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カテゴリ:★『霊との対話』 > アラン・カルデック 物質のみ重視した霊

アラン・カルデック 物質のみ重視した霊 目次

快楽の追求に人生を費やした、ある遊び人の後悔

オーギュスト・ミシェル-金持ちの青年

1862年4月19日、ボルドーにて。
「私を体に結びつけていた鎖が切れたらしく、前よりも辛さは薄らいだように感じられる。とうとう自由になったわけだが、罪滅ぼしをしなくちゃいけないのは合点がいかない。でも、これ以上、苦しみを長引かせたくなかったら、無駄に使った時間を埋め合わせなくてはいけないわけだ。誠実に悔い改めさえすれば、神がそれを見て私を許してくれるに違いない。
 私の為に祈ってください。どうか、お願いします。
 友人達よ、私は『自分さえよければいい』と思って生きてきた。そして今、贖罪をし、苦しんでいる。私が怪我をしたトゲで、あなた方もまた怪我をしないように、神の恩寵を祈るばかりだ。主に向かう大道を、どうか歩いていってください。そして、私の為に祈ってください。ああ、私は、神が[貸して]くださった財産を自分の為だけに使ってしまった。何ということだろう!
 動物的な本能に従う為に、神が与えてくださった知性とよき感情を犠牲にした者は、まさしく動物と同じで、厳しい扱いを受けても文句を言えない。人間は、自分に[委託]された財産を、節度を持って使わなければならないのだ。
 人間は、死後に自分を待っている永遠の観点から生きなければならない。したがって、物質的な享楽への執着から離れる必要がある。食事は活力を得る為であるし、贅沢は、社会的地位に見合った程度に留めるべきなのだ。生まれつき備わっている嗜好や傾向性も、理性によって統御されなければならない。そうでなければ、浄化されるどころか、ますます物質的になってしまうからだ。欲望は紐のように人間を締めつけるものだ。欲望を募らせて、その紐をさらにきつく締めてはいけない。
 生きるのはよいが、遊び人として生きてはならない。霊界に還った時に、それがどれほど高くつくか、地上の人間達には決して分からないだろう。地上を去って神の前に出る時は、素っ裸にされて何一つ隠すことは出来ない。地上で何をしたかが、全て明るみに出されるのだ。
 だから、つまらない欲望に振り回されることなく、ひたすら善行を積むことをお勧めする。思いやりと愛に満ちて生きてほしい。そうすれば、そちらからこちらに来る時も、楽に境界を超えることが出来るはずだ」

 霊媒の指導霊からのメッセージ:「この霊は、正しい道に戻りつつあります。というのも、悔い改めを行っているだけでなく、自分が辿った危険な道を辿らないようにと、あとから来る者達に教えているからです。間違いを認めること自体、既に大したことですが、他者に奉仕することで、さらに善に向かって一歩進むことが出来ればもっとよいのです。
 だから、この霊は、幸福とまでは言えないけれど、もう苦しんではいません。彼は悔い改めを行いました。あとは、もう一度、地上に転生し直して、償いを果たしさえすればよいのです。ただし、そこに至るまでには、まだ経験しなければならないことが沢山あるでしょう。
 『自らの霊性のことなど考えず、ひたすら官能的な生活を送り、やることといったら新たな快楽を発明するだけ』という生活を送った人間が、霊界でどのような状況に置かれるか、あなた方には分かったでしょうか?
 物質的な影響は墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないので、地上にいた時と全く同様に、自分の欲望を満足させる手段だけを探し続けるのです。霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中を彷徨う人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなく彷徨い続けることになるのです。
 肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことに一切関わることがなかったので、当然のことながら、死後も、霊が本来果たすべき仕事には全く無縁となります。肉体を満足させることは当然出来ず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。
 したがって、絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。
 そこで、それくらいなら、むしろ消滅した方がよいと思うのです。ところが、霊を消滅させることは出来ません。肉体は殺すことが可能ですが、霊は殺すことが出来ないからです。
 したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神の方に目を向けることを決心するまでは、そのような精神的な拷問の中に身を置き続ける他ないのです」

ル・ウーブルにて、1863年。
 オーギュストは金持ちの青年で、物質的な生活を、ただそれだけを、大いに楽しんだ。頭は良かったのだが、真面目な事柄に全く関心がなかった。よこしまなところはなく、むしろ善人といってもよかったので、遊び友達からは愛された。社交界での付き合いに生きたと言ってよいであろう。悪を犯すこともなかった代わりに、善を行うこともなかった。
 ある日、乗っていた馬車が崖から転落して、あっけなく命を失った。
 死後、数日してから、間接的に彼を知っていた霊媒によって初めて招霊され、それから徐々に日を追って、次のようなメッセージを降ろしてくれた。

 三月八日
「まだ完全に体から離れていません。それに・・・まだ上手く話すことが出来ません。馬車からいきなり転落して私の体が死んだのですが、そのおかげで私の・・・・霊はひどく混乱しました。これからどうなるのかが分からず、その為に不安で・・・不安で仕方ありません・・・・。死の瞬間の私の体が味わった恐るべき痛みも、今私が感じている苦痛に比べれば、何程のこともなかったのです。
 神が私を許してくださるように、どうか祈ってください・・・。ああ、何という苦しみ!ああ、神様、ご慈悲を!ああ、苦しい!
 それでは、さようなら」

 三月十八日
「先日、来ましたが、その時は、上手く話せませんでした。今でも、まだ、通信するのに困難があります。
 あなたしか、お願いの出来る霊媒がいないので、どうか、神様が、現在の混乱から私を救ってくださるように、私の為に祈ってください。
 もう肉体は苦しんでいないのに、どうして、私はまだこんなに苦しいのでしょうか?この恐ろしい苦しみ、耐え難い苦悩は、どうして、これ程長く続くのでしょうか?
 祈ってください。神様が私に休息をくださるように、どうか祈って頂きたいのです。
 ああ、何という不安でしょう。私はまだ体から離れられずにいます。どこに行けばいいのか、よく分かりません。私の体がそこに見えます。ああ、どうして、いつまでもこんなところにいるのだろう?
 私の遺体に向かって祈ってください。そうすれば、私は体から離れることが出来るかもしれません。神様は、きっと、私を許してくださるだろうと信じています。
 あなた方の周りに霊達がいるのが見えます。私は、彼らのおかげで、あなた方に話が出来るのです。
 ああ、どうか、私の為に祈ってください」

 四月六日
「あなた方に祈って頂きたくて、こうしてまた舞い戻ってまいりました。私の遺体があるところに行って、私の苦悩が安らぐよう、全能なる神に祈って頂きたかったのです。
 ああ、苦しい!ああ、何という苦しみ!どうか、どうか、遺体のある場所に行ってください。そうして、私を許してくださるよう、神様に祈ってください。そうすれば、心が安らぐと思います。しかし、今のところ、かつて私を葬った場所に、絶えず戻らざるを得ないのです」

 オーギュストの霊が、どうして「墓の前に行って祈ってくれ」と言うのかが分からなかったので、この霊媒はそうしなかった。しかし、あまりにも繰り返し懇願されるので、ようやくそうすることにした。
 すると、墓の前で次のようなメッセージを受け取った。

 五月十一日
「あなたを待っていました。私の霊が体に縛り付けられている場所にあなたが来てくださり、寛大な神様に祈ってくださるのを待っていたのです。
 どうか、私の苦悩を和らげてくださるよう、神に祈ってください。あなたのお祈りによって、私はとても楽になるのです。早く、早く祈ってください。お願いです。私の人生がどれ程本来の姿からずれていたかが、今ではよく分かります。私の犯した過ちが何であるかも、よく分かります。
 私は地上で無用な存在として生きてしまいました。自分の能力を人の為に全く生かさなかったからです。私は、財産を、自分の為だけに、つまり、自分の欲望を満たし、自分に贅沢をさせ、虚栄心を満足させる為だけに使ってしまいました。体が喜ぶことだけをして、魂が喜ぶことを何もしませんでした。
 地上で犯した過ち故に、未だに苦しむ私の魂の上に、はたして神様は慈悲の光を降ろしてくださるのでしょうか?
 神様が私を許してくださるように、どうか祈ってください。そうすれば、今感じているこの苦しみから解放されると思います。
 私の為に、ここまで祈りに来てくださったことに、心から感謝します」

 六月八日
「私が、神の許しを得て、こうしてあなたに話が出来ることを、感謝しております。私は、自分の過ちに気がつきました。どうか神様が許してくださいますように。どうか、あなたは信仰に従って生きてください。そうすれば、私が未だに手に入れていない安らぎを、必ず手に入れることが出来るはずです。
 祈ってくださって、本当にありがとうございました。それでは、さようなら」

「墓の前に行って祈ってくれるように」との、霊の執拗な依頼は、誠に不思議なものであったが、この霊が、生前、全く物質的な生活を送った為に、死んでから、霊と肉体の結びつきが極めて強く、電子線がなかなか切れず、分離が非常に困難であったということを思えば、理解することが可能である。
 遺体の近くで祈ることによって、遺体に幽体のレベルで働きかけることとなり、その結果、分離を容易にするということであったのだ。
 亡くなった人の遺体の側で祈るということが広く見られるが、これは、人々が、無意識のうちに、そうした効果を感じているからではないだろうか。
 この場合、祈りの効果は、精神と物質の両方のレベルで表れるわけである。

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