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カテゴリ:★『霊との対話』 > アラン・カルデック 苦難を経験した霊

アラン・カルデック 苦難を経験した霊 目次

四歳で肢体不自由となり、十歳で亡くなるという経験について-クララ・リヴィエ

「謙虚さ」は人格を測る試金石-フランソワーズ・ヴェルヌ

苦難の人生を終えて得た希望-サミュエル・フィリップ氏

アンナ・ベルヴィル-長く病気に苦しんだ若い母親

ジョゼフ・メートル-苦難に襲われた男性

クララ・リヴィエは、南フランスのある村に農民の子として生まれ、亡くなった時はわずか十歳であった。
 四歳の時に体が完全に動かなくなっていた。しかし、一言も不満を漏らさず、苛立ったことも一度もなかった。全く教育を受けていなかったにもかかわらず、彼女は、あの世で待っている幸福についてよく語り、心を痛めている家族を慰めるのだった。
 彼女は1862年の九月に亡くなった。四日の間続けて痙攣に見舞われ、拷問のような苦しみに襲われたが、その間、絶えず神に祈り続けた。
 「死ぬことは怖くないわ」と彼女は言った。「死んだら幸福な生活が待っているのだもの」
 そして、泣いている父親に向かって次のように言った。
 「悲しまないでね、またパパの所に戻ってくるから。私、もうすぐ死ぬわ。それが分かるの。でも、死ぬ時が来れば、はっきり分かるから、教えるね」
 そして、最後が近づいた時、家族全員を呼び寄せ、次のように言った。
 「あと五分で死にます。手を握っていてね」
 そして、その通り、五分後に息を引き取った。
 その時以来、騒擾(そうじょう)霊[地上にやってきては、騒ぎを引き起こす霊] がやってきて、家中を滅茶苦茶にした。テーブルをがんがん叩き、カーテンをはためかせ、食器をガタカダ言わせた。
 この霊は、当時五歳だった妹の目に、生前のクララの姿をとって映った。この妹によれば、クララの霊は、しょっちゅう話しかけてきたという。その為に、嬉しくなって、ついつい、「ねえ、見て見て、お姉ちゃんはとても奇麗だよ」と叫んでしまうのだった。

ークララ・リヴィエの霊を招霊します・・・。
 「側にきています。どうぞ質問してください」
ーあなたは、教育もなく、また、年もそれほどいっていなかったのに、どうしてあの世のことがあんなにはっきりと分かったのですか?
 「前回の転生と、今回の転生の間に、それほど時間が経っていなかったのです。そして、前回の時には、私は霊能力を持っており、今回もまた、そのまま霊能力を持って生まれてきました。ですから、私は、色々なことを感じたり、見たりすることが出来、それを喋っていたのです」
ー六年間も苦しんだのに、しかもまだ子供だったのに、どうして、一言も不平を漏らさずにいられたのですか?
 「肉体の苦しみは、それよりも強い力ーつまり守護霊の力ーによって制御出来るからです。守護霊がいつも側に付いてくれていて、私の苦しみを和らげてくれました。守護霊のお陰で、私は苦しみに打ち勝つことが出来たのです」
ーどうして、死ぬ時が分かったのですか?
 「守護霊が教えてくれたのです。守護霊は一度も間違ったことを言ったことがありません」
ーあなたは、お父さんに、「悲しまないでね、またパパの所に戻ってくるから」と言いました。こんなに優しいことを言う子が、どうして、死後に、家中を引っ掻き回して、こんな風にご両親を苦しめるのですか?
 「試練、或は使命を持っているのです。私が両親に会いに来るとして、ただその為だけに来ると思いますか?こうした物音、混乱、騒ぎは、ある意味での警告なのです。
 私は、他の騒擾霊に助けてもらっています。彼らは騒ぎを引き起こすことが出来、私は、妹の目に見えるように出現出来ます。こうして私達が協力し合うことによって、霊の実在を証明しようとしたのです。両親も、そこまでやらなければ分からなかったでしょう。
 この騒ぎは、もう直ぐ止みます。でも、その前に、もっと多くの人々が、霊の存在をはっきりと知る必要があるのです」
ーということは、あなたが一人でこうした現象を起こしているのではないのですね。
 「他の霊達に助けられて、一緒にやっています。これは、両親にとっては一種の試験であると言ってよいでしょう」
ー現象を引き起こしているのがあなた以外の霊達であるとすれば、妹さんは、どうしてあなたしか見えないのですか?
 「妹には、私しか見えないようにしています。私は、これからもしばしばやってきて、あの子を慰め、勇気づけるつもりでおります」
ーどうして、あんなに幼い時に、肢体が不自由になったのですか?
 「過去世で過ちを犯したので、それを償う必要があったのです。私は、今回の直前の過去世で、健康と美貌と才能を濫用し、そして楽しみ過ぎました。そこで、神様がこう言われたのです。
 『お前は、法外に楽しみ過ぎた。今度は苦しんでごらん。傲慢だったので、今度は謙虚さを学びなさい。美しさ故に奢り高ぶったので、今度は醜い体に耐えなさい。虚栄の代わりに、慈悲と善意を学ぶのだ』
 そこで、私は神様のご意思に従うことにしました。それを、守護霊が助けてくれたのです」
ーご両親に何か言いたいことはありますか?
 「両親が霊媒に対して、沢山の施しをしたのは、とても良いことだと思います。それは祈りの一種だからです。口先だけで祈るよりも、そのように、行為を通じて祈ったり、また、心の中で本心から祈った方が良いのです。困っている人に分け与えることは、祈りであり、また、霊実在論を実践することでもあります。
 神様は、全ての魂に、自由意志を、すなわち進歩する能力を与えられました。全ての魂に、向上に対する憧れを植え付けられたのです。
 したがって、修道服ときらびやかな衣装の間の距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません。慈悲の行為によって、その距離を縮めることは可能となるのです。
 貧しい人を自宅に招き、勇気づけ、励ましてください。決して、辱めてはなりません。
 良心に基づく、この慈悲の行為を、みんながあちこちで実践すれば、文明国を蝕んでいる種々の悲惨がーそれは、神様が、人々に罰を与え、目を開かせる為に送り込んでいるのですがー、少しずつ消えてゆくはずです。
 お父さん、お母さん、どうか神様に祈ってください。お互いに愛し合ってください。イエス様の教えを実践するのです。人にされたくないと思うことは、人にしないでください。神様のご意志は、聖なるもの、偉大なるものであることをよくよく納得して、そして神様に祈ってください。あの世のことをよく考えて、勇気、忍耐と共に生きてくださいね。というのも、お二人には、まだまだ試練が残っているからです。あの世の、より高い場所に還れるように努力してください。
 いつもお側にいます。それでは、さようなら。また来ます。
 忍耐、慈悲、隣人への愛、これらを大切にしてください。そうすれば、必ず幸せになれます」

 「修道服ときらびやかな衣装の間の距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません」という表現は美しい。これは、転生ごとに、慎ましい、或は貧しい生活と、豪華な、或は豊かな生活を、交互に繰り返している魂の歴史を示唆しているように思われる。というのも、「神から与えられた豪華な贈り物を濫用しては、それを、次の転生で慎ましい生活を通して償う」といったタイプの転生をする霊は、けっこう多いからである。
 同様に興味深いのが、国単位での悲惨が、個人の場合と同じく、神の法に違反したことに対する罰だとしている点である。もし、国民の多くが、慈悲の法を実践すれば、戦争も、悲惨な出来事もなくなるはずなのである。
 霊実在論を深く学ぶと、当然、慈悲の法を実践せざるを得なくなる。だからこそ、霊実在論はこれほど多くの執拗な敵を持つのであろう。しかし、この娘が両親に対して語った優しい言葉が、一体悪魔のものだと考えられるだろうか?

この女性は、ツールーズの近くの小作農の家に生まれ、生まれつき目が見えなかった。1855年に四十五歳で亡くなった。
 初の聖体拝領[カトリック教会のミサで、聖体(キリストの体と血を表すパンとワイン)を受けること。また、その儀式]を受ける子供達に教理を教える仕事をずっと続けていたが、教理が変更されても、何の支障もなく教えることが出来た。新旧の教理を完全に暗記していたからである。
 冬のある日、伯母と二人で遠出をした帰り、日の暮れ始めた森の中を通って帰ることになった。その道は、ぬかるんだ酷い道で、しかも溝に沿っていたので、充分に注意して歩かねば溝に落ちる危険があった。
 伯母が手を引こうとすると、彼女はこう言った。
 「私のことは気にしないでください、落ちる危険はありませんから。肩のところに光が降りてきて、私を導いてくれるのです。ですから、心配なさらずに、むしろ私の後について歩いてください。私が先に歩きましょう」
 こうして、事故もなく、無事に家に帰り着いた。目の見えない人が、目の見える人を導いたのである。

 1865年に招霊が行われた。

 ー遠出の帰り道にあなたを導いた光について、説明して頂けませんか?あれは、あなたにしか見えなかったのですか?
 「なんですって?あなたのように、常時、霊とコンタクトをとっている方が、そんなことの説明を必要とするのですか?私の守護霊に決まっているではありませんか」
ー私もそのように思っておりました。しかし、確かめたかったのですよ。あの当時既に、それが守護霊であると分かっていたのですか?
 「いいえ、後で分かったのです。とはいえ、私は天上界の加護があることを確信していました。私は、とても長い間、神様にー善なる神様、寛大なる神様にーお祈りしたものです・・・。
 ああ、目が見えないということは、本当に辛いものですよ!・・・。そう、本当に。でも、それが正義であると知りました。目で罪を犯した者は、目で償わなければならないのです。これは、人間が与えられている全ての能力についてそう言えます。折角恵まれた能力を間違って使うとそうなるのです。
 ですから、人間達を苦しめる多くの不幸について、因果律に基づく当然の原因以外の原因を探す必要はないのです。そう、それは償いなのです。しかし、その償いは、素直に受け止めて実践しないと、償いになりません。
 また、お祈りによって、その苦しみを和らげることも可能です。というのも、お祈りに天使達が感応して、地上という牢獄にいる罪人を守ってくれるからです。悩み、苦しむ罪人に、希望と慰めを与えてくれるのです」
ーあなたは、貧しい子供達の宗教教育に打ち込まれました。そして、目が見えないにもかかわらず、教理を全て暗記しました。どうしてそのようなことが可能だったのですか?
 「『一般に、目が見えない人間は、他の感覚が二倍強くなる』と言えば分かって頂けるでしょうか。彼らの記憶力は非常に強く、自分の好きな分野の知識を、まるで整理棚の引き出しに入れるようにして楽々と記憶出来るのです。そして、一旦記憶された知識は決して消えることがありません。外部のどんな要素も、この能力を阻害することは出来ず、また、訓練によって、この能力はどんどん伸びます。
 しかし、私は例外に属していました。というのも、私はそうした訓練を受けたことがなかったからです。子供達に尽くす為に、神様がその能力を私に与えてくださったことに対しては、もう感謝するしかありません。
 ただ、それはまた、私が前世で作った罪に対する償いでもあったのです。というのも、私は、前世では、子供達に対して悪いお手本となってしまったからなのです。
 こうしたお話は、霊実在主義者にとっては、真面目な探求の主題になりますね」
ーあなたのお話をお聞きしていると、あなたが相当進んだ魂だということが分かります。また、あなたの地上での行動は、精神的な卓越性を証明するものだということが感じられます。
 「いいえ、私はまだまだ至らない存在で、勉強しなければならないことが山のようにあります。
 ただ、地上では、その知性が償いの為のヴェールをかぶっている為に、それほど知的だとは思われない人々が多くいることも事実なのです。しかし、死によってそのヴェールが剥ぎ取られると、実は、そうした人々は、彼らを軽蔑していた人間達よりも遥かに知性が高かった、という事実が判明することがしばしばあるのです。
 よろしいですか。傲慢というのは、試金石みたいなもので、傲慢かどうかを見れば、その人がどんな人であるか分かるのです。お世辞に弱い人、自分の知識を鼻にかける人は、大体間違った道にいます。彼らはおしなべて誠実さを欠きます。そうした人々には注意なさい。
 キリストのように謙虚であってください。キリストのように、愛と共に十字架を負い、やがては天の御国に還るのです」

サミュエル・フィリップ氏は、まさに善人という言葉に相応しい人物であった。彼が何か意地悪なことをするのを見たことのある人は一人もいないし、彼が誰かを非難するのを見たことのある人も一人もいない。
 氏は、友人達に対して本当に献身的に尽くしてきた。そして、必要な時には、自らの利益を投げうってまでも、友人達に奉仕するのであった。苦難、疲労、犠牲等、一切をものともせずに、人々に尽くした。しかも、ごく自然に、極めて謙虚にである。人がそのことに対してお礼でも言おうものなら、むしろびっくりするくらいであった。また、どんなに酷いことをされても、決して相手を恨まなかった。恩知らずな仕打ちを受けると、「気の毒なのは私ではなくて、彼らの方なんですよ」と言うのであった。
 非常に知性が高く、生まれつき才能に恵まれていたが、彼の人生は、苦労が多いわりにはパッとせず、厳しい試練に満ちていた。日陰の花であり、その存在が人々の口の端に上ることもなく、地上ではその光が認められない類の人であった。霊実在論をしっかりと学んで、篤い信仰を得ており、地上を満たす悪に対しては、深い諦念(道理を悟って物事をありのままに受け入れること)をもってするのが常であった。
 氏は、1862年12月に、五十歳で、長い病苦の果てに亡くなった。その死を悲しんだのは、家族とごく少数の友人達のみであった。
 死後、何度か招霊に応じてくれた。

ー地上で息を引き取った最後の瞬間に関して、はっきりした記憶はお持ちですか?
 「よく覚えています。その記憶が徐々に戻りつつあるのです」
ー我々の意識が向上出来るように、また、あなたの模範的な人生を我々がしっかり評価出来るように、あなたが経験した、肉体的生活から霊的生活への移行の様子を教えて頂けますか?さらに、現在、霊界でどのように暮らしておられるのか、教えて頂けないでしょうか。
 「喜んでお教え致しましょう。こうした交流は、あなた方にとって有益であるだけではなく、私にとっても有益であるのです。地上での私の意識を回想することで、霊界との比較がなされ、そのことによって、私は、神がいかに私を優遇してくださっているかということが、非常によく分かるからです。
 私の人生にどれほど多くの試練があったかは、あなた方がよくご存知の通りです。しかし、有り難いことに、私は決して逆境の中で勇気を失いませんでした。今、そのことで本当に自分を褒めてやりたいと思っています。もし勇気をなくしていたら、どれほどのものを失っていたでしょうか。私が途中で諦めてそれらを投げ出し、したがって、同じことをもう一度、次の転生でやらなくてはならなかったとしたら・・・。そう考えただけで、恐ろしさに身震いする程です。
 我が友人諸君よ、よくよく次の真理を体得して頂きたいのです。すなわち、『問題は、死んでから幸福になれるかどうかだ』ということです。地上における苦しみで、死後の生活の幸福を購えるとすれば、決して高い買い物ではありません。無限の時間を前にしては、地上でのほんの短期間の苦しみなど、本当に何ほどのこともないのです。
 今回の私の人生は多少の評価に値するとしても、それ以前の人生は酷いものでした。今回、地上で一生懸命に努力したお陰で、ようやく今のような境地に至ることが出来たのです。過去世でのカルマを解消する為に、今世、地上において数多くの試練をくぐり抜ける必要があったのです。私はそれを潔く引き受けました。ひとたび決意したからには弱音を吐く訳には参りませんでした。
 今、そうした試練をくぐり抜けることが出来て、本当によかったと思います。地上での試練を今では祝福したいくらいです。それらの試練を通じて、私は過去と決別出来たのであり、今では過去は私にとって単なる思い出でしかなくなりました。今後は、過去に辿った道を、正当に手に入れた満足感と共に心静かに眺めることが出来るでしょう。
 私を地上で苦しめた人々よ、私に辛く当たり、私に悪意を向けた人々よ、私を侮辱し、私に苦汁を飲ませた人々よ、虚偽によって私の財産を奪い、私を窮乏生活に追い込んだ人々よ、私はあなた方を許すのみならず、あなた方に心から感謝いたします。
 あなた方は、私に悪を為しながら、実はこれほどの善を為していたなどとは、到底知るべくもなかったでしょう。今私が享受している幸福の殆どは、あなた方のお陰なのです。あなた方がいてくださったからこそ、私は許すことを学び、悪に報いるに善をもってすることを学ばせて頂いたのです。
 神は、私の進む道にあなた方を配し、私の忍耐心を試してくださったのです。そして、[敵を愛する]という、最も難しい愛の行為が出来るようにと、私に貴重な修行の機会を与えてくださったのです。
 さて、長々と前置きをしてしまいました。それでは、お尋ねの件に戻りましょう。
 生前、最後の病気ではひどく苦しみましたが、臨終に際しては苦しみはありませんでした。私にとって、死とは、戦いでも脅威でもなく、丁度眠りのようなものでした。死後の世界に何の不安もありませんでしたので、生にしがみつくこともありませんでした。したがって、生命が消えようとする最後の瞬間に、じたばたすることもなかったのです。肉体からの魂の分離は、私が知らない間に、苦しみもなしに、また努力もなしに行われました。
 この最後の眠りがどれ位の間続いたのかは分かりません。眠りに入る直前とは全く違い、すっかり落ち着いて目覚めました。もう苦しみはなく、喜びに満ちていました。起き上がって歩こうと思いましたが、全身が心地良く痺れており、なかなか起き上がることが出来ませんでした。自分がどのような状況にあるのか全く分かりませんでしたが、とにかく地上を去ったということだけははっきりしていました。丁度夢を見ているような感じでした。
 私の妻と数人の友人が部屋で跪いて泣いているのが見えましたので、私が死んだと思い込んでいるのだということが分かりました。そうではないことを分からせてやろうとするのですが、なぜか一言も言葉が出ません。
 周りを見ると、ずっと昔に亡くなった、愛する人々が、静かに取り囲んでくれていました。また、一見しただけでは誰なのか分からない人々もいました。そうした人々が、じっと、私を見守り、私の目覚めを待ってくれていたのです。
 こうして、覚醒状態とまどろみ状態が交互にやってきましたが、その間、意識を取り戻したり失ったりしていました。やがて徐々に意識がはっきりしてきました。霧に遮られたようにしか見えなかった光が、輝きを増してきました。自分のことがよく分かるようになり、もう地上にはいないのだということが本当に理解出来ました。もし霊実在論を知らなかったら、錯覚がもっとずっと長く続いていただろうと思います。
 私の遺骸はまだ埋葬されていませんでした。それは哀れな様子をしており、私はようやくそんな肉体から解放されたことに喜びを感じていました。自由になれてもの凄く嬉しかったです。瘴気の充満する沼地から脱出した人のように、楽々と呼吸が出来ました。私の存在全体に、筆舌に尽くし難い幸福感が浸透してきました。
 かつて地上で私が愛した人々が側にいてくれるということが、私を喜びで満たしていました。彼らを見ても何も驚きませんでした。全く自然に感じられたからです。ただ、長い旅の後で再び彼らに会った、という感じでした。一つびっくりしたのは、一言も言葉を交わさないのに、意思の疎通が出来るということでした。目を見交わしただけで、思いが伝わってくるのです。
 とはいっても、まだ地上の思いを完全に脱していたわけではありませんでした。地上で耐え忍んだことが色々と思い出され、新しい状況をよりよく理解する為のよすがとなりました。
 地上では肉体的にも苦しみましたが、やはり精神的な苦悩の方が大きかったのです。数多くの悪意を向けられた結果、現実の不幸よりももっと辛い数多くの困難に晒されたのです。困惑というのは、持続的な不安を生むものです。そうしたことが未だに心から完全に消えておらず、本当に解放されたのかどうか心配になる程でした。まだ不愉快な声が聞こえるような気がしました。私をあれ程度々苦しめた困惑を未だに恐れており、われにもなく震えているのです。夢を見ているのではないかと何度も腕をつねりました。
 そして、ついに、そうしたことが全て終わっているのだという確信を得た時は、本当に大きな重しが取れたような気がしました。『一生、私を苦しめ続けた全ての心配から、ようやく解放されたのだ』と思い、心から神に感謝したのです。
 私は、丁度、ある日突然とてつもない遺産を手にした貧乏人のような気分でした。暫くの間は、それが本当だとは信じられず、明日の食事の心配をするのです。
 ああ、地上の人々が死後の世界を知ることが出来たら、どんなによいことでしょうか。そうすれば、逆境にあって、どれほどの勇気、どれほどの力が得られることでしょう。地上で神の法に素直に従った子供達が、天国でどれほどの幸せを得られるかを知っていれば、どんなことだって我慢出来ます。死後の世界を知らずに生きた人は、『自分の怠慢によって天国で失うことになる喜びに比べれば、地上にいる間に手に入れたくて仕方がなかった他人の喜びなど、本当に何程のこともない』ということを思い知らされるのです」
ーそれほど新鮮な世界に還り、「地上など何程のこともなかった」ということを知って、かつての親しい友人達にも再び会えた今、家族や地上の友人達のことは、もう多分霞んできていることでしょうね。
 「私がもし彼らのことを忘れたとすれば、今味わっている幸福に相応しくない人間になってしまうでしょう。神はエゴイズムには報いず、罰を与えるのです。確かに、天上界にいると地上は厭わしく感じられますが、地上にいる仲間まで厭わしくなるわけではありません。お金持ちになったからといって、貧乏時代の大切な仲間のことを忘れるでしょうか?
 友人や家族にはこれからもしばしば会いに行くつもりです。彼らが、私について、よい思い出を持っていてくれるのは、大変嬉しいものです。その思いが私を彼らのもとに引き寄せます。彼らの会話に聞き入り、彼らの喜びを喜び、彼らの悲しみを悲しむのです。
 ただし、地上の人間と同じようには悲しみません。というのも、そうした悲しみは一時的なものであり、より大きな善の為であることをよく知っているからです。『彼らもやがては地上を去り、苦しみの一切存在しない、この豊かな美しい世界の住民になる』と思うと、本当に幸せになるのです。
 私がひたすら為すべきなのは、彼らがそういう世界に値する人になれるようにと手助けすることです。彼らが常に善き思いを持つことが出来るように、特に、私自身が神の意思に従って得ることが出来た諦念を、彼らもまた得ることが出来るように、私はひたすら努力するつもりでいます。
 私にとって最も辛いのは、彼らが、勇気が足りない為、また、不平不満の心を持っている為、さらに、死後の世界に対して疑いを持っている為に、天上界に戻るのが遅れることです。ですから、彼らが間違った道に逸れていかないように、一生懸命、導くつもりです。
 もし成功すれば、それは私にとっても非常な幸せとなるでしょう。何しろ、この世界で一緒に喜び合うことが出来るのですから。もし失敗したとするならば、後悔の念と共に、『ああ、また彼らは遅れをとったのだ』と思うことになるでしょう。とはいっても、何度でもやり直しが利くということを思い出して、心は治まるだろうとは思いますが」

長い間病気に苦しんだ挙げ句、三十五歳で亡くなった女性。生気に溢れ、霊的で、類いまれなる知性、正しい判断力、高い精神性に恵まれていた。献身的な妻であり、母であり、大変しっかりした女性であり、どのような危機的な状況に置かれても決して挫けないだけの、精神的な強さを持っていた。彼女に辛く当たる人々に対しても、決して恨みを抱かず、機会さえあれば、そういう人々に尽くそうとした。
 私は、長年の間、彼女と親しくしていたので、彼女の人生のあらゆる段階のことをよく知っており、最後の日々の出来事もつぶさに知っている。
 彼女は、ある事故から、ひどく重い病気になり、三年の間、ベッドに伏せることとなった。最後の瞬間まで、ひどい痛みに苦しんだが、彼女は決して本来の陽気さを失うことなく、健気に痛みに耐えた。
 魂の存在と死後の世界の存在を固く信じていたが、普段は、そうしたことをあまり気にしていなかった。常に現在を大切にし、現在に集中して生きており、死を恐れることはなかった。
 物質的な喜びには関心がなく、非常に簡素な生活を送り、手に入れられないものを欲しがるようなことはなかった。だが、生まれつき、よいもの、美しいものを知っており、生活の細部に至るまで、そうしたものへの配慮を貫いていたのは事実である。
 子供にとって自分が必要であることがよく分かっていたので、自分の為よりも、子供の為に、もっと長生きしたかった。彼女が生きることに固執したのは、実はその為であった。
 例実在論を知ってはいたが、詳しく勉強したことはなかった。霊実在論に興味は抱いていたのだが、それが彼女の心を占めることはなかったのである。霊実在論が真実であることは分かっていたのだが、深く探求してみようという気にはならなかったということである。
 彼女は、よいことを多くなしたが、それは、自発的に、自然にそうしたまでであって、死後の報いを得たいから、或は、死後に地獄に行きたくないからということで、そうしたわけではなかった。
 随分前から病勢が進んでおり、人々は、いずれ彼女が逝かねばならないものと見ていた。彼女自身もそれは自覚していた。
夫が外出していたある日、彼女は、自分がもうすぐ死ぬことを悟った。目がかすみ、意識が混濁し、魂と肉体の分離に伴うあらゆる苦しみが彼女を襲い始めた。しかし、夫が帰る前に死ぬのは辛かった。そこで、最後の力を振り絞って、「まだ死にたくありません」と言った。すると、また力が湧いてきて、何とか持ち堪えることが出来た。
 ようやく夫が帰ってきた時、彼女はこう言った。
「私はもうすぐ死ななければなりません。でも、最後の瞬間に、あなたに、側にいてほしかったの。だって、あなたに言っておきたいことが、まだいくつもあるのですもの」
 その後も、生と死の戦いは続き、彼女は、さらに三ヶ月、生き延びたが、それは大変な苦しみに満ちた日々であった。

 死の翌日に招霊を行った。

「私のよきお友達の皆さん、私のことを気にかけてくださって、ありがとうございます。皆さんは、私にとって、よき親戚のようなものでした。
 ところで、私は、現在、幸せですので、喜んでください。私の可哀想な夫を安心させてあげてください。また、子供達を見守ってあげてくださいね。この後すぐ、彼らのところにも行ってみますが・・・」
ーあなたの様子からすると、死後の混乱は長く続かなかったようですね。
「友人の皆さん、私は、死の前に、随分苦しみました。でも、それを甘受したことは、皆さんもご存知の通りです。私にとっての試練は終了しました。私は、まだ完全に物質界から離脱したわけではありませんが、もう苦しみはありません。何という慰めでしょう。こうして根本的に癒されたのです。
 でも、地上に降りてきて、あなた方と一緒にお仕事をする為には、あなた方のお祈りが必要なのです」
ーあなたの長い苦しみの原因は何だったのですか?
「それは恐ろしい過去です」
ー恐ろしい過去とは?
「ああ、もう思い出したくありません。本当に高く支払う必要があったのです」

 死の一ヶ月後、再び招霊した。

ーあなたは、既に物質界からの離脱を完全に果たしたと思いますし、自分をしっかり取り戻したと思います。そこで、前回よりも突っ込んだ形で、色々とお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?あなたの長い苦しみの原因は何だったのか、教えて頂けますか?三ヶ月の間、生と死の境で苦しまれましたね。
 「私の言ったことを覚えていてくださって、お祈りしてくださったことに、心からお礼を申し上げます。お祈りは本当に私を助けてくれました。お祈りのお陰で、地上からの離脱が大分楽になったのです。でも、まだ支えて頂く必要がありますので、申し訳ありませんが、今暫くお祈りしてくださるようお願い致します。
 あなた方は、お祈りがどのようなものであるか、よくご存知です。殆どの人のお祈りは、単なる決まり文句にすぎませんので、よき効果をもたらしませんが、あなた方のお祈りは、切なる心、純粋なる心から出ていますので、本当に素晴らしい効果があります。
 ええ、死の直前、私は、とても苦しみました。でも、苦しんだお陰で、私は、大分償いを果たすことが出来たのです。
 その為に、今では、子供達の側に頻繁に行くことが許されています。でも、あの子達と別れるのは本当に辛かった・・・。
 あの苦しみを長引かせたのは、私自身だったのです。『子供達と少しでも長く一緒にいたい』という思いが、肉体への執着となりました。本来なら、きっぱりと肉体を脱ぎ捨てるべきだったのですが、私は、逆に頑になってしまい、いつまでも肉体にしがみついていたのです。その為に、肉体が私の苦しみの道具となってしまいました。以上が、あの三ヶ月間の苦しみの真相です。
 病気と、それによる苦しみに関して言えば、あれは、私の過去のカルマの清算の意味がありました。私の過去の『借金』を支払う必要があったのです。
 ああ、友人の皆様、私が、生前、皆様のお話をよく聞いていれば、現在の生活は、どれほど変わっていたか分かりません。神様の御心をもっと信頼し、流れに身を任せていたならば、最後の苦しみも、もっともっと和らいだことでしょうし、肉体と魂の分離も、もっと簡単に行われたことでしょう。でも、私を待っていた死後の世界に目を向けるよりも、目の前の現実に執着してしまったのでした。
 次回、地上に転生する時には、必ず霊実在主義者になるとお誓いいたします。何という広大な科学でしょう。私は、よくあなた方の集いに参加し、そこでやり取りされる情報に耳を傾けます。地上にいる時に、そうしたことを知っていれば、私の苦悩は随分和らいだことだろうと思うのです。
 しかし、時が充分に熟していなかったのでしょう。
 現在では、私は、神様の優しいお心と公平さを理解することが出来ます。でも、地上のことからすっかり解放される程、悟りが進んでいるわけではありません。特に子供達のことが気になっております。あの子達を甘やかしたいのではなく、あの子達を見守り、出来れば霊実在論の教えを実践出来るようにしてあげたいのです。
 そうです、お友達の皆さん、私には、まだまだいくつも気がかりがあるのです。子供達の死後の行く末については、特に気になります」
ー生前のことで残念に思っていることはありますか?
「お友達の皆様、私は、ようやく全てを告白する用意が出来ました。
 私は、母の苦しみを、充分、理解してあげることが出来なかったのです。母が苦しむのを見ても、同情するということがありませんでした。『自分で勝手に病気だと思い込んでいるだけだ』と思っていたのです。母が寝込むということはなかったので、『実際には苦しんでいないのだろう』と思っており、母の苦しみを本気にせず、密かに笑っていたのです。
 それが、私の苦しみの原因になったのでした。神は全てを見ておられるのです」

 死後六ヶ月経った時、さらに招霊を行った。

「私が地上にあった時、人々は私を善人と思っておりましたが、実際には、私は、何よりもまず自分の快適さを考える人間だったのです。生まれつき、人を思いやる心は持っておりました。でも、『可哀想な人を助ける為に自分の生活を犠牲にする』というところまでは行きませんでした。
 現在では、私も大分変わりました。相変わらず、私は私ですが、でも、もうかつての私ではありません。というのも、次のことが分かったからです。それは、『見えない世界においては、心境の高さ以外に価値を測る物差しはない』ということです。したがって、金持ちだけれども傲慢な人よりも、貧乏だけれども思いやりのある善人の方が、その境涯が遥かに高いのです。
 私は、現在では、両親や財産を失って不幸になった子供達や、家族に不幸があって苦しむ人々を、特別に見守るお仕事を頂いております。彼らを慰め、勇気づけるのが、私の仕事ですが、このお仕事をすることが出来て、とても幸せです」

 アンナの話を聞いて、メンバーから次の重大な質問が出た。

ー当人の意志いかんによって、魂と肉体の分離の時期を遅らせることは可能なのですか?
 
 それに対して、聖ルイから次のような霊示を頂いた。

「この質問に対して、『何の制限もなく、その時期を遅らせることが出来る』と答えたとすれば、よからぬ結果を招くかもしれません。勿論、肉体に宿っている霊が、ある種の状況下において、自分の意志によって肉体の生存を長引かせることは可能です。アンナの例においても、それが見られましたし、それ以外にも、皆さんは、既に数多くの例を観察したはずです。
 ただ、地上の生命を引き延ばすということは、仮にそれが許されたとしても、限定された短い間のことにすぎません。というのも、自然の法則に介入することは、人間には許されていないからです。それは、あくまでも一時的な例外にすぎません。
 以上のように、可能性としては、本人の意志で地上生命を引き延ばすことは出来ますが、それを一般的な法則と考えてはなりません。『どんな場合でも、自分の思い通りに生命を引き延ばすことが出来る』と考えたら間違いになるのです。
 霊に対する試練として、或は、霊にまだ果たすべき使命が残っている為に、使い古された肉体器官に生体エネルギーが注ぎ込まれ、その結果、まだしばらく地上に存在し続けることが可能になるということがあります。とはいえ、そうしたことは、あくまでも例外であって、一般的な法則ではないのです。
 また、そうしたことは、神ご自身がその法の不変性を侵したということではありません。それは、人間に与えられた自由意志の問題であると考えるべきでしょう。最後を迎えつつある人間が、自らに与えられた使命を自覚し、それを、死ぬ前にどうしても果たしたいと考えた場合、そうしたことも起こり得るということなのです。
 また、一方では、死後の世界を信じない者に対する罰として死期が遅れるということも、時には起こります。死期が遅れることによって、それだけ苦しむ時間が長引くことが必要になる者もいるのです」

 アンナの霊が持っていた、肉体への執着の凄まじさを考えた場合、肉体からの離脱が随分素早く行われたことに驚く読者がいるかもしれない。しかし、この執着は、ひたすら子供のことを思ってのことであって、物質それ自体に執着していたわけではないことを理解しておく必要がある。「いたいけな、まだ小さな子供を残して死ぬわけにはいかない」というのが彼女の本心であった。
 彼女の霊は、知性においても、精神性においても、かなり進化した霊であった。もう一段、進化すれば、非常に幸福な境涯に進めるはずの霊である。したがって、物質と自己同一化している霊に特有な、肉体と霊の結びつきの強さというものは、彼女の場合には見られなかった。
 長引いた病気によって生命力が弱っていて、その為に、電子線が大分痛んでおり、辛うじて霊と肉体が繋がっているような状況であったと言えよう。アンナの霊が切りたくなかったのは、この弱くなった電子線であった。
 とはいっても、彼女の霊は、子供のことを思って分離に抵抗した為に、病気に由来する痛みに苦しむことはなかったが、分離することそれ自体が彼女にとって困難だったわけではない。そういうわけで、いよいよ死ぬことになった時には、分離に伴う混乱は短時間で済んだのである。
 死後、ある程度、時間が経ってからの招霊は、殆どそうであるが、この招霊のケースでも、我々は大切な事実を学ぶことが出来た。それは、「死後、時間が経つに従って、霊の心境に徐々に変化が生じてくる」という事実である。霊の心境が、段々高くなってくるのである。アンナの霊の場合、それは、「感情が、より高度なものになっていく」というよりも、「物事の評価の仕方が健全になっていく」という形で表れた。
 したがって、霊界での魂の向上は、経験的に確かめられた事実なのである。こうして進化した魂が、地上生活を送ることで、その悟りを実際に試すことになるのである。地上生活は、魂の決意に対する試練であり、魂が自らを浄化していく為のるつぼであると言ってもよいだろう。
 肉体の死後、魂が進化し始めるや否や、その運命は、絶えず変化し続ける。運命が決定的に固定されるということはない。というのも、既に述べたように、運命の固定は、直ちに進化の否定になるからである。運命の固定と進化は両立し得ない。事実と理性によって承認される真実のみが残るのである。

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