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カテゴリ:★『霊に関する話』 > 日本・自我の中枢が脳でないことを物語る実話

審神者にとって、そうした霊的なものを判断する上で一番大切な武器となるのは、その『心証』ないしは『直観力』である。『観破力』といってもよい。直観的に見抜く能力で、相手(霊)が述べている言葉や態度から受ける印象で判断する。何しろ人間の目には見えないのであるから、いかなる人物や神々の名でも名乗ることが出来る。が、述べていることや、その述べ方には、いかに装ってみたところで本性が表れるものである。
 素人流に考えると霊視力があればよいように思えるが、なまじっかな霊視力の持ち主は見えたものを直ぐに『正体』と思い込んでしまう。ところがーここが霊的なものの難しさであるがー霊視力というのは、肉眼と違って、浅い段階のものはとかく主観的な映り方をするもので、自分の思い込みや願望が混じったりする。また、相手の霊力によっていかようにでも操られる危険性もある。低級霊が観音様のような姿を装うことも出来る。未熟な霊能者だとすっかり騙されてしまう。
 修行と体験を積んだ老練な霊能者だと、その霊視力も大いに頼りになり、協力な武器となるが、それでもなお、狡猾な霊にも上には上がいるので、やはり霊的威力を秘めた観破力が最後の、そして最大の武器となる。
 これは、我々が霊言とか霊信と銘打っているものを読む際にも大切なことで、述べていることがいくら立派そうでも、或は名乗っている名前がいくら有名なものであっても、それを鵜呑みにしてはならない。そういう無用の交雑物を排除して、直観的に真実を見抜く必要がある。
 英語の諺に「静かに流れる川は底が深い」というのがある。つまり、出来た人物程大言壮語はしないということで、言い換えれば大言壮語する者は程度が低いということである。日本にも「浅き瀬こそあだ浪は立て」という言葉がある。昨今、霊言や霊示と称するものが多く出版されるようになってきた。是非この尺度を用いてみられることである。

さて話を戻して、姓名を名乗った後武士は石碑の形や寸法まで図に描いてから
 「正面には7月4日と書けばよし。この姓名は決して世に漏らすまじきぞ」
と述べる。その後さらに話が発展して、最終的には[高峰大神]のおくり名までもらって、写真に見える通りの立派な祠(ほこら)に祀られている。今でも7月4日には近隣の人達が集まってささやかな供養祭が執り行われるとのことである。
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 しかし、宮崎大門の偉さはただそれだけの話で終わりにしてしまわなかったところにある。これは世にも稀な霊現象だと確信した大門は、この機を逃すまいと、霊界へ帰りたがる熊太郎を言葉巧みに引き止めて、興味津々の霊界の事情を引き出している。大門が
 「これより幽界の摂理につきて数ヵ条聞くべし。我が問いに一つ一つ答えよ」
と述べると、武士の霊は態度を改めて、こう述べた。
 「その前に一言申し置くべきことあり。幽界にも顕界に漏らすわけに参らぬ秘密があるものなり。死後の世界は生前考えおるものとは、いたく異なるものぞ。そのことは、各々方も死すればたちまちのうちに悟るべし。
 余は幽界の者なれど、かくの如く人体に憑りおる間は、幽界のこと、いと微かなり。それと同じく、人体を離れて帰幽せば、人間界のことすこぶる微かにして、心をこめし以外は明らかには知り難きものなり。人間界に漏らし難き幽界の秘密、及び人間が知りて却って害ある事は申すまじき故に、そのつもりで問われよ」
 そう述べて威儀を正して問いを待っている姿は、とても病める市次郎とは思えず、まさしく豪傑の武士が座敷に構えている心地がして、当家の者が湯茶を差し出す時も思わず平伏して捧げ、父親の伝四郎も、普段息子に向かって使用していた言葉が出なかったという。
 武士が市次郎の身体を占領していた時間は、延べにして二十二時間にも及んでいる。部屋に詰めていた数人の医者は、あの衰弱し切った身体では耐え切れまいという配慮から、暫く身体を休ませてやってくれないかと申し出る一幕もある。これには熊太郎も快く応じて、一旦その身体から離れた。霊が離れた後の市次郎はまさに重病人で、ただひたすら眠り続けるばかりだった。
 その後再び市次郎の身体に宿った熊太郎は、大門の質問に答えて死後の世界の実相を明かすが、それはスピリチュアリズムの説と完全に符合しているので後章で詳しく解説することにして、ここでは、この古武士の出現がまさしく真実であると判断されるその根拠を、いくつかピックアップして紹介しておきたい。それは取りも直さず、自我の中枢が『脳』ではないことを実証していることにもなると思うのである。
1 市次郎の知らない古書体の文字を書いたこと。
 ここに掲げた『誓約書』を見て頂きたい。これは『もう二度と人体に取り憑くようなことは致しません』との約束をした後、次のやり取りがあってから書いたものである。
 大門「かく誓いし後に、もしそこもとが重ねて人を悩ますようなことあらば、その時は容赦せぬぞ!骨を掘り糞壷に入れて恥をかかせん!」
 霊「武士に二言はござらぬ!」
 大門「しからば、念の為に右の旨を記せる一通の証文を書かれよ」
 霊「証文とな?それには及ぶまじ」
 大門「いや、既に証文を書きたる上は、定めし文字を心得おることであろう。是非とも書かれよ」
 霊「さほどまで申される上は、致し方もなし。ともかくも案文を示されよ」
 大門「案文もそこもとみずから認(したた)められよ」
 『誓約書』を現代文に置き替えると『この度宮崎大門氏は御剣をもって私が立ち退くように苦心してくださいました。天保十年八月二十四日の夜に御剣加持をして頂き幸せこの上なく、同夕にこの家を立ち退き、以来この家(に限らず人を悩ますようなことはきっと慎みます。泉 熊太郎)』といったところであろう。( )内の文章は大門の記録には記されているが、[泉 熊太郎]の姓名は明かさないとの約束を守って、この誓約書の敷き写しからは削除されている。(大門は万一の紛失に備えて敷き写しにして残した。現に、実物は郷土史家の手に渡ったきり、行方不明という。)
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 それはともかくとして、こうした書体は天保十年の頃でも珍しく、ましてや市次郎にはとても書けないものである。これによって『書』という技術的才能も、文字の記憶も、脳にあるのではなく、霊的自我にあることにならないだろうか。
2 漢字の読み方に時代の違いが出たこと。
 大門が熊太郎の在世中の在所を探ろうとして、近郷の郡の名を幾つかあげてみてほしいというと、熊太郎が怪訝な顔をして、
 「我が本国のグンとな?グンとは何事にや?」
と言う。そこで近くにいた者が畳の上に指先で『郡』の字を書きかけるとすぐに
 「ああ、コオリのことか。日頃聞き慣れませなんだ」
と言った。
 この事実によってこの武士は、自分で言っている通り、近代の人間ではないことが分かる。郡をグンと呼ぶようになったのが正確にいつの時代からかは知らないが、少なくとも熊太郎の時代にはコオリと呼ぶのが一般的だったことは間違いないであろう。
3 『家康』の名前を知らなかったこと。
 在世中のおよその時代をつきとめようとする大門と、それを知られたくない熊太郎との間で次のような興味深い問答がある。
 大門「そこもとの在世中のことは極秘にされたき意向をくみて尋ねることを控えるが、当時の都は大  和なるや山城やるや、はたまた近江なるや?」 
 霊「既に山城に定まりし後なり。延暦より遥か隔ちたり」
 大門「ご当代になりて後か?」
 霊「ご当代?」
 大門「家康公ご治世の後か?」
 霊「家康公?さようなことは未だ聞き申さず」
 大門「頼朝公前後か?」
 霊「そのことはこれ以上お尋ねくださるな。年号と君父のことは決して語らずと、先夕申せしにあらずや」
4 『武士道精神』が一貫していること。
 全篇を通して一貫して見られる特徴は、熊太郎は『武士』であることに誇りを持ち、いずれは大名にまでなれる家柄であることを意識していた地上時代の精神構造が、死後数百年を経てもまだ残っていたことである。
 例えば在世中の加賀の殿様の名前を何度訊ねても、自分のような恥さらしの人間の口から言うのは畏れ多いという、一種の『主君への忠義』から、最後まで口を割らなかった。現代人の常識からすれば、そもそも父親を国外追放にしたのは、他ならぬ殿なのであるから、その殿に対して今更忠義立てする必要はないはずであるが、そこが武士道なのであろう。
 こうした事実から、我々が日頃の生活の中で身につけている精神上の性格や習性、教養、物の言い方等も、肉体が滅んだ後も、そっくりそのまま残っていることが分かる。これは、スピリチュアリズムにおいても、現世と死後の世界とが一直線上にあることを物語る大切な事実(因果律)として、重大視しているところでもあるのである。

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