、真に寝食を忘れて懸命の画策考慮に耽った。
「忘れもせぬ、五月二十四日の夜中のことでした・・・」
と秋山さんは当時を追憶しつつ話を続けた。
「あまり疲れたものだから、私は士官室へ行って椅子に体を投げた。他の人達は皆寝てしまった、室内には私一人しかいなかった。眼を瞑って色々考え込んでいる内に、ツイうとうとしたかと思う瞬間、私の眼の中の色が変わって来た。そして対馬海峡の全景が前面に展開して、バルチック艦隊が二列を作って、ノコノコやって来るのがはっきり見えるのです。
しめた!と思うと、私は正気に返ってしまった。こんな夢みたいなものに会ったのはこれで二度目ですから、私は直ちに、こりゃあ確かに神示だ!と直感しました。これでもう大丈夫だ!バルチック艦隊は二列を作って間違いなく対馬水道に突っかけて来る!これに対応するに第一段はこう、第二段はこうと、例の私の〝七段構え〟の計画が出来上がりました。
いよいよ二十七日の未明となって、御承知の通り、信濃丸からの無線電信で敵艦隊の接近したことが判り、とうとうあの大海戦という段取りになったわけですが、驚いたことには、敵の隊形が三日前に夢で見せられたのと寸分の相違もありませんでした。一目それを見た時に、私は嬉しいやら不思議やら有り難いやら、実に何とも言えぬ気持ちでした」
日本海海戦の檜舞台の花形役者から初めての打ち明け話を聞くのであるから、実に面白かった。作らず、飾らず、勿体をつけず、海軍流の淡白なしゃれた口調で物語ってくれるのが何よりも嬉しかった。》
『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』近藤千雄著より
P68の途中(霊視の話)から引用
日本語に〝千里眼〟という言葉があるところをみると、同じような話がよくあったのであろう。近代の有名な話としては、日露戦争で勇名を馳せた秋山眞之海軍中将の話がある。敵艦の作戦行動に関する二つの霊視体験で、それを浅野和三郎氏に細かく語り明かしている。
「誤解を受けますから誰にも発表したことはありませんでしたが、あなただけにお話します」
と前置きして、次のように語ったという。長文の引用になるが、貴重な資料なので煩を厭わず紹介する。(漢字・かな一部修正)
《一つは、ウラジオ艦隊が突出して常陸丸を襲撃した時のことだった。日本の上下はこの奇襲に遭って色を失って震駭(しんがい)した。
秋山さんは当時東郷艦隊の参謀として軍艦「三笠」に乗り組み、旅順の封鎖任務に従軍していた。無線電信で右の状況は頻々として報告されるが、勿論東郷艦隊としては旅順の沖を一時も離れることは出来ない。その時の秋山さんの苦心焦慮は極点に達した。
人間がいかに知能を搾ってみても到底決しかねる時、人間がサジを投げて神の前にひれ伏した時、神は初めてまごころの人間を助けるということ、この際秋山さんは初めて体験したのだった。
終夜考え尽くして考え得ず、疲労のあまりトロトロとまどろんだと思った瞬間、秋山さんの眼の中が東雲(しののめ)の空のように明るくなり、百里千里の先まではっきり見え出した。ふと気が付いてみると、眼中に展開したのは日本の東海岸の全景で、そして津軽海峡が彼方に見えるではないか!
なお仔細に注意して見ると、今しも三隻の船が津軽を指して北へ北へと進航する。その三隻は夢寐(むび)の間も忘れ難い、かねて見覚えのあるウラジオ艦隊のロシヤ、リューリック、グロムボイではないか!
「あいつども、日本の東海岸を廻って津軽へ抜けるのだな・・・」
そう直覚した瞬間に、海も波も艦も一時にパッと消えて、パッチリと眼が開いた。夢か、夢にあらず、現(うつつ)か、現にあらず。秋山さんは生まれて初めての経験とて、しばし戸惑い気味であったが、これはかねて聞き及べる〝霊示〟というものではないかと気付いた時に、言い知れぬ感激に打たれた。この時分から、〝天佑〟〝神助〟という考えが秋山さんの胸から寸時も離れなくなった。
右の霊示によって秋山さんはウラジオ艦隊が太平洋を廻って津軽海峡に抜けることを自分では確信したが、さて、いかなる形式でこれを公表すべきかについては、いささか困ったそうだ。
「今朝、霊夢によって知らされた・・・・」
などと言ったところで、海軍内部の人達は神霊の実在など知らぬ者ばかりだから、単に冷笑を買うだけに終わる。仕方がないので秋山さんは、霊夢のことは自分の胸に仕舞い込んで誰にも語らず、単なる理知の判断で敵艦隊の行動を推察したことにして、こう意見を発表した。
「自分はウラジオ艦隊が必ず太平洋に突出して、津軽海峡を通過してウラジオに帰航するものと確信する。上村艦隊はこの推定のもとに行動を起こし、日本の捷路(しょうろ)を取り、津軽海峡の内面において敵艦隊を扼(やく)すべきである。敵艦隊の後を追いかけて太平洋に出るのは、空しく敵を逸するおそれがある・・・」
この意見は無電で軍令部にも上村艦隊にも通達されたが、惜しいかな、当事者達はこれを採用しなかった。その結果、〝流星光底に長蛇を逸〟し、敵は悠々として津軽海峡を通過して、ウラジオストックに入ってしまった。
秋山さんのもう一つの霊的体験は甚だ重要なもので、例の日本海海戦当時の出来事だった。
日本艦隊のこの時の用意と覚悟とは実に想像の外にあった。根拠地を鎮海湾に置いて、敵の接近を今や遅しと待ちながらも、さて当局の心痛苦慮!敵は果たして対馬海峡にやって来るだろうか?来てくれれば有り難いが、万一太平洋を迂回し、津軽海峡か宗谷海峡を通過してウラジオに入られては大変だ・・・五月も二十日を過ぎてからは心身の緊張が一層極点に高まって行った。
旗艦「三笠」には幾度か全艦隊の首脳が集まって密議が行なわれた。この時の秋山参謀の責任は山よりも重かった。幾日かにわたって着のみ着のままでゴロ寝を続け、真に寝食を忘れて懸命の画策考慮に耽った。
「忘れもせぬ、五月二十四日の夜中のことでした・・・」
と秋山さんは当時を追憶しつつ話を続けた。
「あまり疲れたものだから、私は士官室へ行って椅子に体を投げた。他の人達は皆寝てしまった、室内には私一人しかいなかった。眼を瞑って色々考え込んでいる内に、ツイうとうとしたかと思う瞬間、私の眼の中の色が変わって来た。そして対馬海峡の全景が前面に展開して、バルチック艦隊が二列を作って、ノコノコやって来るのがはっきり見えるのです。
しめた!と思うと、私は正気に返ってしまった。こんな夢みたいなものに会ったのはこれで二度目ですから、私は直ちに、こりゃあ確かに神示だ!と直感しました。これでもう大丈夫だ!バルチック艦隊は二列を作って間違いなく対馬水道に突っかけて来る!これに対応するに第一段はこう、第二段はこうと、例の私の〝七段構え〟の計画が出来上がりました。
いよいよ二十七日の未明となって、御承知の通り、信濃丸からの無線電信で敵艦隊の接近したことが判り、とうとうあの大海戦という段取りになったわけですが、驚いたことには、敵の隊形が三日前に夢で見せられたのと寸分の相違もありませんでした。一目それを見た時に、私は嬉しいやら不思議やら有り難いやら、実に何とも言えぬ気持ちでした」
日本海海戦の檜舞台の花形役者から初めての打ち明け話を聞くのであるから、実に面白かった。作らず、飾らず、勿体をつけず、海軍流の淡白なしゃれた口調で物語ってくれるのが何よりも嬉しかった。》
稀有の霊覚者・黒住宗忠
自殺ダメ
[日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]
(P65の途中より抜粋)
こうした宗派は、ある奇跡的超能力の持ち主の恩恵を受けた人々が中心となって次第に信奉者が増え、やがてその人物が神の化身と崇められるようになって一つの組織を持つに至る、というパターンを経ていると思ってまず間違いない。
もっとも、中には黒住教のように、宗忠自身は「黒住の袋に入るでない」と、自分という一個の人間を崇めることを禁じたにも拘わらず、その死後に門人達が宗教として一派を立てるに至ったケースもある。が、いずれにせよ、スピリチュアリズム的観点からすれば、宗教は組織を持つに至った時点から堕落が始まるとみて差し支えない。
開祖の霊能者もいずれは他界する。それは、超能力という求心力を失ったことを意味する。他の能力や才能と違って、霊的能力は伝授出来る性質のものではない。努力して開発されるものではないのである。霊的能力が誰にでも潜在していることは事実である。が、ここで要請されているのは、病人や悩める人々を奇跡的に救う程の能力のことである。
ピアノが弾けるというだけのことであれば、子供から大人まで、どこにでもいくらでもいる。が、聴く者に感動を覚えさせる程の名演奏の出来る人は、そうざらにいるものではない。それにも努力は要るが、肝心なのは生まれついての才能である。霊能者も、こしらえられるものではなく、生まれてくるものなのである。
ところが、開祖を失った後継者達は、信奉者達を繋ぎ止める為の方策として、能力的には開祖とは比較にならない程劣ると知りつつも、或いは全く無能と知りつつも、二代目をその座に据えて初代の時と同じ体制を維持しようとする。ここから組織作りが始まる。つまり「営業(ビジネス)」である。
稀有の霊覚者・黒住宗忠
その一例を黒住教に見てみよう。黒住宗忠という人物は、一個人としてみた時は世界的にも稀有の霊能者で、特にその治病能力はイエス・キリストやハリー・エドワーズにも匹敵するものを持っていて、死者を生き返らせたことも一再ではなかったようである。
そのきっかけとなった奇跡的体験は、霊的指導者に相応しい劇的なものだった。簡単に説明すると-
青年時代に結核を患い、ついに余命いくばくもないと聞かされた時、宗忠はどうせ死ぬなら最後に一度だけ日の出を拝みたいと思い、妻の制止も聞かずに身を清め、這うようにして縁側に出て朝日に向かって手を合わせたところ、太陽から丸い塊が飛んで来た。宗忠が思わず口を開けたところ、それがその口にすっぽり入ってしまった。その瞬間から急に元気が出てきて、胸の病もみるみる回復し、信じられない速さで健康体になった。これを黒住教では《天命直授》と呼んでいる。
それから程なくして、雇っていた女中が腹痛で七転八倒しているのを見て思わず手を当てたところ、嘘のように治ってしまった。その噂が広まって次々と病人が訪れるようになり、それが皆嘘のように治るので、いつの間にか病気治しの専門家になり、その後は毎夜、日によっては二度も、各所での講話に出向いたという。
残念ながら宗忠は書き記すということを殆どしなかった。残っているのは日常の心がけを箇条書きにしたものと、和歌の形で真理を詠んだものだけで、従って宗忠にまつわる逸話も門人によって語り継がれたものばかりで、いくつかの矛盾撞着(どうちゃく)が見られる。が、そういう不思議なこと、凄いこと、素晴らしいことがあったということは、間違いなく事実であったに違いない。
スピリチュアリズム的な観点から見れば太陽から飛んできた塊というのは霊的な治癒エネルギーで、その後の驚異的な回復の様子から推察すると、余程高級な階層から送られたものであろう。宗忠自身は「天照大御神の御神徳」という表現をしている。いかにも時代を感じさせる神道的表現であるが、実質的にはその通りであろう。
三年にも及ぶ闘病生活は霊的指導者としての試練だった筈で、頼るものが絶無となった絶体絶命の窮地に立たされた者のみが発する「声なき絶叫」が祈りとなって高級霊界に通じたものと理解できる。「黒住教」というのは宗忠の死後、門人達の申請によって設立されたもので、宗忠自身は治病と講話の生涯を送り、無欲そのものだったという。
宗忠に関する参考文献に眼を通した限りでは余程の高級霊が降誕したものと推察されるが、同時に、宗忠を崇める門人達の著書からは、例によって宗忠を<神>として崇め奉る雰囲気が強過ぎて読むに堪えない。
こうした信奉者は当然のことながら死後も地上にいた時と同じ考えで宗忠を崇め奉り、地上の同じ程度の波動をもつ霊能者を通じてその教えを広めようとする。そういう集団が現存することを筆者は既に確かめている。
[日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]
(P65の途中より抜粋)
こうした宗派は、ある奇跡的超能力の持ち主の恩恵を受けた人々が中心となって次第に信奉者が増え、やがてその人物が神の化身と崇められるようになって一つの組織を持つに至る、というパターンを経ていると思ってまず間違いない。
もっとも、中には黒住教のように、宗忠自身は「黒住の袋に入るでない」と、自分という一個の人間を崇めることを禁じたにも拘わらず、その死後に門人達が宗教として一派を立てるに至ったケースもある。が、いずれにせよ、スピリチュアリズム的観点からすれば、宗教は組織を持つに至った時点から堕落が始まるとみて差し支えない。
開祖の霊能者もいずれは他界する。それは、超能力という求心力を失ったことを意味する。他の能力や才能と違って、霊的能力は伝授出来る性質のものではない。努力して開発されるものではないのである。霊的能力が誰にでも潜在していることは事実である。が、ここで要請されているのは、病人や悩める人々を奇跡的に救う程の能力のことである。
ピアノが弾けるというだけのことであれば、子供から大人まで、どこにでもいくらでもいる。が、聴く者に感動を覚えさせる程の名演奏の出来る人は、そうざらにいるものではない。それにも努力は要るが、肝心なのは生まれついての才能である。霊能者も、こしらえられるものではなく、生まれてくるものなのである。
ところが、開祖を失った後継者達は、信奉者達を繋ぎ止める為の方策として、能力的には開祖とは比較にならない程劣ると知りつつも、或いは全く無能と知りつつも、二代目をその座に据えて初代の時と同じ体制を維持しようとする。ここから組織作りが始まる。つまり「営業(ビジネス)」である。
稀有の霊覚者・黒住宗忠
その一例を黒住教に見てみよう。黒住宗忠という人物は、一個人としてみた時は世界的にも稀有の霊能者で、特にその治病能力はイエス・キリストやハリー・エドワーズにも匹敵するものを持っていて、死者を生き返らせたことも一再ではなかったようである。
そのきっかけとなった奇跡的体験は、霊的指導者に相応しい劇的なものだった。簡単に説明すると-
青年時代に結核を患い、ついに余命いくばくもないと聞かされた時、宗忠はどうせ死ぬなら最後に一度だけ日の出を拝みたいと思い、妻の制止も聞かずに身を清め、這うようにして縁側に出て朝日に向かって手を合わせたところ、太陽から丸い塊が飛んで来た。宗忠が思わず口を開けたところ、それがその口にすっぽり入ってしまった。その瞬間から急に元気が出てきて、胸の病もみるみる回復し、信じられない速さで健康体になった。これを黒住教では《天命直授》と呼んでいる。
それから程なくして、雇っていた女中が腹痛で七転八倒しているのを見て思わず手を当てたところ、嘘のように治ってしまった。その噂が広まって次々と病人が訪れるようになり、それが皆嘘のように治るので、いつの間にか病気治しの専門家になり、その後は毎夜、日によっては二度も、各所での講話に出向いたという。
残念ながら宗忠は書き記すということを殆どしなかった。残っているのは日常の心がけを箇条書きにしたものと、和歌の形で真理を詠んだものだけで、従って宗忠にまつわる逸話も門人によって語り継がれたものばかりで、いくつかの矛盾撞着(どうちゃく)が見られる。が、そういう不思議なこと、凄いこと、素晴らしいことがあったということは、間違いなく事実であったに違いない。
スピリチュアリズム的な観点から見れば太陽から飛んできた塊というのは霊的な治癒エネルギーで、その後の驚異的な回復の様子から推察すると、余程高級な階層から送られたものであろう。宗忠自身は「天照大御神の御神徳」という表現をしている。いかにも時代を感じさせる神道的表現であるが、実質的にはその通りであろう。
三年にも及ぶ闘病生活は霊的指導者としての試練だった筈で、頼るものが絶無となった絶体絶命の窮地に立たされた者のみが発する「声なき絶叫」が祈りとなって高級霊界に通じたものと理解できる。「黒住教」というのは宗忠の死後、門人達の申請によって設立されたもので、宗忠自身は治病と講話の生涯を送り、無欲そのものだったという。
宗忠に関する参考文献に眼を通した限りでは余程の高級霊が降誕したものと推察されるが、同時に、宗忠を崇める門人達の著書からは、例によって宗忠を<神>として崇め奉る雰囲気が強過ぎて読むに堪えない。
こうした信奉者は当然のことながら死後も地上にいた時と同じ考えで宗忠を崇め奉り、地上の同じ程度の波動をもつ霊能者を通じてその教えを広めようとする。そういう集団が現存することを筆者は既に確かめている。
明治の奇女・長南年恵(おさなみとしえ)
自殺ダメ
[とっておきのエピソード⑥ 日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]
十四年間も絶飲絶食、大小便は全くなし。それでいて相撲取りと腕相撲をしても負けない程頑健そのもので、肉付きも良かった。そしてその女性の周りで様々な霊現象が日常茶飯事に発生した。
これは、常識的には誰が聞いても「そんなバカな」と一笑に付すに決まっているが、しかし事実だったのである。真面目な科学的調査の対象とするに値する驚異的現象ばかりであったが、それが曖昧な官憲による弾圧で、ただの語り草で終わってしまった。その女性の名を長南年恵(おさなみとしえ)という。明治時代の話である。
この女性が世間で話題になっていた頃、後にこの道の先駆者となる浅野和三郎氏は新進気鋭の英文学者として翻訳と教育に携わっていた。その後、本文で紹介したような経緯で霊的世界へ飛び込んだ時は、年恵は既にこの世の人ではなかった。
残念に思った浅野氏は、せめてその真相でも確かめたいと思い、実弟の長南雄吉氏に面会した。その時の取材記事を頼りに概略を紹介すると-
□官憲による妨害
娘の頃の年恵の変わったことと言えば女性の生理が全くないといった程度で、それ以外に外見上これといって異常なところは見られなかった。それが三十五歳頃から、煮たり焼いたりしたものが食べられなくなり、ホンの小量の生水と生のサツマイモを摂るだけになった。弟の雄吉がわざと生水だと偽って湯冷ましを与えたところ、その水を吐き出したばかりでなく、その後で血を吐いた。何度やっても同じだったという。
それと同時に、家中で不思議なことが発生するようになった。いきなり家鳴りがしたり、いつの間にか品物が持ち込まれたりする。空中で様々な音楽が聞こえる。笛、篳篥(ひちりき=雅楽用の縦笛)、筝(こと)、鈴などによる合奏である。その音楽を聞きつけた人達が家を取り囲むように群がり、時には警官が何事かと見張りに来ても鳴り続け、その中で年恵はいつもと違った形相で見事な絵画を描いていたという。トランス状態になっていたのである。
その内官憲は、事実の有無、真偽の調査を無視して年恵を逮捕した。その罪状には「妄(みだ)りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし、世を茶毒(だどく)する詐欺行為」とあった。
年恵は二度投獄されている。明治二十八年に六十日間、翌二十九年に七日間である。その後の警察の横暴さに雄吉はついに憤慨して、三十二年九月二十一日付で年恵の在監中の生活の実情に関する証明書類を提出した。それは次の八項目からなるものである。
(1)両便通が皆無であった事
(2)飲食をしなかった事
(3)署長の求めに応じ、監房内で神に祈って霊水一瓶、御守り一個、経文一部、散薬一服を授けられて、これを署長に贈った事
(4)囚人の一人の求めに応じて散薬を神より授かって与えたが、身体検査の時にその事実が発覚した事
(5)監房内に神々ご降臨の時は係官達も空中で笛その他の鳴り物を聞いている事
(6)監房生活中一度も洗髪していないのに、年恵の喋々髷(まげ)は常に結い立ての如くつやつやしていて、本人は神様が結って下さると言っていた事
(7)一寸五升の水を大桶に入れ、それを軽々と運んでみせた事
(8)夏に蚊の大群が襲っても年恵の身体には一匹もたからず、ついに在監中、年恵一人が蚊帳の外で寝た事
右の証明願いはやがて次のような、たった二行の文言をもって却下された。
「明治三十二年九月二十一日付をもって長南年恵在監中の儀につきて願い出の件は、証明を与える限りにあらざるをもって却下する」
この件について雄吉氏と浅野氏が語り合った部分を紹介しておく。
雄吉「何と面白いではありませんか。事実は事実だが証明を与える限りではないから却下する、というのですから確かなものです。こんな結構な証拠物件はございません。私も、こりゃあ大事な品だ、と考えましたから、この通り立派に保存してあります」
浅野「いやぁ、素敵な証拠物件が残っていたものですなぁ。是非写真にも撮り、また文句も写し取っておきたいと思いますから、暫時拝借を願いたいのですが・・・」
雄吉「承知いたしました。お持ち帰りになられても構いません」
□ついに裁判沙汰に
右の八項目の内の(3)の《霊水》というのは年恵が最も得意とし、又よくやって見せたもので、空瓶を置いて祈ると一瞬の内に霊薬が入り、それを飲むとどんな難病でも治ったという。一本や二本ではなく十本でも二十本でも瞬間的に充満したという。
雄吉氏によると、最も多い記録では四十本程三方の上に並べたこともあり、それでも皆色が違っていたという。試しにどこも悪くない人が適当な病名を書いて置いてみたところ、何も入っていなかったという。
そんなある日のこと、突如として家が警官に包囲され、家宅捜査が執行された。何か薬品でも隠しているのではないかという嫌疑からで、床下まで調べられた。しかも、年恵は連行されて十日間の拘留となった。
このことで雄吉氏の堪忍袋の緒が切れて、正式の裁判に訴えることとなった。場所は神戸地方裁判所で、裁判長、陪席判事、立会いの検事をはじめ弁護士、被告人等、全て型の如く座席を占め、型の如く尋問が一通り済むと、裁判長から
「被告人はこの法廷においても霊水を出すことが出来ますか」
という質問が述べられた。年恵は平気で
「それはお安い事でございますが、ただ、ちょっと身を隠す場所を貸して頂きとう存じます」
と答えた。
そこで適当な場所において実験執行ということになり、公判廷は一旦閉じられた。実は当時その裁判所は新築中で、弁護士の詰所にやっと電話室が出来上がったばかりで、電話そのものはまだ取り付けられていなかった。そこでその中を徹底的に改めてから、被告人に使用させることになった。
実験の段階に入ると年恵は裸にされて着衣その他について厳重な検査をされた。そして裁判長自ら封印をした二合入りの空瓶一本を年恵に手渡し、多数の眼が見守る中、電話室へ入ることを許された。
入ってものの二分程で中からコツコツという合図があり、扉が開けられて出て来た年恵の手には、茶褐色の液体で満たされた二合瓶が、封印されたまま握られていた。それを裁判長の机の上に置くと、裁判長が
「この水は何病に効くのか」と尋ねた。
「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いした訳ではございませぬから」
「この薬を貰ってもよろしいか」
「よろしゅうございます」
この珍無類の問答で尋問は終わり、即刻年恵に「無罪」の言い渡しがあったという。
年恵は五十に満たない年齢で他界している。二ヶ月程前から「神様」からその時期を予告され、自分でも周りの者にそう告げていた。その頃は警察その他の理不尽な行為に嫌気がさしていたことも事実である。
それにしても、これ程の人物を科学的に、ないしは学問的に研究・調査しようとする学者が現れなかったのはなぜであろうか。年恵は文久三年の生まれであるから、西暦で言うと1863年になる。その頃は西欧では心霊現象の科学的研究が本格的になり始めていて、年恵が“酷い目”に遭っている頃は霊媒が貴重な存在として重宝がられていた。
もっとも、日本でも三田光一や長尾郁子、御船千鶴子などの超能力者が脚光を浴びていたが、透視や念写の域を出ていない。同時代に長南年恵という、世界の舞台に出しても引けを取らない程の大霊能者が出現していたのである。それがこうしたエピソードとして紹介するしかないというのでは、浅野氏と共に残念無念の感慨を禁じ得ない。
なお、「長南」という姓は山形県に多く、土地の人は「ちょうなん」と呼び、又この年恵を紹介している書物でもそう呼んでいるようであるが、その実弟をインタビューした浅野氏がわざわざ「おさなみ」とルビを振っているところから筆者は、この家族はそう呼んでいたものと判断して、それに従った。
[とっておきのエピソード⑥ 日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]
十四年間も絶飲絶食、大小便は全くなし。それでいて相撲取りと腕相撲をしても負けない程頑健そのもので、肉付きも良かった。そしてその女性の周りで様々な霊現象が日常茶飯事に発生した。
これは、常識的には誰が聞いても「そんなバカな」と一笑に付すに決まっているが、しかし事実だったのである。真面目な科学的調査の対象とするに値する驚異的現象ばかりであったが、それが曖昧な官憲による弾圧で、ただの語り草で終わってしまった。その女性の名を長南年恵(おさなみとしえ)という。明治時代の話である。
この女性が世間で話題になっていた頃、後にこの道の先駆者となる浅野和三郎氏は新進気鋭の英文学者として翻訳と教育に携わっていた。その後、本文で紹介したような経緯で霊的世界へ飛び込んだ時は、年恵は既にこの世の人ではなかった。
残念に思った浅野氏は、せめてその真相でも確かめたいと思い、実弟の長南雄吉氏に面会した。その時の取材記事を頼りに概略を紹介すると-
□官憲による妨害
娘の頃の年恵の変わったことと言えば女性の生理が全くないといった程度で、それ以外に外見上これといって異常なところは見られなかった。それが三十五歳頃から、煮たり焼いたりしたものが食べられなくなり、ホンの小量の生水と生のサツマイモを摂るだけになった。弟の雄吉がわざと生水だと偽って湯冷ましを与えたところ、その水を吐き出したばかりでなく、その後で血を吐いた。何度やっても同じだったという。
それと同時に、家中で不思議なことが発生するようになった。いきなり家鳴りがしたり、いつの間にか品物が持ち込まれたりする。空中で様々な音楽が聞こえる。笛、篳篥(ひちりき=雅楽用の縦笛)、筝(こと)、鈴などによる合奏である。その音楽を聞きつけた人達が家を取り囲むように群がり、時には警官が何事かと見張りに来ても鳴り続け、その中で年恵はいつもと違った形相で見事な絵画を描いていたという。トランス状態になっていたのである。
その内官憲は、事実の有無、真偽の調査を無視して年恵を逮捕した。その罪状には「妄(みだ)りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし、世を茶毒(だどく)する詐欺行為」とあった。
年恵は二度投獄されている。明治二十八年に六十日間、翌二十九年に七日間である。その後の警察の横暴さに雄吉はついに憤慨して、三十二年九月二十一日付で年恵の在監中の生活の実情に関する証明書類を提出した。それは次の八項目からなるものである。
(1)両便通が皆無であった事
(2)飲食をしなかった事
(3)署長の求めに応じ、監房内で神に祈って霊水一瓶、御守り一個、経文一部、散薬一服を授けられて、これを署長に贈った事
(4)囚人の一人の求めに応じて散薬を神より授かって与えたが、身体検査の時にその事実が発覚した事
(5)監房内に神々ご降臨の時は係官達も空中で笛その他の鳴り物を聞いている事
(6)監房生活中一度も洗髪していないのに、年恵の喋々髷(まげ)は常に結い立ての如くつやつやしていて、本人は神様が結って下さると言っていた事
(7)一寸五升の水を大桶に入れ、それを軽々と運んでみせた事
(8)夏に蚊の大群が襲っても年恵の身体には一匹もたからず、ついに在監中、年恵一人が蚊帳の外で寝た事
右の証明願いはやがて次のような、たった二行の文言をもって却下された。
「明治三十二年九月二十一日付をもって長南年恵在監中の儀につきて願い出の件は、証明を与える限りにあらざるをもって却下する」
この件について雄吉氏と浅野氏が語り合った部分を紹介しておく。
雄吉「何と面白いではありませんか。事実は事実だが証明を与える限りではないから却下する、というのですから確かなものです。こんな結構な証拠物件はございません。私も、こりゃあ大事な品だ、と考えましたから、この通り立派に保存してあります」
浅野「いやぁ、素敵な証拠物件が残っていたものですなぁ。是非写真にも撮り、また文句も写し取っておきたいと思いますから、暫時拝借を願いたいのですが・・・」
雄吉「承知いたしました。お持ち帰りになられても構いません」
□ついに裁判沙汰に
右の八項目の内の(3)の《霊水》というのは年恵が最も得意とし、又よくやって見せたもので、空瓶を置いて祈ると一瞬の内に霊薬が入り、それを飲むとどんな難病でも治ったという。一本や二本ではなく十本でも二十本でも瞬間的に充満したという。
雄吉氏によると、最も多い記録では四十本程三方の上に並べたこともあり、それでも皆色が違っていたという。試しにどこも悪くない人が適当な病名を書いて置いてみたところ、何も入っていなかったという。
そんなある日のこと、突如として家が警官に包囲され、家宅捜査が執行された。何か薬品でも隠しているのではないかという嫌疑からで、床下まで調べられた。しかも、年恵は連行されて十日間の拘留となった。
このことで雄吉氏の堪忍袋の緒が切れて、正式の裁判に訴えることとなった。場所は神戸地方裁判所で、裁判長、陪席判事、立会いの検事をはじめ弁護士、被告人等、全て型の如く座席を占め、型の如く尋問が一通り済むと、裁判長から
「被告人はこの法廷においても霊水を出すことが出来ますか」
という質問が述べられた。年恵は平気で
「それはお安い事でございますが、ただ、ちょっと身を隠す場所を貸して頂きとう存じます」
と答えた。
そこで適当な場所において実験執行ということになり、公判廷は一旦閉じられた。実は当時その裁判所は新築中で、弁護士の詰所にやっと電話室が出来上がったばかりで、電話そのものはまだ取り付けられていなかった。そこでその中を徹底的に改めてから、被告人に使用させることになった。
実験の段階に入ると年恵は裸にされて着衣その他について厳重な検査をされた。そして裁判長自ら封印をした二合入りの空瓶一本を年恵に手渡し、多数の眼が見守る中、電話室へ入ることを許された。
入ってものの二分程で中からコツコツという合図があり、扉が開けられて出て来た年恵の手には、茶褐色の液体で満たされた二合瓶が、封印されたまま握られていた。それを裁判長の机の上に置くと、裁判長が
「この水は何病に効くのか」と尋ねた。
「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いした訳ではございませぬから」
「この薬を貰ってもよろしいか」
「よろしゅうございます」
この珍無類の問答で尋問は終わり、即刻年恵に「無罪」の言い渡しがあったという。
年恵は五十に満たない年齢で他界している。二ヶ月程前から「神様」からその時期を予告され、自分でも周りの者にそう告げていた。その頃は警察その他の理不尽な行為に嫌気がさしていたことも事実である。
それにしても、これ程の人物を科学的に、ないしは学問的に研究・調査しようとする学者が現れなかったのはなぜであろうか。年恵は文久三年の生まれであるから、西暦で言うと1863年になる。その頃は西欧では心霊現象の科学的研究が本格的になり始めていて、年恵が“酷い目”に遭っている頃は霊媒が貴重な存在として重宝がられていた。
もっとも、日本でも三田光一や長尾郁子、御船千鶴子などの超能力者が脚光を浴びていたが、透視や念写の域を出ていない。同時代に長南年恵という、世界の舞台に出しても引けを取らない程の大霊能者が出現していたのである。それがこうしたエピソードとして紹介するしかないというのでは、浅野氏と共に残念無念の感慨を禁じ得ない。
なお、「長南」という姓は山形県に多く、土地の人は「ちょうなん」と呼び、又この年恵を紹介している書物でもそう呼んでいるようであるが、その実弟をインタビューした浅野氏がわざわざ「おさなみ」とルビを振っているところから筆者は、この家族はそう呼んでいたものと判断して、それに従った。
龍神が天狗を懲らしめる
自殺ダメ
[とっておきのエピソード③ 日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄著]より
二十世紀の日本で最高の審神者(さにわ)を挙げるとすれば、まず浅野和三郎の右に出る者はいないであろう。古くは大和朝廷の初期の人物として武内宿禰(たけうちのすくね)が挙げられるが、歴史的な謎が多く、事実とは信じ難い伝説が纏わり付いているので、今後の検証が待たれるところである。
これから紹介する浅野氏による鎮魂帰神にまつわるエピソードは大本教に入信して間もない頃のもので、浅野氏はまだその修法を身に付けていなかった。本人も「訳も分からぬままやったまでで、冷や汗ものだった」と述懐しているが、経験豊富な審神者にして初めて可能な芸当を見事にやって見せたところで、筆者が浅野氏を天才的審神者と見る所以(ゆえん)がある。
さて、大正初期のこと、日露戦争で勇名を馳せた秋山真之提督の紹介状を手にして、山本英輔海軍大佐が鎮魂帰神を求めて訪れた。鎮魂とは要するに精神を鎮めることで、帰神とは文字通りに言えば神と合一するということであるが、これは神とか霊とか魂について具体的な理解が出来ていない時代の用語であって、要するに精神を統一して波動を高めるということである。
早速浅野氏が帰神の法を施したところ、山本大佐の身体が大振動を起こすや「大天狗!」と大声で名乗った。浅野氏がその大天狗と名乗る霊と問答を続けている内に、何が気に入らなかったのか、その霊が突然プリプリ怒り出し、やがて組んでいた両手を解いて両眼をカッと見開き、拳を握り締めて立ち上がった。と見る間もなく「エイッ!」と掛け声も荒々しく、浅野氏に殴りかかった。
たった一度ではない。二度、三度、五度、十度、手を組んで端座する浅野氏の頭上目掛けて激しく打ち下ろされる。ところが不思議なことに、浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように、一度たりとも身体には届かない。ただ空を切るだけである。無論浅野氏は止めるように説得を続けている。
業を煮やした天狗は浅野氏の説得に耳を貸すどころか、ますます猛り狂って攻撃の雨を降らせる。その間、実に四時間!我慢に我慢を重ねて説得してきた浅野氏もついに意を決して霊団側に援助を乞うた。
要請に応じて派遣されたのは神界にその名も高い某龍神で、その姿を見るや、天狗は恐怖の悲鳴を上げて部屋中を逃げ回り、ついに降伏した。そこで浅野氏が声をかけて近くへ呼び寄せると、しおしおと近付いて丁寧に頭を下げた。そこで浅野氏が説得の言葉を掛けると、無礼を詫びて去って行ったという。
なお「浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように」とあるのは、修験道でいう《霊鎧(れいがい)》のことである。霊的な鎧のことで、浅野氏自身が語ったところによると、そういう時には浅野氏はただ観念して端座しているだけなのに、身体は霊的に充電されているようだという。
さる陸軍大佐が浅野氏目掛けて突撃を試み、弾みで浅野氏の組んだ指先に軽く触れただけで大変な痛みを感じ、以後一週間ばかり神経痛のように骨が痛んで困ったとこぼしていたという。
[とっておきのエピソード③ 日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄著]より
二十世紀の日本で最高の審神者(さにわ)を挙げるとすれば、まず浅野和三郎の右に出る者はいないであろう。古くは大和朝廷の初期の人物として武内宿禰(たけうちのすくね)が挙げられるが、歴史的な謎が多く、事実とは信じ難い伝説が纏わり付いているので、今後の検証が待たれるところである。
これから紹介する浅野氏による鎮魂帰神にまつわるエピソードは大本教に入信して間もない頃のもので、浅野氏はまだその修法を身に付けていなかった。本人も「訳も分からぬままやったまでで、冷や汗ものだった」と述懐しているが、経験豊富な審神者にして初めて可能な芸当を見事にやって見せたところで、筆者が浅野氏を天才的審神者と見る所以(ゆえん)がある。
さて、大正初期のこと、日露戦争で勇名を馳せた秋山真之提督の紹介状を手にして、山本英輔海軍大佐が鎮魂帰神を求めて訪れた。鎮魂とは要するに精神を鎮めることで、帰神とは文字通りに言えば神と合一するということであるが、これは神とか霊とか魂について具体的な理解が出来ていない時代の用語であって、要するに精神を統一して波動を高めるということである。
早速浅野氏が帰神の法を施したところ、山本大佐の身体が大振動を起こすや「大天狗!」と大声で名乗った。浅野氏がその大天狗と名乗る霊と問答を続けている内に、何が気に入らなかったのか、その霊が突然プリプリ怒り出し、やがて組んでいた両手を解いて両眼をカッと見開き、拳を握り締めて立ち上がった。と見る間もなく「エイッ!」と掛け声も荒々しく、浅野氏に殴りかかった。
たった一度ではない。二度、三度、五度、十度、手を組んで端座する浅野氏の頭上目掛けて激しく打ち下ろされる。ところが不思議なことに、浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように、一度たりとも身体には届かない。ただ空を切るだけである。無論浅野氏は止めるように説得を続けている。
業を煮やした天狗は浅野氏の説得に耳を貸すどころか、ますます猛り狂って攻撃の雨を降らせる。その間、実に四時間!我慢に我慢を重ねて説得してきた浅野氏もついに意を決して霊団側に援助を乞うた。
要請に応じて派遣されたのは神界にその名も高い某龍神で、その姿を見るや、天狗は恐怖の悲鳴を上げて部屋中を逃げ回り、ついに降伏した。そこで浅野氏が声をかけて近くへ呼び寄せると、しおしおと近付いて丁寧に頭を下げた。そこで浅野氏が説得の言葉を掛けると、無礼を詫びて去って行ったという。
なお「浅野氏の周囲に金網でも張り巡らされているかのように」とあるのは、修験道でいう《霊鎧(れいがい)》のことである。霊的な鎧のことで、浅野氏自身が語ったところによると、そういう時には浅野氏はただ観念して端座しているだけなのに、身体は霊的に充電されているようだという。
さる陸軍大佐が浅野氏目掛けて突撃を試み、弾みで浅野氏の組んだ指先に軽く触れただけで大変な痛みを感じ、以後一週間ばかり神経痛のように骨が痛んで困ったとこぼしていたという。