死にたい自殺サイト自殺方法自殺ダメ

当サイトは、死にたい人に自殺に関する霊的知識を与えて、自殺を止めさせる自殺防止サイトです。

自殺の霊的知識へ

カテゴリ:★『スピリチュアリズムについて』 > スピリチュアルな旅としての人生

スピリチュアルな旅としての人生 目次

スピリチュアルな旅としての人生

浅野和三郎と間部詮敦-関東大震災が取り持つ縁

筆者と間部氏との出会い

新時代の啓示-シルバーバーチの霊訓

筆者の使命を示唆

「神とは法則です」

シルバーバーチの出現が意味するもの

「苦しみ」と「悲しみ」の哲学

真の意味での人生の勝利者

自殺ダメ



 [日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》]近藤千雄[著]より


 本書の「まえがき」でも述べたが(二ページ参照)、Spiritualism という用語は spiritual+ism ではなく、spiritualise の名詞形、つまり「霊的に浄化する為の活動」と理解すべきである。その視点から言う限りでは「心霊主義」「神霊主義」といった日本語に置き換えるのは間違い-少なくとも正鵠(せいこく)を得ていないことになる。
 このスピリチュアリズムを日本に最初に移入した浅野和三郎は、1928年の国際スピリチュアリスト連盟第三回世界大会に出席すべくロンドンへ発つ直前に、「スピリチュアリズム」の日本語訳をどうすべきかで親しい友人と語り合って「神霊主義」とした、と『出発前記』の中で自ら述べているところをみると、浅野氏はジョージ・オーエンの『ベールの彼方の生活』(全四巻)やシルバーバーチと名乗る超高級霊からの通信(当時は第一巻が出たばかり)は入手していなかったようで、イエス・キリストの他界後に始まった地球神界挙げての霊的浄化活動の経緯にまで言及した文言は、残念ながら見当たらない。
 それは、しかし、用語の視点から見た場合の話であって、浅野氏の前人未踏の業績から見る限り些細な問題である。結局浅野氏の使命は、1848年のハイズヒル現象をきっかけとして始まった欧米における心霊現象の科学的研究の足跡と、その帰趨(きすう)として得られた死後の世界の実在という、人類史上破天荒の啓示を日本に紹介することにあったと見るべきであろう。最近発掘された資料によると、かの平田篤胤もスピリチュアリズムについての資料を入手していて、二万を数える知的ネットワークを組織して実験と研究をしていたらしいが、まだ時期尚早だったのであろう。篤胤が脱藩者であることを口実に弾圧を受けたという。この情報は今後の検証が待たれるものとして筆者も関心を寄せているところである。
 日本の先駆者・浅野和三郎については本書の第六章を参照して頂きたい。

自殺ダメ



 浅野和三郎の直弟子で筆者の恩師だった間部詮敦(まなべあきあつ)は歴史上にも名高い大名家の出で、五等爵の一つである子爵でもあった。十歳程も離れた長兄が「詮信」、幕末の老中が「詮勝」、六代将軍・家宣の側用人が「詮房」というふうに、必ず「詮」の字が用いられているところにも格式ある家柄を窺わせる。
 詮敦氏は慶応大学出身で英語にも通じていて、私が弟子入りした時は当時の米国最大の週刊心霊紙Psychic Observerを購読していた。今にして思えば、類稀な霊能もさることながら、もしも英語の素養がなかったら、筆者との縁は一時的なもので終っていたことであろう。筆者のライフワークとなったシルバーバーチの『霊言集』を初めとする《近代の啓示》、所謂霊界通信の翻訳に半世紀も携わることになったのも、間部氏の先見の明があったからこそである。その経緯を述べる前に、間部氏が浅野氏と出会うに至った経緯の方を述べておくのが順序と思われる。それには関東大震災が大きく関わっているのである。
 間部家は、いかに由緒ある大名の家柄とはいえ、第二次大戦後の様々な制度改革によって大変な辛酸を嘗めさせられたようである。それをご兄弟とも「貴重な体験」と受け止めて語られるのを印象深く思い出す。「老先生」とお呼びしていた詮信氏は、霊能を五感と区別がつかない程自由自在に操る程だったが、お子様に恵まれず、九州の福岡で孤独な晩年を送られた。
 「若先生」とお呼びしていた詮敦氏は三重県の上野市に住み、三人のお子さんに恵まれたが、霊的治療と霊的コンサルタントとしての仕事は収入が少なく、生きて行くのがやっとといった状態だったこともあって、家族からはあまり理解してもらえなかったようである。しかし、これから述べるような捨て身の生き方を貫かれたことには、師匠の浅野氏を通じての霊的啓示があったからである。それが、ひいては筆者との縁へと繋がって行く。それは後で述べるとして-先に述べたように浅野氏は大正十二年六月に《心霊科学研究会》を発足させ、『心霊研究』という月刊誌を発刊するが、それから僅か三ヵ月後の九月一日の関東大震災で何かもが烏有(うゆう)に帰した。しかし、不幸中の幸いと言うべきは、浅野家の居宅はまだ丹波の綾部にあったことである。自然の成り行きで浅野氏は取りあえず活動の拠点を大阪に移し、月刊誌も『心霊界』と改題して再刊すると同時に、念願の霊能者の養成に全力を注いだ。その参加者の一人が間部氏だった。そして、やがて人生観の一大転換を体験する。
 間部氏は生まれながらの霊能者で、若い時から神道系の修業を積んでいたようである。その「行」についてはあまり具体的なことは語られなかったが、「浅野先生との出会いでスピリチュアリズムを知り、荒行をいくらやっても無意味であることを悟り、指導書の全てを捨てた」と、筆者と二人きりの時に仰った言葉から全てが推察出来る。「捨てた」という表現は文字通りではなく、必要性がなくなったという意味に受け取るべきであろう。そしてある日、浅野氏との一対一の鎮魂帰神の修法が終わった後、滅多に口を利かない浅野氏が「凄いの(霊団)がついたなぁ。これから忙しくなるぞぉ」と、珍しく感慨深げに仰ったという。筆者はその後間部氏にお仕えした中で得た直観として、その霊団はあのナザレのイエスを最高指揮者とする「地球浄化の大事業」に従事する世界的大霊団の一翼を担う高級霊団だったと信じている。
 そのことに関連して間部氏は、生得の霊能だけでも生計を立てることは出来るし、それなりの霊団がついているものだが、スピリチュアリズムの仕事に携わるには「神界への届出」が必要である、といった趣旨のことを仰った。神界への届出とは、要するに一定水準を超えた資格が備わるとそれ相当の霊団が遣わされ、それ相当の使命が授けられるということで、その時点から物心両面にわたって、普通一般とは異なる高い次元のもの、厳しいものが要求されるという。
 従って、一旦使命を授かった者が道を間違えると、普通の霊能者なら赦されることでも、その者には手酷い仕置きが下される。神々が下すのではない。神々は派遣した霊団の総引き揚げを命じるだけで、後はそれ相当のレベルの霊の好きに任せる。ますます金銭欲と名誉欲を募らせ、低俗な宗派をこしらえて罪を重ねる者もいるであろうし、色欲に狂って身の破滅を招く者もいるであろう。今も昔も変わらぬ「よくある人生模様」である。

自殺ダメ



 間部氏は当時三重県の上野市にお住まいで、浅野氏との出会いまでに、既に多くの信奉者がいて、《霊光道》という一派を従えていたようである。《霊光道祝詞》まであって、定期的に集会を催していたものと推察している。それが浅野との出会いでスピリチュアリズムという地球規模の霊的指導原理を知り、それまでの自分の考えの狭さを痛感し、更に浅野氏を通じての啓示に触れて組織の解散を決意する。すると「忙しくなるぞぉ」の予言通り、大阪地方から中国地方にかけての、霊的治療と人生相談による伝道の旅に出ることになる。月の半分以上を地方の巡回に費やしている。
 筆者はその頃広島県の福山市に住んでいて、大学受験を目指して猛勉強中だった。中学時代はどちらかというと理系の学科が得意だったが、高校に入学してからはなぜか英語が得意で好きにもなった。今から思えば、その頃から背後霊団は本格的に英語力の養成に力を入れていたようで、学校の授業では飽き足らず、自宅では一学年上の問題集に取り組んでいた。未だに完璧な全訳がないと言われる程難解なミルの『功利説』 Utilitarianism by John S.Millの原書に挑戦したのもその頃で、最後までさっぱり分からなかったが、その格闘によって一段と読解力が付き、それ以後は学校の教科書が童話を読むように簡単に思えるようになった。
 そんな時に間部氏との出会いがあった。近藤家が霊的に因縁が深いことを直観していた母は、霊能者の話を耳にすると直ぐに訪ねていた。そしていつも兄と筆者を誘い、兄は必ず付いて行ったものだが、筆者は一度も行く気がしなかった。それが間部氏の時だけはなぜか筆者だけが「うん、行く」と言って付いて行った。これも霊団の導きであろう。筆者十八歳、間部氏七十歳、孫子程の年齢差があった。が、その日の出会いが筆者の人生を決定付けることになるとは知る由もなかった。(ここからは「先生」と呼ばせて頂く。漱石の『こころ』の冒頭の文句ではないが、姓で呼ぶのはどこかよそよそしい感じがしてならない)
 一方、同行した母にとっても、その日は人生最大の運命的な出会いの日となった。先生との出会いではない。終戦の翌日、即ち昭和二十年八月十六日に事故死した長兄の霊との再会であった。(これについてはハート出版から出した『人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅』で詳しく述べたので、ここでは簡単に述べるに止める)
 通された八畳間の座敷には、座敷机に向かって先生が和服姿で端座しておられた。一通りの挨拶の後、母が悩み事を述べようとした時である。先生が「ちょっとお待ちください。今直ぐ側に若い男の方が立っていますよ。両手で何か持ってますね。ほう、弁当だそうです。お母さんには申し訳ないことをしたと仰ってますが、何かお心当たりがございますか?」と言われた。
 これは、まさに、長兄と母の今生の別れとなる最後のシーンの再現に他ならなかった。もっとも弁当を両手で持っていたのは母の方で、十五歳だった兄が学徒動員で弁当だけ持って級友達と共にトラックで出発するのを母が見送った。なぜか弁当を持たせるのを忘れたと勘違いした母が、大急ぎでこしらえて兄を追いかけ、やっと間に合ったが、「持ってるよ」と言って兄が弁当を見せた。その時は既にトラックが動き出して、母は弁当を胸の辺りに両手で持ったまま見送った。そして、それが今生の身納めとなったのだった。
 それから僅か十数分後に事故で即死した兄が、霊界で意識が戻り平静を取り戻した時に真っ先に思い出したのもやはりそのシーンで、以来十年近くを経て、やっと詫びを言いに出て来たのだった。弁当を受け取らずに別れたその最後の母の姿と、その後の母の悲しみようが憐れに思えていたのであろう。「お母さんには申し訳ないことをした」というのはそのことである。その時の母には様々な悩み事があったが、少なくとも事故死した長兄のことは脳裏には無かったという。それが思いも寄らなかった先生の言葉で、あの日のあの場面が甦った。何の説明も要らなかった。母はその場にどっと泣き崩れた。母にとっては「弁当」こそが我が子の死後存続の生きた証拠であった。何の理屈も要らなかった。

自殺ダメ



除霊と浄霊-リーディング(霊査)とは?

 間部先生との最初の出会いの場に戻ろう。母と長兄との十年ぶりの劇的な再会による感動の嵐が収まって、今度は私の番となった。
 先生はまず最初に全身を霊的に検診する。これを英語で“リーディング”Reading といい日本語の“霊査”に当たる。日本では古くからある手法であるが、スピリチュアリズム以降、その意味合いが変わっていることを理解しなればならない。
 霊査を受ける者は敷布団の上にうつ伏せになる。その背中に先生が右手を置くと、先生の手がひとりでに動いて悪い箇所に行く。それが終わると先生に背を向けて正座をする。先生は背後からオーラの塵を払うような仕草をし、両手を合わせて瞑目する。するとその人にまつわる因縁霊が霊視される。先生の背後霊団が「見せる」のである。確認が済むと拍手を打って終わりとなる。が、それで全てが終った訳ではない。そこからが肝心である。スピリチュアリズムの原理に照らして極めて大切なことなので、煩(はん)を厭(いと)わず紹介しておく。
 先生は霊眼に映った霊-所謂“霊障”の原因となっている霊-について本人ないしは付き添っている家族の者から姓名・年齢(死んだ時の)などを聞き出し、それを縦10センチ、横3センチ程の短冊二枚に書き記す。よく分からない場合は<○○歳代の男性(女性)の霊>と書く。そして一枚をその人ないしは家族の者に手渡して、三日間、神棚か仏壇或いはどこか清浄な場所に祀ってお水を供え、三日後に樹木の根元などの清浄な場所で焼くか、ないしは川に流すようにと仰る。
 もう一枚は先生が自宅に持ち帰り、一枚一枚手にしてその霊を呼び出し(背後霊団が連れて来る)、霊的な境遇について諭す。死んだことすら知らずにいることが多いという。これでやっと“浄霊”が終わったのであって、所謂“除霊”だけでは十分でないし、危険でさえあることを敢えて警告しておきたい。
 実は世界中のスピリチュアリズム系の霊能者の背後霊団が、手段こそ違え原理的にはこれと同じことをやっている。西洋では除霊とか浄霊をしないと思っている人が多いが、それは表面だけを見てそう思っているだけで、裏面では担当の霊団がきちんとアフターケアを行っているのである。それを顕著な形で見せてくれたのが米国のウィックランド博士夫妻で、30年余にわたる献身的な仕事をThirty Years Among the Dead by Dr. Carl Wickland (日本語訳『迷える霊との対話』ハート出版)の一冊に纏めている。
 分かり易く説明すれば、患者に憑依している霊を霊媒のアンナ(博士の奥さん)に転移させ、その口で霊に喋らせてウィックランド博士が対話をし、霊的教訓を説き聞かせて真理に目覚めさせる。それが成功してもしなくても、最後は「慈悲団」Mercy Band と名乗る霊団に強制的に引き渡す。霊団はその霊を自分が置かれている環境、地上の人間に与えている迷惑などについて理解するように指導する。霊界にはその為の施設が人間の想像以上に完備しているという。
 現役の英国の女性霊能者ドロシー・トゥール Dorothy Toole は典型的なスピリチュアリズム系のヒーラーであるが、この人は一日に三人ないしは四人のリーディングが精一杯で、「それ以上やると霊的な処置が出来なくなります」と、筆者へのE-メールで述べている。この「霊的な処置」というのが霊界の担当霊が行なうアフターケアのことで、これを疎かにして片っ端から除霊していくと、後で必ず“しっぺ返し”を負う。
 あんなに病人を奇跡的に治していた先生自身がなぜ病に倒れたり、あっさりと死んだりするのだろうと思われるケースがあるが、それはそうした霊的実情の理解を怠り、“自分が治している”と思うその自惚れに原因がある。既に述べたように、その段階では高級霊団は既に引き揚げている。見捨てたのではなく、波動が合わなくなって、その波動に似合った霊団と入れ替わっているのである。

↑このページのトップヘ