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カテゴリ:★『霊に関する話』 > 「あの世」から帰ってきた英国の新聞王の話

以上の交霊会の記事が日曜新聞The Peopleの第一面のトップに三段抜きで掲載された。その見出しはこうだった。

 ノースクリフ卿、墓場の向こうからメッセージを発信
   「国際連合の為に働く人々に応援を」
     秘書が明かす驚異的交霊現象 

 この記事は発行前から世界中で抜き刷りされるほどの注目を浴びた。発行当日にはオーストラレーシア海外通信社[オーストラレーシアはオーストラリアと付近の諸島の総称ー訳者]の若い記者が訪れ、「オーストラリアに発信したいので」校正刷りを見せて欲しいという。その記者は記事の重要性を認識していたのである。
 Daily Mailのオーストリア版もSydney Sunにも、一面トップ記事として、こう出ていた。

     センセーショナルな交霊現象 
   ノースクリフ卿から届けられた興味津々の物語
   「今は元気で幸せそのもの」
 フラノのグレーのスーツを着て田舎のマンションで暮らす 

 ロサンゼルスの写真誌Daily Newsも次の見出しで三段抜きのトップ記事扱いだった。

      ノースクリフ卿、交霊会で死後の生活を語る 
 
 こうした記事がフランス、ドイツ、イタリアを駆け巡った。スピリチュアリズムが再びブームを引き起こした。私も新聞人として、これを重大ニュースとして扱った。その扱い方には、ボスに対する生前の敬意がそのまま出ていた。
 またオーエン女史をよく知っていたので、いい加減な話でないことは信じていた。つまり、オーエン女史に関する限り、その記事に偽りも誇張もないことは信じていた。が、当時の私としてはそこまでが限界だった。要するにボスの述べていることを信じることは出来なかった。
 「私は信じてないが女房はすっかり信じてるよ」ー上司の一人がそう言っていた。ではスピリチュアリズムの専門家はどうか。四人のコメントを紹介しておこう。

オリバー・ロッジ[1851〜1940:世界的な物理学者で哲学者。第一次大戦で戦死した息子のレーモンドからの通信で死後の存続を確信。その経緯を述べた『レーモンド』は本書と共にスピリチュアリズムの古典的名著とされるー訳者]
 レナルド夫人の霊媒現象については私も数年にわたって調査したが、その誠実さと真っ正直さに百パーセント確信がいった。オーエン女史が完全な匿名で出席したというからには、メッセージを送ってきたのがノースクリフ卿以外の何者でもないと結論づけてよい。

ウィリアム・バレット[1845〜1929:ノーベル物理学賞を受賞した世界的な物理学者で、ヴィクトリア時代の最後の知的巨人と称されるー訳者]
 ノースクリフ卿からのものとされている通信は実に興味深く、拝見した限りでは純正な霊界通信であろう。私はレナード夫人を個人的に存じ上げているが、間違いなく信頼の置ける霊能の持ち主である。

コナン・ドイル[1858〜1930:名探偵シャーロック・ホームズで世界的に知られた作家であるが、本職は耳鼻科の医者で、患者が来ないその暇に書いたのが当たり、その後シリーズを書き続けながら、医学生時代から抱き続けてきたスピリチュアリズムの調査研究を手がけ、その成果を『新しき啓示』『重大なるメッセージ』として出版した(日本語版では合本にして『コナン・ドイルの心霊学』として出版。)その後は世界中に講演旅行をしてスピリチュアリズムの普及に努めたー訳者]
 オーエン女史がブリテン女史とレナード夫人から得たメッセージは、間違いなく女史の意志とは別の次元から届けられたものであることを確信する。いやしくも理性のある人間ならば、一読してそれがノースクリフ卿その人から送られたものであることを疑うことは出来ないはずである。

 フリート街(新聞社が軒を連ねる通り)も大騒ぎだった。私に他に特ダネはないかと尋ねる記者がいたが、デマではないのかといった批判的な声は聞かれなかった。唯一それに近いものといえば、私の親友が編纂しているBurnly Newsに『フラノのグレーのスーツ』を嘲笑する記事があった。
 実は私も校正の段階でその一節を削除しようかと思ったほど違和感を抱いていた。それは私だけではなかった。The Peopleの宣伝部長フィリップス氏がやってきて
「知人が例のフラノのグレーのスーツについて詳しく知りたがっているのだが・・・」
と言う。
「なぜだ?」と私が聞くと
「本当かどうかを確かめたいらしいのだ。もし本当だったら、霊界へ行ったらフラノのグレーのスーツを縫わなきゃならないからと言うのだ。そいつは洋服の卸屋でな」
 こうして大笑いしたりボスを懐かしんだりしている頃に、その後の私の人生にコペルニクス的転回をもたらすことになる一通の手紙が届いたのだった。

 予言者イエスが田舎村のナザレからやって来たように、未知の世界に関する驚異的事実が、イングランド南東の一角フォレスト・ヒルにあるスピリチュアリスト教会からThe People社に送られてきた。

 差出人はその教会の牧師ポター氏で、末尾に住所と電話番号が記してあり、青の十字架と教会の絵が描かれてあった。ここでその全文を紹介し、さらにそれに関連した意外な事実も紹介しておきたい。


 編集長殿


 貴紙に掲載されたノースクリフ卿からの通信に関連したことでお耳に入れたいことがございます。この霊は過去二年間に何度も我々の交霊会に出現しており、つい先週も出たばかりです。パウエル博士と一緒に出ることが多いです。二人とも他界して二、三日後に出現しております。

 我々の教会誌に掲載した通信を幾つかお送りしました。『ハームズワース』と名乗っていますが、ノースクリフと呼ばれていたと言っております。公表していない通信も沢山あります。

                                       敬具

                                      J・W・ポター


 追伸ー私達のサークルは週二回の割合で交霊会を催しており、今夜で215回目となります。多くの牧師、主教、医師、著名人が出席しており、また米国、カナダ、オーストラリア、南アフリカ等々の諸外国からの参加者も少なくありません。皆霊的真理を知りたいとの高尚な動機を持った人達ばかりで、物理的心霊現象の類は禁じております。

 霊媒は私の息子で、まだ十七歳の若さで霊媒能力を発揮しましたので、ノースクリフという名前は知りませんでしたし、その他、パウエル博士以外の出現霊の誰一人として知った人はいません。スパージョン(牧師)、グラッドストーン(政治家)、ラスキン(画家)その他、私が個人的に知っていた人が出現して、私のよく知る声と話し方で語っております。


 そして同じ封筒の中にSpiritual Truth(霊的真理)というタイトルの教区誌から切り取られた二つの記事が同封されていた。そのタイトルの下には次のような内容説明がある。


 『霊的進歩と理解と調査と討議と反省と証言の為の無所属の心霊誌』


 その切り取りにはノースクリフに関連した記事が二つあった。一つは1923年3月21日付けで、ただ「ノースクリフ」とあるだけだった。要するにノースクリフからのメッセージということで、いつものように、いつもの交霊会で、いつもの霊媒を通して得られたもので、編集者にとっては何の変哲もない記事だったのであろう。

 しかし、私にとっては、人生でこれほどドラマチックな記事はない。墓地に埋められたはずの大先輩から送られてきたメッセージである。しかも一年半も前に交霊会に出てきて喋っている。その事実を私は全く知らずにいたのである。ともかくもそのメッセージを紹介してみよう。


    「ノースクリフ」


 ここに紹介するのはノースクリフと名乗る霊が本教会における交霊会で語った最近の霊言である。我々としては『当人』であることの真実性を疑う理由は何もない。その霊が、交霊会を主催する高級霊(指導霊)の許しを得て語り、我々はそれに一切の手を加えずに掲載する。読者がそれを真実のものとして受け入れようが拒否しようが、それは自由である。我々としては、霊界から送られたものをそのまま地上界に届けるだけである。ノースクリフと名乗る霊からの通信は他にも幾つかあるが、これは本人が「死」の過程で経験したことを是非とも伝えたいとの要望にこたえて語ってもらったもので、十二人を超える霊的経験豊かな出席者の前で、深いトランス状態の青年霊媒を通して得られたものである。


 私は説明しようのない風変わりな家屋で目を覚ましました。部屋の壁は一面の花盛りで、ありとあらゆる種類の花が咲いています。屋根はあるにはあるのですが、なぜか突き抜けて空が見えるのです。やがて意識がはっきりしてきて、それと同時に幸福感が湧いてきました。無上の喜びを感じ始めました。

 地上生活につきものの制約が何もないように思えました。立ち上がって外へ出ました。すると地上では想像もつかないような風采の男に出会いました。ひどく派手な色彩のローブを纏っていて、私はこれが天使なのかと思いながら近づいて、地上でやり慣れた形の挨拶をしました。するとその人は私の肩に手を置いて、じっと私の目を見つめるのです。それでやっと気がつきました。地上で親しくしていたエリス・パウエルで、今夜ここへ案内してくれたのも彼です。

 彼と会うなんて思ってもみなかったことですし、ただただ驚くばかりでした。私は彼の手を握り、再会を喜び合いました。彼は死後の世界の素晴らしさについて語ってから、私の肩を抱えるようにして歩道を通り、丘を登って行きました。辺り一面が緑に輝き、小鳥がさえずり、花が咲き乱れ、動物も見かけました。

 丘の頂上に登ってから振り向くと、下の方に聖堂が目に入りました。言葉では説明しようのない荘厳なもので、それを見ながらパウエルが、あそこでいつかまた会うことになっていると述べました。

 その後も多くの新しい体験をしました。私の想像力を超えたことばかりでした。こちらにも青空があるのです。大陽も見えております。が、嫌なものがないのです。全てが良いものばかりです。中でも心を打たれたのは湖の美しさです。その水は「いのちの水」だと教わりました。水そのものが生き物なのです。その湖のほとりに立って辺りを見回すと、かつて味わったことのない安らぎを覚えます。

 魂の目が開かれたのでしょう。もう一度地上界に生れ出たら、どんなにか価値ある生活が送れるだろうと思います。天国は物的なものから生まれるのではありません。地上界へ霊的真理をもたらさねばならないという声をよく聞きます。が、人間が魂の目を開いて真理を語りさえすれば、霊界から働きかける必要はないのです。

 そろそろ行かねばなりません。また参ります。おやすみ、皆さん。


 社の者みんながこれを読んだ。繰り返し読んだ。間違いなく二十回は読み返したであろう。そして私はこう言ったー

「おいおい、考えてみろよ。ボスは天国へ行っても記事を送ってくれたよ。だが、なぜここへ寄越さずにフォレスト・ヒルなんかに送るんだよ。ポターなんて我々が全く知らない人間じゃないか。そんな奴になぜ自分の人生の最大の物語を話すのかな。それも、二年近くも前のことだよ」

 悲しいかな、その頃の私はスピリチュアリズムというものについて、その名前しか知らなかった。霊界から通信が殆ど毎時間ー大げさではなく世界中のどこかで一時間に一回の割でー地上界へ届けられていることなど、思いもよらなかった。

 さらにまた、そんなことをうっかり口にすると嘲笑の的にされるので、その真実性を確信している人でも、なるべくなら口外することを控え、理解している人達の間だけでヒソヒソと語り合っていること、出版するとしても、出来るだけ控え目な形にしていることも知らずに、我々ジャーナリストこそ世論をリードする知性派の最先端のつもりでいながら、その実、肝心なことは何一つ知らずにいたのである。

 同封されていたもう一つの記事はSpiritual Truthの1923年6月6日付けからの切り抜きで、長文であるが全文を紹介する。


 「ノースクリフとSpiritual Truth」


 1923年5月3日木曜日の夜の交霊会で最初に出現した霊について、司会者「審神者(さにわ)」が「初めての方のようです」と述べたが、いよいよ霊媒の口をついて出た言葉は「前に一度出たことがあります。ノースクリフです」だった。我々も挨拶し[列席者が口々に「ようこそ」と述べるー訳者]、その後の霊界での進歩について質問するとー


 地上界でいう進歩とはいささか異なるようです。[進歩]という用語に新たな解釈を施さねばならないことを知りました。というのは、全ての魂が常に進歩しており、誰一人として進歩を停止することはないからです。各自の人生における一つ一つの行為が、[永遠の旅]という名の梯子の一つ一つの段であることを学びました。高次元の世界から見下ろしている高級霊の視点からすれば[退歩]というものは有り得ないことに理解がいったのです。

 高い界にいる者と低い界にいる者とを比較する限りでは、それぞれの視点での認識の仕方から、進歩しているとか退歩したといった表現になりますが、神の目から見れば退歩するということはなく、全ての者が進歩しているのです。次元の高い界の霊も低い界の霊も、それぞれの次元で魂を磨くことを目標としているのです。自分で自分の家をこしらえているようなものです。単なる動物的存在だった魂の霊性を発達させているのです。上昇するのも下降するのも、私には同じことのように思えます。見ていて楽しいものです。

 私はその後もずっとあなた方の出版物「スピリチュアル・トゥルース」に関わっています。私が編集室にいるところを何人かの人が霊視したというのは事実です。確かにあなた方の傍にいました。
 死後、地上で私が始めた出版事業にこちらから影響力を行使しようと思ったことがありましたが、上手く行かないことが分りました。悲しいかな、アレではダメです。根本から大改革が必要です。基本理念を改めないといけません。
 が、現在の私には、最早手が届きません。考えてもごらんなさい。若くして私が創業し、何十年もかけて育て上げ、現在の地歩を固めたのです。それを全て地上に置き去りにしてきたのです。全てを失ったと言っても良いでしょう。
 考えても見てください。自分の人生を自分一人の手で建ち上げたのです。自分の進むべき道を若くして方向づけて、その道をまっしぐらに進みました。朝も昼も晩も休みなく働き、社内で寝起きする毎日でした。そういう仕事から離れることは悪魔に誘われるような気がしたものです。そして死・・・・
 同じ会社にいるのに何一つ手出しが出来ません。何の影響力も行使出来ません。社員に命令しても知らん顔をしています。それまでやってきた仕事が全く出来ません。言わば迷える霊となってしまいました。そこへ、皆さんが出しておられる教区誌の仕事が与えられました。生前の新聞の編集に比べればチャチなものですが、私に欠けていたものを埋めてくれることになりました。これだ、自分の魂はこれを求めていたのだ、と思いました。それまではまり込んでいた轍(わだち)から少しずつ脱け出ていきました。
 これからの皆さんのお仕事の成功を祈っております。再びこの場に出させて頂いて嬉しく思います。私の理解はまだまだ皆さんには及びませんが、今の私の霊眼に映じる限りでは、皆さんの想像も及ばない程の成功が待ち受けております。その実現を期待しております。

 以上の記事を私は一気に読んだ。その後も何回も読み返し、これまでに五十回は読んだであろう。それまで私は、そこに述べられていることが本当の死後の世界からのメッセージであるとは信じなかった。が、あのボスが別の次元から戻ってきて必死に我々生前の仲間達に語りかけている様子を想像してみた。そしてロンドンの一角のくすんだ印刷室で素人臭いやり方で編集・発行に取り組んでいる作業員に付きっきりで助言している様子を思い浮かべると、地上の大規模な新聞社で指揮していたボスとの違いに同情を禁じ得なかった。
 ところが社にはその後も「ボスからの通信はもうないのか」という問い合わせが次々と来ていた。初めの内は我々は小馬鹿にして、まともに取り合わなかった。が、その内、時折、「本当に有り得ないのだろうか」という疑念が湧くようになった。そして私はポター氏に電話で話をしてみる気になった。新聞人は相手構わず電話を掛けまくる癖がある。私も、どうせ髭もじゃのご老体だろうくらいにしか想像していなかった。ところが実際の耳で聞いた声から判断する限りでは、率直で、妙に謙虚で、どこか崇高な存在に話しかけている感じがした。
 その時の話の内容は記録しなかったが、最初の手紙が届いてから一週間後の九月二十九日に、そのポター氏からもう一通の手紙が届いた。 

最初の手紙が届いてから一週間後に、ポター氏から二通目の手紙が届いた。その間電話で数回喋ってはいたが、まだ一度も会ってはいない。手紙の大要を綴ってみるとー

 編集長殿
                                        9.29.1924.

 今朝のお電話の後、先日お送りしたメッセージ以前のノースクリフからのメッセージの記録を探してみました。
 ノースクリフからのものを取り出すのに数時間を要しました。それというのも、私達の交霊会は既に200回から300回を数えるほど続けており、その間、ノースクリフ以外にも数え切れない程の霊が出現して語っており、一年分の記録の中から取り出したにすぎません。全部に目を通す時間がありません。しかし、取り出したものは確証の高いものばかりです。

 末尾に交霊会へ招待したい旨の意向が添えられており、教会までの道順の説明をしてから、最後に、交霊会は教会では行わず拙宅で催していると述べてあった。
 実を言うと私は、それまで交霊会というものに出席したことがなかったわけではない。一度だけだが、文学仲間のデニス・ブラッドレー宅での米国人霊媒ヴァリアンティンによる実験会に出席したことがあるが、代わる代わる喋る「死者」の話にはうんざりして、何の感興も湧かなかった。「生者」の話にもうんざりさせられることがあるが・・・
 が、ポター氏の招待を受けて、
 「じゃあ、(教会のある)フォレスト・ヒルに行ってみるか・・・」 
と私が言うと、みんな興味を示した。特にオーエン女史は興奮を隠し切れなかった。
 が、もう一人のウィルソンは、教会で「おお、神よ、聖なる神よ」式の大げさな祈りを聞くと噴き出したくなると言った。そう言いながら自分も同伴したいと言い出したので私は
 「ついて来てもいいが、ポター氏が席が足りないと言ったら、君だけ外で待ってろよ」
と言った。
 さて木曜日の当日、三人でポター氏宅を訪れると、華奢な身体をしたポター夫人がドアを開けて出迎えてくれた。夫人の後について入ると、交霊会に使用する応接間へ通された。15個あまりの椅子が円を描くように三つずつ引っ付けて並べてあり、間を通り抜けられるようにしてある。
 それを見た時私は「最後の晩餐」を思い浮かべた。周知の通りイエスの弟子達は知名度ゼロの人物ばかりで、取り立てて教養もなければ説教が上手い訳でもなかった。それでいて、その後の世界人類を大きく動かした。
 いよいよ交霊会が始まることを知らせるオルガンの演奏が始まった。霊媒を務めるポター氏の息子さんがキャビネットの中に入り、用意を整えた。キャビネットは、私が思うに、霊的エネルギーが物的エネルギーに転換される「場」で、シェルターのようなものであろう。
 ポター氏の子息はクリフォードという名前で、まだ十九歳の青年である。交霊会が始まる直前に挨拶を交わしたが、ごく普通の若者で、この人を通じて多くの霊が喋るとは信じられなかった。
 やがて全員がオルガンに合わせて賛美歌を歌った。ドグマ的な教義に触れない内容のものが選んであるそうで、それを歌い終わるとポター氏が聖書の一節を朗読し、その後もう一曲歌った。それから周囲が消され、赤ランプ一つが淡い光を放っている。円座の後ろに席を取った我々三人は、何が起きるか、固唾を飲んで見守った。
 「ボスが出てくれるかしら?」とオーエン女史が不安そうに言う。オックスフォード大学出身のウィルソン氏はあまり本気ではない様子だった。やがて霊媒のクリフォードがキャビネットから出てきて、
「皆さん、今晩は」と言い、出席者の間を回りながら一人一人の健康状態を診ている様子だった。
「今夜は出席者の数がいつもより多いですね。皆さん診てもらいたいのでしょうか?」
「いえ、違います。今夜は招待客がいらっしゃいます」と誰かが答える。
 この霊はリチャードソンといいクリミア戦争[1853年]に医師として従軍し、片脚と片腕を失ったという。老齢で他界したその影響か、年老いた感じがする。
 交霊会はいたって穏やかな雰囲気で、ユーモラスなやり取りもあった。リチャードソンが医者だったこともあって食事についての質問をする者もいた。
「先生、魚を煮る時は皮を剥ぎ取る方がよいでしょうか?」
「缶詰のロブスターは健康に害はありませんか?」
「冷水浴をしてもよろしいでしょうか?」
 その他、野菜の食べ方、魚の調理の仕方、等々についての質問があり、それらにユーモラスに答えてから、
 「では、おやすみ」と言って去って行った。
 少しの間静けさが続き、その間に霊媒はキャビネットに戻った。すると今度は音とも声とも区別のつかない不思議なものが聞こえてきた。私の直ぐ前に席を取っているポター氏が
「アムタラーゼだ」と独り言のように言うのが聞こえた。
 英語で喋っているらしいが、私には聞き取れない。が、その後のポター氏から聞いた話によると、アムタラーゼは霊媒のクリフォードの指導霊の一人で、かなり前にアフリカで地上生活を送ったという。
 やがてキャビネットから出てきたアムタラーゼは親しそうに出席者と語り合っている。私にはその英語が聞き取れなかったが、みんな慣れっこになっているらしい。賛美歌が好きで、みんなが歌っていると手拍子で合わせたり、もう一曲、もう一曲と注文していた。
 アムタラーゼが引っ込んだ後、今度は気難しそうな感じの老人の声が聞こえてきた。
「今晩は、皆さん。また難しい問題にお答えする為に出てまいりました」
と言う。出席者が口々に「今晩は、ダニエルさん」と挨拶を返したが、その挨拶にはどこか緊張した響きがある。それもそのはずで、ダニエルは300年前の英国国教会の牧師で、当時の聖職者階級の道徳の乱れに憤慨して牧師職を辞した人物だった。
 どうやらこのダニエルがポター・サークルの中心的指導霊であるらしく[後でさらに高級な霊が出て、それが中心的指導霊であることが分かるー訳者]、「難しい質問にお答えしましょう」というのが決まり文句だった。
「今夜はダニエルさんの方から、何でも結構ですからお話願えませんか?」
とポター氏が言うと、
「では、ポターさん、あなたはこの前の説教で、イエスは『手を取って導いてくださる』と仰いましたね?」
「そういう言い方をした記憶はありませんが・・・」
「いえ、仰いました」と、きっぱり言ってからさらに、
「なぜ霊的な導きの説明に物的な表現を用いられたのでしょうか?」と訊ねる。
「そうですね・・・ただ、ダニエルさん、霊的なことを地上の言語で表現するのは、とても難しいのです」と正直に言うと、
「よく分からないことは分からないと正直に言いなさい。キリスト教界の問題の大半は、よく理解していないことを分かっているような態度で説くことから生じているのです」と、手厳しく言う。
 これにはポター氏も素直に頷き、ダニエルもそれ以上多くを語らずに
「では、おやすみ」と言って引っ込んだ。
 私はその後数回このサークルに出席して、その度にダニエル霊と言葉を交わしているが、その述べるところは筋が通っており、相手をする私が恐怖さえ覚える程の威厳があった。
 それからいよいよ、我々のボスが出現したーいや、出現して喋ろうとしたが、なぜか、上手く言葉が出ない。その様子をポター氏の記録から読み取って頂きたい。

 交霊会も半ばに差し掛かった頃、新たな霊が霊媒を通じて喋ろうとして、必死にもがいている様子がうかがえたが、結局諦めた。替わってジョン・ラスキン[英国の風景画家]がかかってきて、少し手間取った末に、どうにか喋った。が、その時は直ぐに引っ込んで、またさっきの霊がもがきながら、どうにか喋った。

 ハームズワース! 私ーがー出るーことはー言って欲しくーなかったです。[ポター注ーハームズワースが出ると言ったのではなく、会が始まる前に他の出席者に、ハームズワースの生前の知人が出席しておられると言ったのだった。]
 [霊媒]はー私には喋らせたくーなかったー彼にとってもーこれは辛いことだから・・・・こうして喋ることはーもの凄くー難しいです。
 親しくー喋ろうとーしてもーそれが出来ない・・・それにー忘れないで欲しいー地上でいくら偉かったといってもーそれは何の意味もない。大事ー大事なのはー何を成し遂げたかです。今夜はー喋るのがー苦痛です。では、さようなら。


 これだけ喋るのに10分はかかっただろうか。こんなに呻くような物の言い方をし、必死でもがきながら喋るのを聞くのは、私にとっても初めてだった。私もオーエン女史も「何が言いたいのですか?」と何度も聞き返したが、聞こえるのは、喘ぐような男の声だけだった。
 私は怖かった。鳥肌が立つ思いだった。私は死刑執行の場に居合わせたこともあるが、その恐ろしさは違っていた。明らかに精神的、肉体的、霊的、そして道徳的な苦悩に苛まれている状態だった。薄暗がりの中で私は震えていた。口が利けなかった。隣にいるオーエン女史が私の手を握った。彼女は泣いていた。
 その後にも次々と霊が出現して、様々なことを喋った。ラスキンも再度出てきて、ラスキンらしい芸術の話をした。最後に、そのサークルの中心的指導霊である「カウンセラー」[相談者という意味の仮の名]が出て、会を終えるに当たっての祈りの言葉を述べた。イエスの十二人の弟子の一人であったという説明をポター氏から聞いた。本当かどうかは別として、その厳かさと崇高さは、この世的なものを超越していたことだけは確かだった。
 が、その日の我々にとっては、ハームズワースとの名乗る霊の苦悶に満ちた言葉以外は、どうでもよいことだった。
「では、これで失礼します」というありきたりの挨拶をしてポター氏宅を出ると、私はタバコに火をつけた。そして駅へと向かった。
「まさか、今夜のことを記事になさるつもりじゃないでしょうね?」とウィルソン氏が言った。
「我々はからかわれているんですよ、きっと・・・」
 私もまだ決定的な確証を得るところまでは至っていなかった。

1922年8月14日ーこの日だけは絶対に忘れない。ボスが他界した日である。一日中涙が止まらなかった。が、仕事は休まなかった。
 実はその数週間前から、私はボスの伝記を書く為に資料を収集していた。死を予感していたわけではない。あれだけの人物なのだから、いずれは必要になると思っただけである。
 私個人としてはボスの欠点の方が人間らしくて好きだったから些細なことまで書くつもりだったが、余計な憶測を生みかねないことだけは除外した。それには同僚のチャールズ・サンディマンも協力してくれた。原稿に細かく目を通してくれて、その間に自分で思い出したものを付け加えてくれたり、こんなことを書いたらボスが怒るんじゃないかと思うものを削除してくれたりした。ボスの急死の報はそんな中でもたらされた。
 「Bystander紙にボスに関する記事を頼む」という依頼を受けた時、私はDaily Graphic紙の校正刷りを手にしたまま泣いていた。
 「今は何も書きたくない」と答えながらも、用意していた資料を元に、Daily Graphic紙にもう一ページ分の記事を書いた。それをトップ記事として、[偉大なるジャーナリストの死]の見出しで掲載した。その書き出しの文は「この記事を私は涙に暮れながら書いている」というものだった。
 それを読んだ読者から「彼が偉大なジャーナリストかな?」という声も寄せられた。その夜には私に面と向かってボスを悪し様に言う者まで現れて、もう少しで取っ組み合いの喧嘩になりそうになった。正直言って、私もボスのことを悪し様に言ったことは何度もある。が、同じ悪口でも、ムカつく程の不快感を覚えさせるようなことは、ボスに限らず、誰のことでも言ったことはないつもりだ。
 それはともかくとして、そうやって私が会う人ごとに世界一の宣伝屋のことで語り合っていた時、当の本人は既に別世界から死後存続の真理の宣伝を始めていたのである。棺桶から脱け出て、フォレストヒルの交霊会で喋ったーいや、喋ろうとして懸命に努力していたのだった。
 最初は名前も名乗らずに出現したらしい。が、ポター氏を始めとするサークルのメンバー達は、その話し振りで、いわゆる新参者であることが直ぐに分かったらしい。ポター氏の記録を紹介しよう。

 その後エリス・パウエルが出現したので、やはりさっき出たのはノースクリフであることを確信した。というのは、パウエルはノースクリフに関心を抱いていたし、このサークルの中心的指導霊とも親しくて、これまで何度も出現していたのである。が、その時は雰囲気が弱々しくて、脳の病気の後遺症が見られた。次の会(十八日・木)にも出させてもらう予定であると言い、今は楽になり、痛みからも解放されたと述べた。
 霊媒に乗り移っている間に全員で賛美歌を三番まで斉唱した。終わると「もっともっと歌ってください」と言うので、続けて残りの三番を歌った。会も終わりに近づいた頃、霊媒の私の息子がトランス状態で席を立ち、ソファに置いてあったイブニング・ニューズ紙を手にして私の前まで歩いて来て「この男が私です」と言う。その一面トップにはノースクリフの大きな写真と共に訃報が掲載されていた。その日はそれで終わった。
 次の木曜日に、予告通り前回に新しく出た霊がまた出現して、ノースクリフと名乗った。前回出た時よりずっと元気そうで、礼を言い、地上界との通信の為に我々を利用することになっていると述べた。
 その後サークルの指導霊が出て、今のはノースクリフ霊で、今後このサークルを通して地上界へメッセージを送ることになるであろうと述べ、次に出る時はもっと元気になっているであろうー彼は元来が偉大な霊で、地上界の霊的覚醒「スピリチュアリズム」の仕事を担っている、と締めくくった。
 次の木曜日にも出現した。だいぶ元気が出て来たことを告げてから「皆さんありがとう。こうして喋るのはとても難しいです。ですが、頑張ります。これからも出ます」と述べた。
 次の木曜日(八月三十一日)にも出現して、今度はハームズワースという本名を名乗り、さらに、自分がどれくらいの声が出せるか、その音域を試すかのように、時折大きな声で喋ったりした。その後賛美歌を歌って欲しいと言うので、メンバーみんなで歌うと自分も唱和した。それが終わると今度は急にSpiritual Truthの最新版に言及して、「二ページの三つ目の欄はアレではいけないー改めないと・・・新聞というのはトップ記事をもっと目に留まるように工夫しないといけません」と述べて、言いたいことは他にも山ほどあるけど、「今日はこれくらいで失礼します。お邪魔しました」と言って引っ込んだ。
 次の月曜日にはノースクリフが真っ先の出て、私「ポター」に向かって「今日はパウエルが審議会[訳者注 スピリチュアリズムの活動は世界的規模のもので、各地で密かに催されているサークルの指導霊達が一年に何回か会合を開き、それまでの計画の進捗具合を報告し、これからの計画を言い渡されるという。]に出席していて出られないので私が代わってお答えします。これまで彼が述べて来たことは彼に託されているメッセージのごく一部に過ぎません。それにはこの活動に関わる霊団の全ての者の願いも込められています」

 サークルのメンバーからの色んな質問に答えた後、
 「こちら(霊界)では『現代』という時を最大限に活用します。『未来』の為の『現在』を生きているのです。地上界もそうならないといけません」と述べた。その頃はどうやら霊界でも組織の再編成が行われていたらしく、地上界へ届けるメッセージにも変化が出てきた。その間ノースクリフは出る機会がなく、次に出たのは翌年1923年5月3日の木曜日だった。
 その後ノースクリフは五月十日、十七日と出て、次に出たのは八月二十日だった。メンバーの一人から「前回仰りたかったのは教義とか道義の問題でしょうか?」と問われて、次のように答えた。

 教義のことですよ。キリスト教にも教義があるではありませんか。論理・道徳の問題に関しては私には言う資格がありません。私は新聞社の経営者ですーいや、ついこの間までそうでした。どうぞ質問なさる時はそのことを念頭においてください。私の論理・道徳観はすっかり変わりました。とても語り尽くせません。それを実践的に体得するまでには至っているかどうか、自分でも分かりません。こちらへ来てから視野の地平線が果てしなく広がっております。
 
 次に出現したのほぼ一年後の1924年7月24日で、およそ次のように述べた。

 また出られて嬉しく思います。今日申し上げたいのは、俗世のことに関わるのはよろしいが、ジャーナリズムだけは避けなさいということです。こちらへ来て地上界を見ておりますと、ますますその感を強くします。[訳者注 ここでは新聞・雑誌による情報のことであるが、現在ではテレビやコンピューター、中でもインターネットなどを媒体として無選別で入り込んでくるので、メリットと同時にデメリットも当時とは比較にならないほど多い]
 勿論ジャーナリズム界全体が悪いとは言いませんが、一部の偏向したジャーナリストの存在は国家にとって害毒となります。地上界の報道記事を見ておりますと、知性を持つ人間がよくもこんなものが読めるものだと呆れなす。
 ジャーナリズムは既に最盛期を終えました。現代を象徴するプラカードが幻影であることを知る時が遠からず来ます。そして[センス]が[ナンセンス]に取って代わります。教養至上主義の文明がこれ以上はびこるとは思えません。いずれ満腹の時代が来て、不消化と共に飽きが来ます。現今の地上界の実情にはイライラさせられますが、私が何よりも望んでいるのは、新聞が国民の持ち物となることです。つまり、一部の人間のイデオロギーやポリシーを国民に押し付けるのではなく、ニュースと思想をあるがままに一般国民に伝達することです。現在の新聞はどちらも伝達しておりません。
 現在の新聞は、一方では、センセーショナルではあってもナンセンスな話題ばかりを報道しております。実は私も最初のうちはそうでした。が、その後私自身はその弊害に気づいて、永続性のある価値ある話題に切り替えました。他方、地上界は不道徳が蔓延り、霊性が欠如しております。新聞は国民の所有物であるべきです、金と権力にものを言わせる者が濁流に呑み込まれる時代が来るでしょう。                                    皆さん、おやすみ。

 それから数週間後に出現した時は雰囲気がすっかり変わっていた。

 皆さん、今晩は。前回お話した時から随分になるような気がします。今では地上界のことは遠い記憶、もっと正確に言えば『悪い夢』のようなものになってしまいました。殆ど忘れておりますし、思い出したいとも思いません。現在の霊界での生活には、最早何の関わりもなくなりました。もう必要もなくなったと言ってよいでしょう。しいて善意に解釈すれば、これからの生活で二度と犯してはならないという警告のようなものです。
 私は今ようやく勉強を始めたところです。『始めたところ』と言いましたが、正直いってこちらへ来てから見ること聞くこと全てが新しいことばかりで、何世紀という時間が風に拭かれた籾殻のように、あっさりと吹き飛んでしまいます。ですから、私は皆さんに何かを教えたくて出てくるのではありません。現在の私の考えを述べているだけで、時が経てば変わるかもしれません。摂理は一度には学べません。どこを見ても学ぶべきことばかりで、水平線が広がるにつれて、いくらでも学ぶべきことがあることを思い知らされることの連続です。
 私は古い自分を『殺す』ことが出来るようになりました。古い自分を抑え込み、新しい自我を表面に出すことに努力しているところです。自我というものがやっと分かるようになりました。今になって分かるのですが、地上時代の自我は型にはまって一歩も進歩していませんでした。しかし、今やっと私はその型を切り崩し、バリアを取払い、霊的向上のスタートラインに立ちました。これは地上時代のいかなる発見にも勝る大きな発見です。古い自我を葬り去って、新しく生まれ変わるのです。
                                 では、おやすみ。

 こうした一連のメッセージが、初めてサークルに出席した時と同じ霊媒クリフォード・ポターの口をついて出たのである。声は確かに若いクリフォードの声に違いないが、話し振りは間違いなくあのボスである。もっとも、サークルのメンバーにとってはノースクリフという人物は言わばどうでもよい霊であったろう。他にいくらでも素晴らしい馴染みの霊がいたのである。が、ポター氏は綿密に書き取ってくれていた。しかも、他界した1922年8月14日の夜には既に出現していて、ポター氏は親切にもその事実をDaily Mail社に送ってくれていたのである。
 が、当然のことながら編集部はそれを無視した。仮に私がデイリー・メールの主幹であったとしても無視したであろう。そして、今思うに、ポター氏も無視されることを念頭に置いていたことであろう。

 前章で紹介した記録を読み終えた私は、ノースクリフにまつわる霊言現象を本格的に検証してみようと決意した。でっち上げではないのか・・・・それを突き止める為に、かつて足を踏み入れたことのない未知の世界へと入ってみることにした。
 そもそも私がスピリチュアリズムに関することを耳にしたのは、ほぼ二十年前の1904年のことだった。妻と共に「英国南部の保養地」ブライトンに滞在していた時に、ジョルジーナ・ウェルドンという婦人が、フランスの作曲家グノーから素晴らしい霊界通信を受け取ったという話を耳にした。ウェルドン女史は生前グノーと親しい間柄だったが、遺産問題で訴訟を起こすなど、憎み合う仲になった。それがグノーの死で一件落着となった後にグノーからの通信が送られて来た。
 そのメッセージは雑役婦をしていた女性の手で綴られ、美文調のフランス語の散文とラテン語の詩で書かれており、雑役婦にはとても書けるものでないことは一見して直ぐに分かった。ウェルドン女史はそれを単行本として出したが、私は当の夫人からこの種のものには作り物が多いことを聞かされていたので、それきり忘れていた。 
 それから数年後の1915年に、私が主筆をしていたWeekly Dispatch紙に、当時のそうそうたる著名人でスピリチュアリズムに理解のあるオリバー・ロッジ卿、アルフレッド・ターナー卿、ウィリアム・バレット卿、エリス・パウエル博士等々に投稿をお願いしたが、それは、第一次世界大戦で何万という若者が戦死し、その母親達が悲嘆に暮れている様子を見るのが耐えきれなかったからである。
 ボスのノースクリフの命令であの有名なヴェール・オーエン牧師の自動書記通信Life Beyond the Veil(日本語訳『ヴェールの彼方の生活』
)を連載したのは1919年で、大旋風を巻き起こした。その内容が伝統的キリスト教とは相容れないものだったことから、教会の長老から撤回を迫られ、それを拒否したことでオーエン師は牧師職の剥奪を脅迫されるに至った。 
 が、オーエン師は躊躇無く辞職願いを出した。というのも、オーエン師はノースクリフが「ウチの新聞に出してもよい」と述べた日に家族会議を開いた。そして「これを新聞に出そうと思うが、どうだろうか?言っておくが、これで我が家が破滅に瀕することは間違いない。人生を一からやり直すことになるが、それでもよいか?」と言った。すると「構いません、これは真実なのですから」と、家族全員が述べたという。
 ボスはそれから二年後に他界するが、その日は夜にはポター氏のサークルに出現していた話は既に書いた。そして、それから私の文士仲間のデニス・ブラッドレー氏のサークルに出現することになる。
 ボスのことが知りたい一心でスピリチュアリズムにのめり込んでいった私が知ったことは、詐欺師的な霊媒が殆どだということで、戦争で我が子を失った親の悲しみにつけ込んで、適当な芝居じみたことを演じて感激の涙を流されているに過ぎないことだった。
 が、他方にはスピリチュアリスト教会というのが英国中に500以上もあって、日曜日にキリスト教と同じやり方で礼拝をする他に、週一回、何曜日かに交霊会を行っていて、これは大体において真面目な集会であるように思えた。
 周知の通り、中世のヨーロッパでは魔女狩りというのが行われた時代があった。ちょっとした噂でしょっぴかれて、拷問を受け焼き殺されるということが横行した。まさに恐怖の時代で、若い女性のいる家庭は戸締まりを厳重にして一歩も外へ出ない日が続いたようである。
 そうした風潮が逆転して、堂々と交霊会が催され、霊的治療も行われ、奇跡的治療も頻繁に聞かれるようになった。壇上から霊能者が出席者の傍にいる霊の姿格好を叙述し、その身の上を的確に言い当てるという、いわゆるデモンストレーションも盛んになった。
 心霊写真で有名なクリュー市のウィリアム・ホープが名を馳せたのもこの頃で、A・E・ディーン夫人と共に一種のブームを巻き起こしていた。が、この分野でも詐術の疑惑がつきまとった。二重写しの疑念は当然のことであるが、悪意の嫌がらせも少なくなかったようである。
 例えばディーン夫人が英国心霊研究所を詐術のかどで解雇されたという記事が、ある新聞に掲載された。当時の同研究所の所長J・H・マッケンジー氏がそれは事実無根であるとの声明を出しても、新聞はそれを取り上げようとしなかった。オリバー・ロッジ卿も弁護する声明を出したが、それも掲載してもらえなかった。
 しかし他方には、英国人でその名を知らぬ人はいない程の人物で、死後の存続を信じている人を私は数多く知っている。その人なりの経緯で霊的体験をして確信するに至ったのである。懐疑派の学者は口を開くと「証拠」や「証明すること」の必要性を強調するが、「証拠を見せられた」から、或は「証明された」からといって必ずしも信じることには繋がらないことを知る必要があるだろう。
 むしろその逆に、第三者には全く意味のないことでも、当人にとっては「絶対的な確信」を得るきっかけになることがあるのである。他ならぬ私がそういう体験をすることになるのだが、それは次章で詳しく紹介する。
 それにしても、よく調べてみると、途方途轍もない現象が幾つも起きている。例えば1871年にはサミュエル・ガッピー夫人の驚異的なトランスポーテーション(またの名を[アポーツ現象])が話題となっていたようである。

 [訳者注 トランスポーテーションの原理はまだ解明されていないが、人体浮揚現象とアポーツ現象が組み合わされたような現象である。人体浮揚は衆人が見ている目の前で、文字通り人間がまるで見えない紐で吊り上げられるように空中に浮き上がり、天上に触れたり、時には窓から出て別の窓から入って来たりする。アポーツ現象には戸締まりを厳重にした部屋で交霊会を催している最中に様々な品物や果物、時には生き物が運び込まれる現象で、ドアや壁が障害になっていないことから、いったん非物質化して持ち込み、再び物質化するのであろうという説と、いったん四次元世界へ持ち込んで運び、三次元へ戻すのであろうという説がある。]

 ガッピー夫人は巨体の霊媒として知られていたが、ロンドンの自宅から三マイル離れた場所で開かれていた交霊会の部屋へ運び込まれている。出席者名十一人で、それを報じた記事によると、入り口のドアはロックされていたという。
 数ヶ月後には同じく女性霊媒の ロッティー・ファウラーは、オックスフォード通りでバスに乗っているところをトランスポートされて、ロンドンのブルームズベリで開かれていた交霊会の部屋に運び込まれている。それから七年半後にはヘンダスンという写真家が、ガッピー夫人の交霊会に出席している最中に一マイル半離れた自宅まで運ばれている。反対にイズリントンの通りを歩いていた人がガッピー夫人の家に運び込まれたこともある。
 以上の実例はいずれも1870代のもので、私は当時まだ十歳前後のことであるが、その後も散発的に発生している。同じく新聞記者をしている知人が交霊会に出席してみたところ、厳格な監視(戸締まりを確認し、バケツの水の量を計り、室内を徹底した点検)をした後で、そのバケツの中に五匹の金魚と二匹のなまずが持ち込まれたという。
 その交霊会にはたまたまポター氏も出席していて、例によって細かくメモをとって、次のような記事を公表している。

 「最初の二匹が運ばれて来た後、バケツの水の量を計ってみたところ1.2リットル程になっており、四分の一リットル程増えていた。六匹目にまた金魚が運び込まれたが、これは仮死状態だった。そこで直ぐに元に戻したらしい。いつの間にかその金魚の姿が消え、水が四分の一リットル程減っていた」という。この例で分かるように、水も一緒にトランスポートされたことが分かる。 

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