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『死』の現象とその過程 目次

『死』の現象とその過程1

『死』の現象とその過程2

『死』の現象とその過程3

「『死』の現象とその過程」ー『スピリチュアリズムの神髄』より

                               ジョン・レナード著


  「死」の現象とその過程は本質的には「老化」の現象とその過程である、というのがスピリチュアリズムの死の理論の出発点である。つまり、老化現象が死の過程の始まりだというのである。
 ところで、この老化という現象については現代の生理学でも諸説があって、定説がない。一番有力で一般に受け入れられているのが、老化は身体を構成している組織の硬化であるという説であるが、それは老化の原因ではなく結果とみるべきである。
 他の説についても同じことが言える。みな身体的な変化を取り上げてそれが原因であると主張するのであるが、いずれも原因と結果を取り違えている。老化及びその終末である死の原因は実は内面的なものであり、現代の科学の範囲を超えた次元に存在するのである。
 
 スピリチュアリズムでは、老化の原因は人体に活力を与えている生体磁気及び生体電気の消耗であると主張する。勿論一度に起きるものではなく、また、特殊な年齢に生じるものでもない。35歳前後の肉体的成熟期から始まって年齢と共に進行する現象で、いわば登り詰めた山からゆっくり下っていくようなものである。
 それまでひたすら吸収し蓄積していたエネルギーとバイタリティを、今度は徐々に使い果たしていくわけである。その過程は極めてゆっくりとしており、初めの頃は殆ど自覚しないが、年齢と共に着実に進行していき、ふと気づいた時はすっかり老け込んでしまっている、というのが通例である。
 ではなぜ34、35頃から、それまでせっせとエネルギーを吸収していたのが、反対に消耗する方に転じるのだろうか。
 その訳は簡単である。吸収するエネルギーの量より消費するエネルギーの方が多くなり始めるだけのことである。それまでは、ひたすらに自我を発達させながら伸び伸びと生きてきたのが、ほぼその年齢の頃から、家庭的にも社会的にも大きな、そして様々な義務と責任を背負うようになり、身体的のみならず精神的にもエネルギーの消耗が激しくなっていくのである。
 一旦この過程に入ると、山を下るのと同じで、止まることを知らず、そして、いよいよそのエネルギーの蓄えがそれ以上肉体を支えるに十分でなくなった時、スピリットは肉体から脱け出ていく。これがつまり死である。この老化現象と、その最終結果としての死に至る過程における最大の要因は、生体電気すなわちエーテル体の構成要素の中で一番程度が低く、物質形態に一番近いエネルギーの消耗である。エーテル体と肉体との分離は、当然、その一番近い接触部分から始まる。そこはバイタリティ、すなわち生体電気が物質形態の中でも物質性の一番低い形態であるエーテルと直接の繋がりを持つ部分である。生体電気の量が減少するにつれて、エーテル体との関係が薄くなる。あまりに薄くなると相互関係の維持が困難となる。そしていよいよ調和の取れた関係が維持出来ないほど生体電気が減少した時点で完全に関係が切れ、エーテル体は肉体から離れる。
 エネルギーの消耗は顔と姿格好に直ぐ現れ、例の老けた感じが出てくる。それは、身体にまるみと弾力性を与えているのがエーテル体の持つ磁気だからである。言ってみれば人間は、電気と磁気という液体の中に肉体という物体がどっぷり浸かって浮いている状態であって、その電気と磁気が枯渇してくれば、当然、肉体は縮んでくる。顔に皺が寄り骨格がもろくなるのはその為である。このエーテル体の電気と磁気は肉体と表裏一体の関係にあり、エーテル体がそれを失えば肉体にその影響が現れるのである。
 それ故に、老けるということは実質的には、エーテル体を構成し、霊が肉体器官と連絡したりコントロールしたりする際の媒体となっている、この電気と磁気が失われていくことである。失われるということは、老化の過程と死の瞬間において全部がどこかへ消えてしまうということではなく、その内の必要な分量だけは死後の身体の構成要素として残され、各器官に吸収されていく。実を言うと、実際に失われていくのは同じ生体エネルギーの中でも肉体と直接繋がった、いわゆる精力として実感している低級なエネルギーであって、高級なエネルギー、すなわち感情や情緒や愛情として実感しているエネルギーの殆どは全部残っていて、物質形態との接着剤の役割をしている媒体(複体)の消滅と共に内部へと移動するだけのことである。
 その過程、つまり低級な電磁気が涸れていくにつれて高級な電磁気が徐々にエーテル体に移動していく過程を、デービスは次のように叙述している。
 
 前述の如く、肉眼はその最上のエキス分を霊眼の製造の為にエーテル体に供給していく。そして、その供給量は年齢と共に増えていくので、晩年に至って視力が急速に衰えていく。耳も、数十年の間このエキス分をエーテル体の耳の製造に供給していく。そして、いわば磨り減っていく機械のように、徐々に聴力を失っていく。「あの人も耳が遠くなったな」ーあなたはそう思って気の毒に思うかも知れない。が、少しも気の毒がることではない。肉体の聴力がエーテル体へ撤退して、次の世界での生活の準備を整えているのである。頭の働きも同様である。「気の毒に、あの人もボケて来たな」ーそう思うかも知れない。確かに辻褄の合わない話をするようになる。回想力が衰えるからである。が、これも目や耳の場合と同じく、エーテル体の脳の準備の為に肉体の脳がそのエキス分をエーテル体に着々と送り続けてきた結果なのである。その為に肉体の脳細胞は磨り減り、衰弱し、そしてストップする。崇高なる使命を終えて、大工場が閉鎖したのである。が、それまで工場を動かし続けてきた動力が消滅したのではない。動力源である霊は生き生きとしているのである。上辺の肉体は確かに衰えた。言うことがおかしい。手が震える。「エネルギーが切れたのだろう」ーそう仰る方がいるかも知れない。が、そうではない。肉体は全盛を極めた時点から、骨、筋肉、神経、繊維等、要するに肉体を構成するあらゆる要素が、そのエキス分をエーテル体に供給して、地上より遥かに清らかで美しい次の世界、すなわち幽界で使用する身体を着々と用意してきたのである。
 内臓についても同じことが言える。ある一定の成熟度に達すると、内臓の諸器官、すなわち肺、胃、肝、腎、膵等は、これらと密接に繋がった細かい器官と共に徐々にその機能を低下させていく。やがて弱さが目立つようになり、病気がちになり、そして老衰する。これをただの老化現象だと決め込んでは見当違いである。というのは、表面的には確かに老化していくだけのように見えても、その内実は、各器官がその最高のエキス分を死後の生活に備えて着々とエーテル体の形成に送り込んでいるのである。肉体的には確かに老衰した。話をしても、まともな返事が返ってこない。が、それは脳味噌がそのエキス分をエーテル体に取られたからである。何たる不思議な変化であろうか。人間の老化と死は昆虫の羽化とまさしくそっくりである。いや、昆虫に限らない。植物の世界でもー地衣類のコケにさえーこの束縛から自由への決定的瞬間、危険に満ちた運命の一瞬が必ず訪れる。小麦がようやく地上に顔を出す直前をよく観察するがよい。種子が裂けて、そこから新しい茎が出てくる時の様子ほど人間の死に似たものはない。死に瀕した老人は、声をかけても、最早聞こえない。なぜか。エーテル界へ生れ出る瞬間の為に音もなくせっせと準備しつつあるからである。目も見えない。いかに上等の眼鏡をあてがってくれても、最早肝心の機能そのものが働きを止めているのであるから、どうしようもない。これを悲しんではいけない。大自然の摂理は全てが有り難く出来上がっている。これから始まる第二の人生の為に着々とエーテル体を整備しつつあるのである。やがて老体は一切の食事を受け付けなくなる。工場が完全にストップしたのである。炉の残り火がやっと燻っているだけである。工場全体に静寂が訪れる。全ての仕事が終わった。が、その長きにわたる仕事の産物が今、今工場から運び出された、それが霊である。後に残した工場は永久に使用されることはない。死が訪れたからである。が、霊は住み慣れたその生命の灯の消えた肉体から抜け出て、歓迎の為に訪れた霊魂の集まりへと歩み寄る。その様子はあなたには見えないであろう。
 
 このように、肉体の衰弱と意識の内部への撤退は生体電気の消耗によって生じる。肉体とエーテル体とを連絡しているエネルギーには生体電気と生体磁気の二種類があり、このうちの波長の低い方の生体電気が豊富にあるうちは、これを連絡路として高級な意識やエネルギーまでが肉体へと注ぎ込まれて、心身共に見るからに生気溌剌として健全である。
 ところが、やがて生体電気が消耗してくると、肉体との連絡が少しずつ疎遠になり、高級な意識とエネルギーは徐々にエーテル体へ撤退し、低級な意識とエネルギーだけが肉体を守ることになる。そしてやがてその生体電気までが枯渇しきった時、エーテル体と肉体は完全に縁が切れることになる。これが死である。
 青春時代は確かに心身共に生気溌剌として健康であり、身体は常に活動を求めてやまず、反対に霊的な、或は宗教的なことは敬遠しがちなものである。というのは、この時期には低級・高級の区別なくあらゆるエネルギーが豊富に肉体に流れ込んでくるが、なんといっても物質的な生体エネルギーが圧倒的に全体を支配する為に、高級な霊的意識が曇りがちとなるからである。となると、意識は当然の結果として物質的色彩を帯びて、食欲・性欲等の肉体的欲望が旺盛となってくる。
 これがやがて年齢と共にある程度まで消耗してしまうと、その分だけ物的感覚から脱して、霊的なもの・精神的なものへと意識が転移してくる。青春時代を活動と欲望の時期とすると、中年から老年の時代は思索と内省の時期ということができよう。
 繰り返し述べたように、老化は生体エネルギーの消耗の結果である。したがって仮にその消費しただけのエネルギーを何らかの方法で補給して、常に十分なエネルギーを蓄えておくことが出来れば、人間はいくら年をとっても若々しく健康であり、いくらでも寿命を伸ばせる理屈となる。それこそ不老長寿の妙薬ということができる。
 このエネルギー(生体電気)はエーテル体と肉体の接着剤のようなものであり、接着剤がしっかりしている限りは肉体と自我意識の関係は蜜に保たれ、ボケることはない。また、少なくとも理屈の上では死ぬこともない。
 元来、肉体そのものには直接生と死にかかわる原因的要素は無いのであって、全てはエーテル体にある。肉体上に現れる現象はことごとく結果であって、肉体の形体、容貌、活動、そして死に至るまでの全ては、みな内在するエーテル体にかかわっているのである。
 そういう観点から言えば、新しい衣服を着たからといって肉体が若返るものでないように、肉体そのものの健康管理が寿命を伸び縮みさせるものではないと言える。
 それはそれとして、もし仮にそういう不老長寿の妙薬が発見されたとした場合、果たして人間は喜んでそれを使用するであろうか。これは甚だ疑問である。
 というのは、今も述べたように、エーテル体と肉体とが完全に融合している時は肉体は若々しく溌剌としているが、やがて高級な生体エネルギーは死後の生活で使用する身体、つまり幽体の充実の為に抽出され、一方、低級なエネルギーも徐々に使い果たして老化していく。
 これは進化の道程における自然な成り行きであって、そうなることが人間の進化にとって望ましいわけである。それが不老長寿の妙薬で肉体的エネルギーを補給することによって若返るということは、思索と内省の時期から再び活動と欲望の時期に逆戻りすることであって、こうした状態をいつまでも続けることは決して望ましいことではない。
 進化とは、物質的欲望を体験することによってそれを卒業し、愛と知性と霊性を身につけていくことである。しだかって人間が徐々に若さを失い、肉欲的観念から抜き出て、やがて老衰し死に至るという過程は決して好ましからざることではなく、それでいいのである。
 死はそうした物質的感覚の次元から飛躍的にスピリットを解放してくる。同時にそれが知的ならびに霊的な喜びの世界への大きな門出でもあるのである。

 [原著者脚注]
 我々は死によってバイタリティ(精力素) の全てと縁が切れてしまうわけではない。そのうちでも低級な要素すなわち生体電気の何割かはエーテル体の構成要素となって残っている。つまり、身体は地上生活中にその生体電気の全てを使い果たして死ぬのではなく、エーテル体との繋がりを維持出来なくなる程度まで衰弱した挙げ句に断絶が生じ、死に至るわけである。残されたバイタリティはエーテル体の外部の要素となり、足りない部分は直接大気中から摂取したものが補われる。かくして新しい身体も丸みを帯び、美しさも具わってくる。但し、その新しい身体に吸収されたバイタリティは、地上時代のように精神を左右することはない。なぜなら精神の方が地上時代より遥かに発達し、むしろ身体の方を自由に操ることになるからである。

さて、死の過程の最終段階は、肉体とエーテル体の分離である。これは、いわゆる老衰による自然死の場合は、至って簡単に行われる。というのは、両者を接着している電気性エネルギーがその時迄に殆ど枯渇して稀薄になっている為である。
 これに反し、事故のような急激なショックによって分離した場合は事情が違ってくる。そういう場合は接着剤に相当する電気性エネルギーが豊富に残っている為に、肉体からの分離が容易に行われない。しかし、否でも応でも離れざるを得ない。そこで苦痛が生じる。また、色々な資料によると、事故による精神的ショックが死後もずっと尾を引いて、霊的な回復を遅らせる。いわば無理矢理にもぎ取られた青い果実のようなもので、霊的でも目覚めが遅く、回復に相当期間を要する。
 デービスも次のように述べている。 

 人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごく穏やかに、そっと肉体から離れていく為に、あたかもこの世への赤子の如く、本人も自分が死んだことに一向に気づかないことすらある。しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、苦痛が伴う為にそれを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。そんな場合は、一時的に感覚の休止という現象が生じる。つまり、死後の睡眠状態である。それが何日も何十日も続く。さらに霊体の方は、霊の道具となる為の準備がまだまだ不足している。

 死の現象を実際に観察した話は数多くある。霊界のスピリットが観察してそれを霊媒を通じて語ってくれたものもあれば、肉体を持ちながらスピリットと同じ視力、いわゆる霊眼で観察して語ったものもある。スエーデンボルグがその一人である。ナザレのイエス(キリスト)がまたしかりである。が、素晴らしさと興味深さの点で群を抜いているのは、これまで度々引用しているデービスである。
 数多くの書物の中でデービスは度々死の問題に触れ、自分の観察記録を細かく書き記している。その観察の素晴らしさは群を抜き、肉体構造の知識などは当時の科学知識の水準を遥かに超えていた。
 したがって、当時の科学者がデービスの業績に対して正当な評価を与えなかったのも無理からぬことであった。が、今日では学者の態度もようやく変わりつつある。死の現象について心霊学的知識を基礎とした科学的解説が施される日も、そう遠くはないであろう。
 そのデービスの記述の中でも最高と思われるものがThe Physicianの中に収められている。これはあらゆる点から見て完璧と思われるので、数ページにわたる全文を紹介しようと思う。

 患者は60歳位の女性で、亡くなられる八ヶ月前に私のところへ診察の為に来られた。症状としてはただ元気がない、十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない、ということくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八ヶ月前のことである。もっともその時は、八ヶ月後ということは分からなかった。(霊感によって地上の時間と空間を測るのは私には出来ないことである。)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心密かに、その『死』という、恐ろしくはあるが興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、その為に適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
 いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして心身共に入神し易い状態にあった。が、入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。私はそういう場所を探し始めた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。
 最早肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が、同時に、各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しているかに見える。すなわち、筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚を保持しようとし、脳組織は知性を維持しようとして懸命になる。つまり、肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死に抵抗を試みるのである。その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる、が、私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応に過ぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。
 やがて頭部が急に何やらキメ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が拡がり始めた。大脳も小脳も普段の流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが、見ていると、全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。言い換えれば、脳全体が普段の10倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。
 今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。続いて、驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてキメの細かい発光性の電気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を現し始めたのである。念の為に言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることは出来ない。肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いている為に、私はその中身まで透視することは出来ないし、じっと見つめていることすら出来なくなった。この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。すなわち、肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであって、これが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。
 表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現の時と全く同じ要領で次々と出現し、奇麗な形を整えていった。こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの[未分化の粒子]とでもいうべき無数の粒子は、[不滅の友情]にも似たある種の親和力を本質的に備えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の中部に潜む親和力の所為である。というのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しく出来た霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官が全ての創造物に共通した性向に従ってその在るべき本来の姿に立ち帰るのだ。
 こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最後を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかし実は、それは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜け出て行く時の[反応]にすぎないのであった。 
 霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部の辺りに垂直に立った。これで六十有余年の長きにわたって続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足元と肉体の頭部とが一本の電気性のコードによって結ばれているのが映った、明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだ、と。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似合った才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。また思った。母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象とは全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。コードはなおも二つの身体をしっかりと繋いでいた。そして、切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐ為であった。
 その意味で死体は、完全に腐敗が始まる迄は埋葬すべきではない。たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体と繋がっているからである。事実、完全に死んだと思われた人が数時間、或は数日後に生き返って、その間の楽しい霊界旅行の話をした例があるのである。原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直性、夢遊病、或は恍惚状態と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、或は数時間の間の記憶は滅多に思い出せない。そのために浅薄な人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとする。が、霊的旅行の記憶を持ち帰ることが出来るのは、肉体から完全に離脱し、霊的へその緒、すなわち電気性のコード(電線と呼んでもよい)によって繋がった状態で自由に動き回った時であって、その時は明るく楽しい記憶に満ち満ちている。
 かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ目をやると、早速霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとしている様子が見えた。初めは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ち良さそうに吸収するようになった。よく見ると、霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、その他、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。何と素晴らしいことか。決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまった訳ではない。特徴が消え失せた訳でもない。もしも地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、丁度病気で永らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきた時の姿を見て驚くように、「まあ、奥さん、お元気そうですわ。すっかり良くなられましたのね」ーそう叫ぶに違いない。その程度の意味において、霊界の彼女は変わったのである。
 彼女は引き続き霊界の新しい要素と高度な感覚に自分を適応させ、馴染ませようと努力していた。もっとも私は彼女の新しい霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全課程に終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者達の止めどもない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。一目見て彼女は、家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今なお生きている霊的真実を知らないからだ、と理解した。
 人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。少数の例外は別として、霊覚の未発達の人類、すなわち全てを見通せる能力を持たない現段階の人類、目に見え、手で触れること以外に存在を確信出来ない人類、したがって「死」というものを肉体の現象によってしか理解出来ない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。つまり、人類の大部分は肉体の死が全ての終わりであると思い込んでいる。が、私は、そう思い込んでいる人、或は死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。死に際して本人自身は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でボロボロになって死んでも、或は雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。もしもあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることが出来れば、あなたの直ぐ前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来、「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶべきものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へと生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。祭壇を前にして生身のまま墓地に入る思いをしている時、或は魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの喪服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。
 以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。もっともこれが全ての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素に慣れてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降り立って、病める肉体と共に数週間を過ごしたその寝室のドアから出て行った。夏のことなので、全てのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出て行くことが出来た。寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が、我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことが出来るのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。家を出てからほどなくして二人の霊が彼女を出迎えた。そして優しくお互いを確かめ話を交わした後、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来事であることが実感出来なかった。あたかも、いつも登る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間、私は普段の自分に戻っていた。
 戻ってみて驚いた。こちらはまた何という違いであろう。美しく若々しい霊姿とはうって変わって、生命の灯の消えた、冷えきった亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。

続いて紹介するのは、実際に死を体験して霊界入りした者が、その体験を霊媒を通じて報告してきた、いわゆる霊界通信である。霊媒はロングリー夫人で、通信霊はジョン・ピアポント。ロングリー夫人の指導霊である。

 自ら死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察した者として、更にまたその「死」の問題について数えきれない程先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、「肉体から離れて行く時の感じはどんなものか」という重大な質問に答える充分な資格があると信じる。いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目の当たりにして、さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかも知れないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体は楽な感じを覚えているものである。勿論例外はある。が、永年病床にあって他界する場合、或は老衰によって他界する場合、その他大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしている為に、大した苦痛を感じることなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化を遂げているものである。
 苦悩に打ちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分が死につつある事実も意識しないものである。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら「助けてくれ!」と叫びつつ息を引き取っていくシーン。あれはドラマとフィクションの世界だけの話である。(中略)
 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかも知れない。が、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはない。というのは、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりとしているからである。(中略)意識の中枢である霊的本性はむしろ喜びに満ち溢れ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている。
 いずれにしても霊がすっかり肉体から離脱し、置かれた状態や環境を正常に意識するようになる頃には、早くも新しい世界での旅立ちを始めている。その旅が明るいものであるか暗いものであるかは人によって異なるが、いずれにしても物質界から霊界への単なる移行としての死は、本人の意識の中には既に無い。
 かつては地上の人間の一人であり、今は霊となった私、ジョン・ピアポント。かつては学生であり、教師であり、ユニテリアン派の牧師であり、そして永年自他共に認めたスピリチュアリストであった私が、霊界側から見た人生体験の価値ある証言の一環として、今「死」について地上の人々にお伝えしているのである。80年余にわたってピアポントという名のもとに肉体に宿っていた私は、その70年余りを深い思索に費やした。(中略)
 以前私は、自分が老いた身体から脱け出る時の感じをこの霊媒を通じて述べたが、その時の感じは喜びと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。肉体と霊体を結ぶ磁気性のコードが既にやせ細っていた為に、霊体を肉体へ引き戻すことが出来なかったのである。が、その時私は無感覚だった訳でもなく、その場にいなかった訳でもない。私は直ぐ側にいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。(中略)自分が住み慣れたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そして、いよいよ死期が到来したということ、こうしたことがみな分かった。(中略)
 私の注意は、未だに私を肉体に繋いでいるコードに、しばし、引きつけられた。私自身は既に霊体の中にいた。脱け出た肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地がよい。が、細いコードは最早霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。私の目には光の紐のように見えた。私は、これは最早霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたように見えた。というのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。そして、その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のように丸く縮まって、やがて、既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。これで私の死の全課程が終了した。私は肉体という名の身体から永遠に解放されたのである。

 ピアポントは同じ書物の中で一女性の死の過程を記述しているが、霊体の離脱と形体がデービスの記述と酷似している。

 今肉体から脱け出るところである。銀色のコードが緩み始めた。物質的エネルギーが衰え始めたのである。そして霊体が新しい生活環境に備えて形成されていく。真珠色をした蒸気のようなものが肉体から出て薄い霧のように肉体を包み、上昇していき、その出方が激しくなってきた。すっかり形を整え、下に横たわっている婦人とそっくりとなってきた。いまや肉体と霊体とは糸のように細くなったコードで繋がっているだけである。肉体は、見た目には既に呼吸が止まっているかに見える。が、コードが繋がっている限り、まだ死の作業は終わっていない。やがてコードがぷっつりと切れた。そしてエーテル的要素となって霊体の中に吸収されていく。   (同前)

 ピーブルズの霊界通信の中に出てくる一霊魂は、自分の死の過程がすっかり終了するまでにおよそ一時間半かかったという。また、霊体が肉体(の頭部)から出る時は決して霊体が分解されるのではないという。彼は言う。

 他界後私は何十もの死の場面を観察してきたが、霊体は決して分解されて出て行くのではなく、全体が一つとなって頭部に集まり、徐々に出て行くことが分った。出てしまうと自由になるが、肉体から完全に独立するのは、両者を繋いでいる生命の糸が切れた時である。事故などによる急激な死の場合は、かなりの間その糸が切れない。

 ハドソン・タトルはその著『大自然の秘密』の中で、自分が入神状態で観察した死の過程を次のように述べている。

 霊体が徐々に手足から引っ込んで頭部に集結してきた。そう見ているうちに頭のテッペンから後光が現れ、それが次第に鮮明に、そして形がくっきりとしてきた。今脱け出た肉体とそっくりの形をしている。そしてその位置が少しずつ上昇して、ついに横たわっている肉体の側に美しい霊姿を直立させた。一本の細いコードが両者の間に繋がっている。それも次第に萎縮していき、二、三分後には霊体の中へ吸収されていった。これで霊魂は永遠に肉体を去ったのである。

 以上が霊能者ならびに実際に体験した霊魂の観察した死の真相である。読んでお分かりの通り、極めて合理的であり、成る程と思わせるものがある。どの観察記録も完全に一致しており、我々が見る臨終における様子とも一致している。スピリチュアリズムの説く「死」はあくまで自然で、科学的事実とも合致しており、我々はそれが真実であって欲しいと願いたい。というのは、スピリチュアリズムの説く「死」は至って安らかであり、かつて言われてきた死にまつわる恐怖というものを完全に拭い去ってくれるからである。しかもスピリチュアリズムによれば、死はより幸せな、より高い世界への門出である。したがって死の結果の観点からすれば、或は、又、死への準備の出来上がっている者にとっては、死は恐ろしいものではないどころか、むしろ望ましいものでさえある。デービスは「死の哲学」の章のところで、最後にこう述べている。

 私が読者に訴えたいのは、老化による純粋な自然現象による死には何一つ恐れるものはなく、むしろ素晴らしいことばかりだということである。言ってみれば、死は、地上より遥かに素晴らしい景色と調和のとれた社会へ案内してくれる素晴らしい案内者である。地上から一個の人間が去ったからといって、ただそれだけで嘆き悲しむのは止めよう。見た目(肉眼)には冷たく陰気でも、霊眼で見れば、肉体を離れた霊はバラ色の輝きに包まれながら旅立つのである。悟れる者、常に永遠の真理と共に生きる者には『死もなく、悲しみもなく、泣くこともない』のである。
 死期を迎えた者が横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かに喜び、優しく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びる時は、天国に霊魂が誕生する時だからである。

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