カテゴリ:★『霊に関する話』 > 日本・自我の中枢が脳でないことを物語る実話
天保十年の怪現象
自我の中枢が『脳』でないことを物語る実話
[近藤千雄著・人生は本当の自分を捜すスピリチュアルな旅]からの抜粋
長兄が、事故死してから十年後に母のもとに現れ、『弁当』を見せて自分であることを証明した話だけでも、記憶というものが脳にあるのではないーどこにあるかは分からないが、ともかく目に見えない霊的自我というものがあるらしいことは推察出来る。そのことをもっと生々しく物語る現象が天保十年に起きている。
福岡県立図書館の資料室に『幽顕問答』という古記録がある。平田篤風に国学を学んだ程の知識人だった宮崎大門(おおかど)という神官が図らずも立ち会うことになった一種の心霊現象をつぶさに書き残したものである。
霊的原理が知られていなかった時代には『怪奇』に思えたことであろうが、スピリチュアリズム的観点からすれば紛れもない霊言現象であり、しかも審神者の役を勤めることになった大門が当時としては第一級のインテリで、その臨機応変の処置が実に理性的で要領を得たものであることから、私はこれを、世界にも誇れる第一級の資料であると考えている。
私は数年前に、その現象が起きた家を訪れ、その子孫や親戚の方にお会いして、『幽顕問答』を現代風にアレンジして出版することについての承諾を得た。ただし、まだ気味悪さを拭い切れないせいか、『姓』だけは伏せてほしいということなので、その気持ちをくんで、その後出版した『古武士霊は語る』では、当家の家族は呼び名だけとした。姓は特に無くてはならぬものでもないので、今回も呼び名だけで通させて頂く。
[近藤千雄著・人生は本当の自分を捜すスピリチュアルな旅]からの抜粋
長兄が、事故死してから十年後に母のもとに現れ、『弁当』を見せて自分であることを証明した話だけでも、記憶というものが脳にあるのではないーどこにあるかは分からないが、ともかく目に見えない霊的自我というものがあるらしいことは推察出来る。そのことをもっと生々しく物語る現象が天保十年に起きている。
福岡県立図書館の資料室に『幽顕問答』という古記録がある。平田篤風に国学を学んだ程の知識人だった宮崎大門(おおかど)という神官が図らずも立ち会うことになった一種の心霊現象をつぶさに書き残したものである。
霊的原理が知られていなかった時代には『怪奇』に思えたことであろうが、スピリチュアリズム的観点からすれば紛れもない霊言現象であり、しかも審神者の役を勤めることになった大門が当時としては第一級のインテリで、その臨機応変の処置が実に理性的で要領を得たものであることから、私はこれを、世界にも誇れる第一級の資料であると考えている。
私は数年前に、その現象が起きた家を訪れ、その子孫や親戚の方にお会いして、『幽顕問答』を現代風にアレンジして出版することについての承諾を得た。ただし、まだ気味悪さを拭い切れないせいか、『姓』だけは伏せてほしいということなので、その気持ちをくんで、その後出版した『古武士霊は語る』では、当家の家族は呼び名だけとした。姓は特に無くてはならぬものでもないので、今回も呼び名だけで通させて頂く。
発端
天保十年、西暦1839年の七月四日のことである。庄屋で酒造家の長男・市次郎が原因不明の熱病にかかった。『普門庵』と名付けられた御霊鎮めの為の観音堂にお参りした時に、いきなり病みついたという。
実は市次郎の家系は代々変死者がよく出るので、気味悪がった父親の伝次郎が元の屋敷を取り壊して現在地に新築し、元の屋敷跡にその普門庵というのを建てたのだった。私も拝観させて頂いたが、大小合わせて三、四十体の観念像が奇麗に祀られていた。
さて、市次郎は寝付いたきり、何人の医者に診てもらっても一向に良くならず、食事らしい食事も取らないので、日に日に痩せ細る一方で、ついにはうわ言を言うようになってきた。そして三週間後には妙な手真似や身振りを始めた。家の者はこれはてっきり狐が取り憑いたと思い、近郷で神道の修法家として名高い宮崎大門に加持祈祷をお願いすることになった。
大門が訪れた時は数名の医者が詰めていて、容体を聞くと、甚だよろしくないとのことだった。髭も髪も伸び放題だった上に頬がすっかりこけ落ちてしまい、さながら餓鬼のような形相をしていたという。
実は市次郎の家系は代々変死者がよく出るので、気味悪がった父親の伝次郎が元の屋敷を取り壊して現在地に新築し、元の屋敷跡にその普門庵というのを建てたのだった。私も拝観させて頂いたが、大小合わせて三、四十体の観念像が奇麗に祀られていた。
さて、市次郎は寝付いたきり、何人の医者に診てもらっても一向に良くならず、食事らしい食事も取らないので、日に日に痩せ細る一方で、ついにはうわ言を言うようになってきた。そして三週間後には妙な手真似や身振りを始めた。家の者はこれはてっきり狐が取り憑いたと思い、近郷で神道の修法家として名高い宮崎大門に加持祈祷をお願いすることになった。
大門が訪れた時は数名の医者が詰めていて、容体を聞くと、甚だよろしくないとのことだった。髭も髪も伸び放題だった上に頬がすっかりこけ落ちてしまい、さながら餓鬼のような形相をしていたという。
加賀武士の出現
さて大門は神道流の修法に入り、まず長剣を振りかざして呪文を唱えながら「エイヤ、オー!」の掛け声と共に市次郎を切りつける仕草を幾度か繰り返しているうちに、最早危篤状態と思われていた市次郎がむっくと起き上がり、武士のごとく頓挫して
「余は元は加賀の武士にて、故あって父と共にこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。これまで当家に祟りしが、未だ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」
と、いかにも武士らしい口調で述べた。
そこで大門が何の目的あってこんな遠隔の土地まで来たのかと訊ねると、それには深いわけがあり、今ここで軽々に打ち明けるわけにはいかないが、加賀の国を出た父親の後を追っているうちに六年後にこの地で巡り会い、是非お伴をさせてほしいと願い出たが、父は『ならぬ』の一点張りで、その場で船でどこかへ行ってしまった。取り残されて一人思いを巡らしたが、『義に詰まり理に逼(せま)りて』ついに切腹して果て、以来数百年、ただ無念の月日を送ってきた、という。
ここでいう『深い訳』というのは、この後で改めて問い質されて語ったところによると、こうだった。この武士の家は殿から三振りの刀を下賜されたことがあるほどの誉れ高い家柄だったが、ある時お家騒動があって、それに巻き込まれた父親が濡れ衣を着せられ、殿からお咎めを受けて国外追放処分となった。
出国に祭し、数え年十七歳だったその武士も是非お伴をさせてほしいと願ったが、お前は我が家のたった一人の男児なのだから居残って家を再興してくれと頼み、母親にもそのことをしっかりと言い含めておいた。が、どうしても父を慕う思いを抑えきれなくなったその武士は、母親の制止を振り切って、伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ね歩くこと実に六年の後に、やっと父に巡り会ったという次第だった。
「余は元は加賀の武士にて、故あって父と共にこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。これまで当家に祟りしが、未だ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」
と、いかにも武士らしい口調で述べた。
そこで大門が何の目的あってこんな遠隔の土地まで来たのかと訊ねると、それには深いわけがあり、今ここで軽々に打ち明けるわけにはいかないが、加賀の国を出た父親の後を追っているうちに六年後にこの地で巡り会い、是非お伴をさせてほしいと願い出たが、父は『ならぬ』の一点張りで、その場で船でどこかへ行ってしまった。取り残されて一人思いを巡らしたが、『義に詰まり理に逼(せま)りて』ついに切腹して果て、以来数百年、ただ無念の月日を送ってきた、という。
ここでいう『深い訳』というのは、この後で改めて問い質されて語ったところによると、こうだった。この武士の家は殿から三振りの刀を下賜されたことがあるほどの誉れ高い家柄だったが、ある時お家騒動があって、それに巻き込まれた父親が濡れ衣を着せられ、殿からお咎めを受けて国外追放処分となった。
出国に祭し、数え年十七歳だったその武士も是非お伴をさせてほしいと願ったが、お前は我が家のたった一人の男児なのだから居残って家を再興してくれと頼み、母親にもそのことをしっかりと言い含めておいた。が、どうしても父を慕う思いを抑えきれなくなったその武士は、母親の制止を振り切って、伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ね歩くこと実に六年の後に、やっと父に巡り会ったという次第だった。
願いは石碑を建ててもらうこと
続いて大門が『一筋の願望』とは何かを訊ねると、自分の石碑を建ててもらうことーそれだけだと答えるので、では姓名を教えてほしいと言うと、それは勘弁してほしい、七月四日と書くだけにしてくれという。
姓名を刻まない石碑など聞いたことがないので受け合う訳にはいかないと大門が言うと、武士たる者、人目を憚って国を出た以上は姓名を明かすわけにはいかないのだと、なおも拒み続けるので、大門は
「ならば石碑建立は叶わぬものと思われよ」
と冷たくあしらう態度を見せると、武士もやむなく、しぶしぶ打ち明けた。その名は[泉 熊太郎]だった。
この武士が正確にいつの時代の人物であるかは特定出来ないにしても、武士の世界では人生の節目ごとに呼び名を変えることは珍しくなかったから、[熊太郎]はその一つにすぎないとみてよいが、[泉]の姓に偽りはないものと信じてよいであろう。ここでは紹介する余裕はないが、その前後の大門とのやり取りの内容からみて、そう直観出来る。
私は念の為に現在の加賀市の郷土史家にこの古記録の要旨を書き送り、数百年前の歴史にどういうお家騒動があったか、その中に[泉]という姓の者が国外追放処分になってお家断絶となったものはないか、といった点を、雲を掴むような話であることを承知の上で、一応、お訊ねしてみた。
すると、実に丁重なご返事を頂いた。しかし結論からいうと、やはり古い時代の史実となると全くつかみ所がなく、分かりかねますということだった。無理もないことで、特にお家騒動というものは、もし記録に残すとすれば改ざんするのが常だったそうなので、そういう形での実証はとても出来ないと諦めた。
では、他にどういう実証法があるのかということになるが、実はこの記録を読んでいくうちに、学問的実証とは異なるが、「これは間違いなく古武士だ」という心証を抱かせるものが随所にあるのである。審神者(さにわ)を勤めた大門も、最初のうちは『もしかしたら動物霊かも・・・』という疑念を抱いていたが、そのうち間違いなく人間の霊で、述べていることに嘘偽りはないとの確信に至ったと記している。
姓名を刻まない石碑など聞いたことがないので受け合う訳にはいかないと大門が言うと、武士たる者、人目を憚って国を出た以上は姓名を明かすわけにはいかないのだと、なおも拒み続けるので、大門は
「ならば石碑建立は叶わぬものと思われよ」
と冷たくあしらう態度を見せると、武士もやむなく、しぶしぶ打ち明けた。その名は[泉 熊太郎]だった。
この武士が正確にいつの時代の人物であるかは特定出来ないにしても、武士の世界では人生の節目ごとに呼び名を変えることは珍しくなかったから、[熊太郎]はその一つにすぎないとみてよいが、[泉]の姓に偽りはないものと信じてよいであろう。ここでは紹介する余裕はないが、その前後の大門とのやり取りの内容からみて、そう直観出来る。
私は念の為に現在の加賀市の郷土史家にこの古記録の要旨を書き送り、数百年前の歴史にどういうお家騒動があったか、その中に[泉]という姓の者が国外追放処分になってお家断絶となったものはないか、といった点を、雲を掴むような話であることを承知の上で、一応、お訊ねしてみた。
すると、実に丁重なご返事を頂いた。しかし結論からいうと、やはり古い時代の史実となると全くつかみ所がなく、分かりかねますということだった。無理もないことで、特にお家騒動というものは、もし記録に残すとすれば改ざんするのが常だったそうなので、そういう形での実証はとても出来ないと諦めた。
では、他にどういう実証法があるのかということになるが、実はこの記録を読んでいくうちに、学問的実証とは異なるが、「これは間違いなく古武士だ」という心証を抱かせるものが随所にあるのである。審神者(さにわ)を勤めた大門も、最初のうちは『もしかしたら動物霊かも・・・』という疑念を抱いていたが、そのうち間違いなく人間の霊で、述べていることに嘘偽りはないとの確信に至ったと記している。