カテゴリ:★『小桜姫物語』 > [小桜姫物語]について
小桜姫は実在の人
自殺ダメ
小桜姫は実在の人 守護霊と私
浅野多慶子
そもそも小桜姫という女性を霊視したのは大正五年の春の頃でございます。当時私は、横須賀に住み、神の存在すら知らず、ごく平凡な毎日を送っておりました。
相州走水神社に参拝の折、「弟橘姫の命により、この石笛を、小桜姫に賜う」との霊視の下に、境内にて二つ穴の開いた、拳大の石を拾いましたが、ただ不思議な事と思いつつ、そのまま意味を深く考えもせず過ごしてしまいました。
時を経て、昭和四年春に至り、愛児新樹の突然の死により、霊界との通信を始める事になりました。霊界からの新樹の、たっての希望により、私が、受信する事になりましたが驚くべき事には、子桜姫も、通信を送り、霊界より、協力したいとの、お申し出がございました。当時、私共は、この通信を受ける為日々、精進に努めました。あの石笛の清澄な響の内に、深い深い統一に入るという状態を得るのは、並々ならぬ事でございました。子桜姫は、私の守護霊であるという事は、その頃になって、新樹より知らされました。
子供は、母の守護霊を度々訪問致し、親しみを抱きながら、霊界の探求に勤しみました。その有様は、幽明を異にしていても、現世と少しも、変わりませんでした。
子桜姫は、お読み下さいます通り、神社に祀られておられます。三浦の何処の地か、全く判りませんでした。
昭和五年の春、岡田氏、主人(浅野和三郎)と、私、娘(美智子)と四人連れで、神社を探しに出向きました。
あちらこちら、それらしき森を訪ね歩き、最後に、油壺の岩場の対岸に、神社と思われるただ住まいを発見、折よく、猟師に頼み、渡してもらいました。
鳥居の奥には、神社が正面に、その左右に小さな社がございました。向かって左の社に、額づきますと、子桜姫が、鎮座遊ばすお姿に接し、「ここが、子桜姫のお社です」と、思わず、喜びの声をあげてしまいました。その時、浜にいた古老も、子桜姫をお祀りしてあると申しておりました。
心霊講座に紹介してございます外国の物理現象、霊言現象、その他の心霊現象について、主人が、英国、米国よりの帰朝論文を発表致して、待つ間もなく、日本にも、多数の霊媒が現れました。東京、大阪、名古屋、その他の都市における講演会、物理実験会は、世間の学者、名士の御理解を深め、今から、思いますと、日本の心霊研究の、一番充実した時期であったと思われます。多事多難の研究に、子桜姫の御助力を賜りつつ、八年に及ぶ膨大な通信は、その折々の、問題解決の諸になりました。
通信も、回を重ね、霊界通信として、出版の運びになりました。安住画伯の筆になる、姫の御姿は、数ある内で一番良いのを選び、表紙となりました。昭和十二年二月に、出版される直前に、主人(浅野和三郎)は急逝致しました。出版は、当時大変な反響を呼びました。以後読者が、全国より、子桜神社に参拝されております。又、子桜姫と私との間には、以後、多方面にわたり、霊界通信が続きました。
折から、私も齢八十六歳となりました。昭和四十四年秋、横須賀、衣笠城跡に在住の、岩間尹先生の御訪問を受けました。
先生は、現在、日本の国史研究の権威として、日本をはじめ、欧米諸国にまで知られ、著書も多数にて、五十年にわたって、史実の研究に努力をされている方です。
また先生は、三浦直系四十一代、三浦一族会長として、活躍をされております。
先生は、十年位前より、一週に一度又は二度、美しい婦人の訪問を、枕辺で受け続けていました。時刻は午前一時より二時までの丑の刻で、夢の中の婦人は、身分の高い三十歳位の美しい方で、お召になっている衣装の色や形、態度、表情等、霊界通信の中の子桜姫物語の姫と、あまりにも一致する点が多いので、史実的に調査をしたい旨の御相談でございました。
以後、三浦一族の研究として子桜姫様をお祀りしてある諸磯の若宮様、墓所、慰霊の仏像、その他姫にゆかりのあるお地蔵様、馬頭観音等、また津波の件は霊界通信と史実が、一致すること、姫の御実家、鎌倉浄明寺の屋敷跡の確認、と数々の発見に、子桜姫は、三浦荒次郎の奥方として、確かに実在していたという調査結果が出ました。
「三浦氏十七代の三浦介義意の夫人子桜姫殿に昭和四十四年十二月二十四日丑の刻に別紙の通り、おくりなを致しました。然らば、明年好月好日に、諸磯の神明社の若宮に鎮めまするが最もよろしいと存じますので御承知下さい。
岩間尹
昭和四十四年十二月二十四日
おくりな
三浦都比花開美女命(ミウラツコノハナサクヤヒメノミコト)
この一族会のお便りによりますと、その当時のしきたりで、お子様に恵まれず、早く世を去られました子桜姫は、三浦家の系図に記入されておりませんでした。
その様な事情で、子桜姫は実在したという事を証明する為、十年の歳月にわたり出現されていたと思われます。
明けて昭和四十五年一月五日、再び丑の刻に出現され、「私は子桜姫です。もうこれにて出て参りません」との一言を残して立ち去る後姿を、淋しい心地で御送りしたとの事です。
十年の夢路に通った人の表情は、落城当時の悔しい悲しい面影は少しもなく、極く穏やかな、やさしい表情でいられました由、長い長い霊界生活の内に何の執着も打ち捨て、実在したという事を、知らせる為、出現されたものと姫の御心中を察し、ただただ涙に暮れるばかりでございます。
姫の御召物は、当時の形にて、薄い藤色や、空色の美しい事、額には、眉墨をつけておられました。
目下諸磯に鎮座まします若宮様は、幾星霜変わらぬ潮の香に包まれ祀られております。
霊魂不滅、死後の存続を、姫の御性格そのまま控え目に、しかも正しく、この昭和の時代にお知らせ下さいました事、心より褒め称えたく存じます。
この拙い筆を書き残して、私のなすべき一生の使命は、八十八歳の天寿を全うして、終わりを告げる事でございましょう。
昭和四十六年五月五日 節句の日
いにしえの姫神したいおとづれば 苔むす宮居に何と語らむ
多慶子
注 母・多慶子は虫が知らせるという話そのままに、これを書き終り、米寿の祝を終え、すぐ床につき亡くなりました。昭和四十六年八月二日歿。
(長女・秋山美智子)
小桜姫は実在の人 守護霊と私
浅野多慶子
そもそも小桜姫という女性を霊視したのは大正五年の春の頃でございます。当時私は、横須賀に住み、神の存在すら知らず、ごく平凡な毎日を送っておりました。
相州走水神社に参拝の折、「弟橘姫の命により、この石笛を、小桜姫に賜う」との霊視の下に、境内にて二つ穴の開いた、拳大の石を拾いましたが、ただ不思議な事と思いつつ、そのまま意味を深く考えもせず過ごしてしまいました。
時を経て、昭和四年春に至り、愛児新樹の突然の死により、霊界との通信を始める事になりました。霊界からの新樹の、たっての希望により、私が、受信する事になりましたが驚くべき事には、子桜姫も、通信を送り、霊界より、協力したいとの、お申し出がございました。当時、私共は、この通信を受ける為日々、精進に努めました。あの石笛の清澄な響の内に、深い深い統一に入るという状態を得るのは、並々ならぬ事でございました。子桜姫は、私の守護霊であるという事は、その頃になって、新樹より知らされました。
子供は、母の守護霊を度々訪問致し、親しみを抱きながら、霊界の探求に勤しみました。その有様は、幽明を異にしていても、現世と少しも、変わりませんでした。
子桜姫は、お読み下さいます通り、神社に祀られておられます。三浦の何処の地か、全く判りませんでした。
昭和五年の春、岡田氏、主人(浅野和三郎)と、私、娘(美智子)と四人連れで、神社を探しに出向きました。
あちらこちら、それらしき森を訪ね歩き、最後に、油壺の岩場の対岸に、神社と思われるただ住まいを発見、折よく、猟師に頼み、渡してもらいました。
鳥居の奥には、神社が正面に、その左右に小さな社がございました。向かって左の社に、額づきますと、子桜姫が、鎮座遊ばすお姿に接し、「ここが、子桜姫のお社です」と、思わず、喜びの声をあげてしまいました。その時、浜にいた古老も、子桜姫をお祀りしてあると申しておりました。
心霊講座に紹介してございます外国の物理現象、霊言現象、その他の心霊現象について、主人が、英国、米国よりの帰朝論文を発表致して、待つ間もなく、日本にも、多数の霊媒が現れました。東京、大阪、名古屋、その他の都市における講演会、物理実験会は、世間の学者、名士の御理解を深め、今から、思いますと、日本の心霊研究の、一番充実した時期であったと思われます。多事多難の研究に、子桜姫の御助力を賜りつつ、八年に及ぶ膨大な通信は、その折々の、問題解決の諸になりました。
通信も、回を重ね、霊界通信として、出版の運びになりました。安住画伯の筆になる、姫の御姿は、数ある内で一番良いのを選び、表紙となりました。昭和十二年二月に、出版される直前に、主人(浅野和三郎)は急逝致しました。出版は、当時大変な反響を呼びました。以後読者が、全国より、子桜神社に参拝されております。又、子桜姫と私との間には、以後、多方面にわたり、霊界通信が続きました。
折から、私も齢八十六歳となりました。昭和四十四年秋、横須賀、衣笠城跡に在住の、岩間尹先生の御訪問を受けました。
先生は、現在、日本の国史研究の権威として、日本をはじめ、欧米諸国にまで知られ、著書も多数にて、五十年にわたって、史実の研究に努力をされている方です。
また先生は、三浦直系四十一代、三浦一族会長として、活躍をされております。
先生は、十年位前より、一週に一度又は二度、美しい婦人の訪問を、枕辺で受け続けていました。時刻は午前一時より二時までの丑の刻で、夢の中の婦人は、身分の高い三十歳位の美しい方で、お召になっている衣装の色や形、態度、表情等、霊界通信の中の子桜姫物語の姫と、あまりにも一致する点が多いので、史実的に調査をしたい旨の御相談でございました。
以後、三浦一族の研究として子桜姫様をお祀りしてある諸磯の若宮様、墓所、慰霊の仏像、その他姫にゆかりのあるお地蔵様、馬頭観音等、また津波の件は霊界通信と史実が、一致すること、姫の御実家、鎌倉浄明寺の屋敷跡の確認、と数々の発見に、子桜姫は、三浦荒次郎の奥方として、確かに実在していたという調査結果が出ました。
「三浦氏十七代の三浦介義意の夫人子桜姫殿に昭和四十四年十二月二十四日丑の刻に別紙の通り、おくりなを致しました。然らば、明年好月好日に、諸磯の神明社の若宮に鎮めまするが最もよろしいと存じますので御承知下さい。
岩間尹
昭和四十四年十二月二十四日
おくりな
三浦都比花開美女命(ミウラツコノハナサクヤヒメノミコト)
この一族会のお便りによりますと、その当時のしきたりで、お子様に恵まれず、早く世を去られました子桜姫は、三浦家の系図に記入されておりませんでした。
その様な事情で、子桜姫は実在したという事を証明する為、十年の歳月にわたり出現されていたと思われます。
明けて昭和四十五年一月五日、再び丑の刻に出現され、「私は子桜姫です。もうこれにて出て参りません」との一言を残して立ち去る後姿を、淋しい心地で御送りしたとの事です。
十年の夢路に通った人の表情は、落城当時の悔しい悲しい面影は少しもなく、極く穏やかな、やさしい表情でいられました由、長い長い霊界生活の内に何の執着も打ち捨て、実在したという事を、知らせる為、出現されたものと姫の御心中を察し、ただただ涙に暮れるばかりでございます。
姫の御召物は、当時の形にて、薄い藤色や、空色の美しい事、額には、眉墨をつけておられました。
目下諸磯に鎮座まします若宮様は、幾星霜変わらぬ潮の香に包まれ祀られております。
霊魂不滅、死後の存続を、姫の御性格そのまま控え目に、しかも正しく、この昭和の時代にお知らせ下さいました事、心より褒め称えたく存じます。
この拙い筆を書き残して、私のなすべき一生の使命は、八十八歳の天寿を全うして、終わりを告げる事でございましょう。
昭和四十六年五月五日 節句の日
いにしえの姫神したいおとづれば 苔むす宮居に何と語らむ
多慶子
注 母・多慶子は虫が知らせるという話そのままに、これを書き終り、米寿の祝を終え、すぐ床につき亡くなりました。昭和四十六年八月二日歿。
(長女・秋山美智子)
『小桜姫物語』異聞
自殺ダメ
多慶子夫人の守護霊が《小桜姫》の名で知られる、戦国時代の武将・三浦荒次郎の妻であることは浅野氏による『小桜姫物語』で広く知られているが、その夫人が霊媒となり浅野氏が審神者(さにわ)となって入手した膨大な量の霊言通信がその根拠となっているにもかかわらず、多慶子夫人ご自身は米寿(八十八歳)を迎える前年の昭和四十四年(1969)までは実感をもってそのことを信じたことはなかったという。「なぜ?」と驚かれる方が少なくないことであろう。
夫人は霊媒のタイプとしては入神霊媒、英語でいうトランス霊媒 Trance Mediumの部類に入るが、生涯この子桜姫と名乗る霊以外の霊が喋ったことはない。子桜姫が最初で最後だったということであるが、トランス状態から通常意識に戻った時、トランス中のことは夫人自身には何一つ記憶がない。従って子桜姫がいくら自分はこの女性の守護霊ですと述べても、夫人は浅野氏からそう言われて「そうなのか」と思っただけで、何の感慨もなかったという。そんな中、昭和四十四年、即ち浅野氏が他界して三十二年が経って、《三浦一族会》の会長を名乗る岩間 尹氏が浅野家を訪ねて来た。そして、次のような興味津々の心霊話を語った。
ある夜の丑三つ時(二時)頃、ふと目が覚めると、平安朝風の着物を纏った美しい女性が数メートル先に伏目がちの姿勢で座っているのが目に入った。誰だろうと思っている内に消え入るように見えなくなった。何かの錯覚だろうと思いながらその夜は直ぐに寝入った。が、翌日の夜もほぼ同じ時刻に目が覚めて同じ映像を見た。違うのは前夜より少し近付いていて、見えた時間も少し長かったことである。次の夜も、更に次の夜も同じことが続き、距離と時間が日毎に延び、姿勢もキチンと正し、数日後にはついに口を開いて、自分は横浜の鶴見に住む浅野多慶子という未亡人の守護霊で、地上時代は三浦荒次郎の妻だったという趣旨のことを述べたという。
多慶子夫人はこの話を聞いた時初めて、死後の世界と守護霊の実在に得心がいったという。応接間で撮ったハガキ大の岩間氏の写真の裏には「昭和四十四年十一月二十五日 三浦一族会長 岩間 尹先生 七十五才」という、多慶子夫人直筆の記入がある。よほど嬉しかったのであろう。
多慶子夫人の守護霊が《小桜姫》の名で知られる、戦国時代の武将・三浦荒次郎の妻であることは浅野氏による『小桜姫物語』で広く知られているが、その夫人が霊媒となり浅野氏が審神者(さにわ)となって入手した膨大な量の霊言通信がその根拠となっているにもかかわらず、多慶子夫人ご自身は米寿(八十八歳)を迎える前年の昭和四十四年(1969)までは実感をもってそのことを信じたことはなかったという。「なぜ?」と驚かれる方が少なくないことであろう。
夫人は霊媒のタイプとしては入神霊媒、英語でいうトランス霊媒 Trance Mediumの部類に入るが、生涯この子桜姫と名乗る霊以外の霊が喋ったことはない。子桜姫が最初で最後だったということであるが、トランス状態から通常意識に戻った時、トランス中のことは夫人自身には何一つ記憶がない。従って子桜姫がいくら自分はこの女性の守護霊ですと述べても、夫人は浅野氏からそう言われて「そうなのか」と思っただけで、何の感慨もなかったという。そんな中、昭和四十四年、即ち浅野氏が他界して三十二年が経って、《三浦一族会》の会長を名乗る岩間 尹氏が浅野家を訪ねて来た。そして、次のような興味津々の心霊話を語った。
ある夜の丑三つ時(二時)頃、ふと目が覚めると、平安朝風の着物を纏った美しい女性が数メートル先に伏目がちの姿勢で座っているのが目に入った。誰だろうと思っている内に消え入るように見えなくなった。何かの錯覚だろうと思いながらその夜は直ぐに寝入った。が、翌日の夜もほぼ同じ時刻に目が覚めて同じ映像を見た。違うのは前夜より少し近付いていて、見えた時間も少し長かったことである。次の夜も、更に次の夜も同じことが続き、距離と時間が日毎に延び、姿勢もキチンと正し、数日後にはついに口を開いて、自分は横浜の鶴見に住む浅野多慶子という未亡人の守護霊で、地上時代は三浦荒次郎の妻だったという趣旨のことを述べたという。
多慶子夫人はこの話を聞いた時初めて、死後の世界と守護霊の実在に得心がいったという。応接間で撮ったハガキ大の岩間氏の写真の裏には「昭和四十四年十一月二十五日 三浦一族会長 岩間 尹先生 七十五才」という、多慶子夫人直筆の記入がある。よほど嬉しかったのであろう。