カテゴリ:★『アラン・カルデック』 > [死]についての知識・カルデック
魂と肉体が分離するとき
最後の瞬間に何を感じるのか?
死後の世界があるということを確信していても、やはり、この世からあの世へ行くということには恐れが付きまとう。
死、それ自体が怖いわけではない。そうではなくて、移行のプロセスに恐れを感じるのである。
この世からあの世へ行くときに、苦しまなくてはならないのだろうか?
そのことが問題なのである。
しかも、誰一人として、その移行を免れることは出来ないだけに、この問題は重要性を増す。
地上においては、旅行をせずにいることは可能である。しかし、この最後の旅行だけは、貧乏人も、金持ちも、誰一人として免れることが出来ないのである。
しかも、地位や財産があったとしても苦しみが減ずるわけではないらしいことも、気にかかる。
ある人々は静かに死んでいき、また、ある人々は苦悶に満ちた恐ろしい死に方をするので、「一体自分はどうなるのだろうか」と気になる。
だが、その点に関して教えてくれる人がいないのである。
魂と肉体が分離するときに起こることを、実際に描写してくれる人はいないのだろうか?
最後の瞬間に、どんなことを感じるのか、教えてくれる人はいないのだろうか?
この点に関しては、科学もキリスト教も沈黙を守るのみである。
だが、なぜそうなのか?
それは、科学もキリスト教も、霊と物質の関係について、何一つ知らないからである。
科学は霊について無知であるし、キリスト教は物質に関して無知だからである。
そして、霊実在論こそが、この両者を結びつける存在であるのだ。霊実在論だけが、実際に、その移行がどのように行われるかを言うことが出来る。
というのも、霊実在論は、魂に関して実証的な知識をたくさん持っているし、現実に肉体を離れた人々の体験談も、数多く収集しているからである。
魂と肉体をつなぐもの
魂と肉体をつなぐ霊子線こそが、秘密を解く鍵なのである。
物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。これは実証可能な事実である。
喜びや苦しみを感じることの出来るのは、魂だけなのである。一生の間、肉体の状態は、常に魂に伝えられているのであって、喜んだり苦しんだりするのは、肉体ではなくて魂なのである。肉体は道具にすぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。
死が訪れると、肉体と魂は切り離されるが、肉体には感じ取る力がないので、問題はまったく生じない。
分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。
幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。一方なしに他方は考えられない。
生きて地上にいる間は、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことが出来るのも、幽体のおかげである。
肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。
だが、この分離は直ちに起こるわけではない。幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の公正要素が全く存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。
死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだ繋がっているがゆえに感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。
様々な状況の違いに関しては、後々検証することになるだろう。
ここでは、まず、四種類の極端な場合を想定しておこう。それ以外のケースは、すべて、それらの四種類の変奏としてとらえられるはずだからである。
1 有機生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は、まったく苦しみを感じない。
2 その瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる。
3 幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛は、さほど感じられない。
4 有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、霊子線が切れるまでは、肉体が解体するときの影響を、魂も受けることになる。
以上のことから、死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係していることが分かる。
したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、死の苦痛もまた少なくなる。
要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となるのである。
意識の混濁、そして目覚め
この世からあの世への旅立ちのプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。それは意識の混濁である。
死の瞬間に、魂は麻痺状態となり、その能力が一時的に停止されるため、少なくとも部分的に感じる力が働かなくなる。つまり、魂が一種の失神状態に陥るために、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
「ほとんどの場合」というのは、なかには、その瞬間のことをはっきりと覚えているケースもあるからである。それについては、あとで見ることにしよう。
意識の混濁が死の瞬間に起こるのは自然なことなのである。
どれくらいの間混濁するかは、それぞれ、人によって異なる。数時間で済む場合もあれば、数年間に及ぶ場合もある。混濁が解消すると、魂は、ちょうど、深い眠りから覚めた時の人間のような感じとなる。考えがまとまらず、ぼんやりとしており、まわりに霧がかかっているような感じである。視覚も除々に元に戻り、記憶もはっきりしてきて、意識が戻ってくる。
だが、この目覚めも、人によって、それぞれ違ったものとなる。ある場合には、目覚めは穏やかであり、気分は良い。また、ある場合には、目覚めは恐怖と不安に満ちており、悪夢からの目覚めにも匹敵する。
したがって、息を引き取る瞬間は、それほど苦しいものではない。というのも、大体の場合、魂は意識を失っているからである。
だが、息を引き取る瞬間までの間は、魂は、肉体の苦しみを感じ取っている。そして、息を完全に引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じる。
しかし、すべての場合がそうなるというわけではない。苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって決まるからである。
結びつきが強ければ強いほど、その絆を断ち切るための時間は永くなり、苦痛も大きくなる。
だが、なかには、結びつきが非常に弱いために、分離のプロセスが、ごく自然に、何の苦痛もなく行われることがある。完熟した果物が自然に落ちるようなものであって、そういう場合には、死は極めて穏やかであり、霊界への目覚めもまた安らぎに満ちたものとなる。
主として、その時の魂の状態によって、分離が容易に行われるかどうかが決まる。
肉体と幽体の親和力が高いと、霊の肉体への結びつきも強くなる。関心が、地上生活の物質的な快楽に集中している人の場合、幽体と肉体の結びつきの強さは最大になる。一方、主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、既に生活が非常に霊的になっている人の場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。
分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、分離が容易であるか辛いものになるか、快適か苦しいかは、各人の心境次第ということになるだろう。
この世からあの世への移行を楽にするには
病気や老衰で死んだら、どうなる?
理論的にも、また、観察の結果としても、以上のことを明らかにしたので(一つ前の記事を参照されたし)、あとに残っているのは、「死に方が、魂に、どのように影響するか」という問題である。
病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、幽体と肉体の分離も徐々に進行する。
魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている人の場合、実際の死よりも前に分離が進行していることが多い。「肉体は、まだ有機的な生命を伴っているが、魂が、既に霊的生活に入り、肉体とは本当に微かに繋がれているだけ」という状態になっているので、心臓が停止すれば、直ちに電子線が切れる。
こうした状況では、霊は、既に明晰さを取り戻しているので、肉体生命が消えていく様子をつぶさに観察することができ、なおかつ、肉体から離れることができるのを喜ぶ。
そうした人の場合、意識の混濁は、ほとんど生じない。「ほんの一瞬、平和にまどろんで、目を覚ました」という感じであり、えもいわれぬ幸福感を感じつつ、希望に満たされて霊界に還ってゆくのである。
物質的で官能的な人間、つまり、霊的な生き方ではなく肉体的な生き方をした人間、霊的生活に何の意味も見いださなかった人間、精神生活に何のリアリティーも感じなかった人間の場合、魂と肉体の結びつきは非常に頑固なものとなっている。
死が近づくと、分離が徐々に始まるが、多くの場合、困難を伴う。いまわの際に、痙攣が起こるが、これは、電子線を切ろうとする霊に対する肉体の抵抗が大きいために起こるものである。また、時には霊が肉体にしがみつくので、激しい力で、それを引き離さなければならず、そのために痙攣が起こる場合もある。
あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する。いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。全力を振り絞って肉体の中に留まり続けようとするために、時には、分離のための闘いが、数日、数週間、さらには数ヶ月かかることもある。
こういう状態では、霊の意識は混濁状態にあるものと思われる。死のはるか前に意識の混濁は始まるのだが、だからといって、楽になるわけではない。わけが分からず、死後にどうなるか見当もつかないので、それだけ苦悩が増すのである。「やっと死ねたと思ったら、それで終わりではなかった」というわけである。混乱は続く。
「自分は生きている」と思うのだが、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか、はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、まだ症状が続いているように感じられる。
脱物質化が進んで十分に浄化されている霊の場合、状況は、まったく異なる。
肉体と霊を結ぶ電子線は非常に弱くなっているので、何のショックもなしに切ることができる。
また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、彼にとって、病気による痛みは試練であり、死は解放でしかない。したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。
死の瞬間には、電子線は一瞬で切れるので、苦痛は全くない。彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。
非業の死を遂げたら、どうなる?
非業の死の場合、条件は同じではない。肉体と幽体の分離の準備が、あらかじめ、全くなされていないからである。有機的生命が、力に溢れた状態で、突然、中断されるわけである。
したがって、幽体の分離は、肉体が死んだ後で開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。霊は、あまりにも不意な出来事に圧倒されて、茫然自失の状態である。だが、考えることはできるので、「自分は、まだ生きているのだ」と思い込む。この錯覚は、状況を正しく把握するので、ずっと続く。
肉体生活と霊的生活の、この中間状態は、たいへん興味深いものであり、詳しい研究に値する。というのも、こういったケースでは、霊は、自分がまとっている幽体を肉体であると錯覚しており、肉体を持っていた時の感覚をまだ失っていないからである。
霊の性格、知識、悟りの程度に応じて、この中間状態は、実に多くの様相を呈する。魂が既に浄化されている人の場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。また、浄化が十分でない魂の場合、分離するのに数年間かかることがある。
もっとも、通常の死の場合においても、以上のことは、よく見られることであり、浄化の進んでいる魂にとっては、死は、何の苦しみももたらさないが、浄化が十分に進んでいない魂の場合、死が、とてつもない苦しみをもたらすことがある。
特に、自殺による死の場合、苦しみは大変なものとなる。肉体が、まだ完全に幽体と結びついているので、肉体の苦しみが、そのまま魂に伝わり、激烈な苦しみを味わうことになるのである。
死の瞬間の霊の状態は、大体次のようにまとめることが出来る。
幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊は、より長く苦しむこととなる。そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。
死後の世界は現実そのもの
魂の浄化をすすめ、悪しき傾向性をなくし、欲望に打ち勝つためには、そうすることによって、死後に、どのような利点があるかを知っておく必要があるだろう。
死後の生活に焦点を合わせ、それを目指し、地上の生活よりも、そちらを優先するためには、それを信じるだけでは十分ではなく、それが、いかなるものであるかを正確に知らなければならない。死後の世界は、理性的な観点からも、また、論理的な面からも、十分、納得出来るものである必要があるし、良識、神の偉大さや善意、正義とも矛盾しないものでなければならない。
この点に関して、あらゆる哲学の中で、霊実在論こそが、その揺るぎない根拠によって、人々に影響を与えることができる。
真摯な霊実在主義者は、盲目的に信じるのではない。彼は、正確に理解したが故に信じるのである。しかも、彼は、自らの判断力に基づいて理解したのである。
死後の世界は現実そのものであって、見ようと思えば常に見ることができる。彼は、絶えず、それを見、それに触れている。疑いをさしはさむ余地はまったくないので、霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには何の魅力も感じられなくなる。
そうした観点からすると、地上での、細々とした出来事などは、どうでもよくなり、また、様々な不幸にしても、それが、なぜ、どのような目的で起こるのかが分かるので、諦念とともに潔く受け止めることができる。
目に見えない世界と直接関わることができるので、魂は大きく飛躍する。
肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
というのも、あの世に踏み込んだ時点で、すぐに自分を取り戻すことができるからである。そこには未知のものは何も無く、自らの置かれた状況を直ちに理解出来るのである。
「霊実在論を知らなければ、そうした結果を得ることはできず、霊実在論だけが、魂の救済を果たし得る」と主張したいわけではない。だが、霊実在論が提示する知識や感覚、霊実在論によって示される死後の霊の行方を知ることが、魂の救済をはるかに容易にするのは事実である。霊実在論によって、我々は、霊的向上の必要性を正しく理解できるのである。
また、霊実在論によって、我々は、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。
真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
また、慎重に、智慧をもって招霊を行い、さらに、思いやりに満ちた励ましの言葉をその人にかけることで、その人の霊が、混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう、支援をすることができる。もし、その人が苦しんでいるようであれば、苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、その人を助けることも可能である。
理論的にも、また、観察の結果としても、以上のことを明らかにしたので(一つ前の記事を参照されたし)、あとに残っているのは、「死に方が、魂に、どのように影響するか」という問題である。
病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、幽体と肉体の分離も徐々に進行する。
魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている人の場合、実際の死よりも前に分離が進行していることが多い。「肉体は、まだ有機的な生命を伴っているが、魂が、既に霊的生活に入り、肉体とは本当に微かに繋がれているだけ」という状態になっているので、心臓が停止すれば、直ちに電子線が切れる。
こうした状況では、霊は、既に明晰さを取り戻しているので、肉体生命が消えていく様子をつぶさに観察することができ、なおかつ、肉体から離れることができるのを喜ぶ。
そうした人の場合、意識の混濁は、ほとんど生じない。「ほんの一瞬、平和にまどろんで、目を覚ました」という感じであり、えもいわれぬ幸福感を感じつつ、希望に満たされて霊界に還ってゆくのである。
物質的で官能的な人間、つまり、霊的な生き方ではなく肉体的な生き方をした人間、霊的生活に何の意味も見いださなかった人間、精神生活に何のリアリティーも感じなかった人間の場合、魂と肉体の結びつきは非常に頑固なものとなっている。
死が近づくと、分離が徐々に始まるが、多くの場合、困難を伴う。いまわの際に、痙攣が起こるが、これは、電子線を切ろうとする霊に対する肉体の抵抗が大きいために起こるものである。また、時には霊が肉体にしがみつくので、激しい力で、それを引き離さなければならず、そのために痙攣が起こる場合もある。
あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する。いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。全力を振り絞って肉体の中に留まり続けようとするために、時には、分離のための闘いが、数日、数週間、さらには数ヶ月かかることもある。
こういう状態では、霊の意識は混濁状態にあるものと思われる。死のはるか前に意識の混濁は始まるのだが、だからといって、楽になるわけではない。わけが分からず、死後にどうなるか見当もつかないので、それだけ苦悩が増すのである。「やっと死ねたと思ったら、それで終わりではなかった」というわけである。混乱は続く。
「自分は生きている」と思うのだが、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか、はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、まだ症状が続いているように感じられる。
脱物質化が進んで十分に浄化されている霊の場合、状況は、まったく異なる。
肉体と霊を結ぶ電子線は非常に弱くなっているので、何のショックもなしに切ることができる。
また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、彼にとって、病気による痛みは試練であり、死は解放でしかない。したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。
死の瞬間には、電子線は一瞬で切れるので、苦痛は全くない。彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。
非業の死を遂げたら、どうなる?
非業の死の場合、条件は同じではない。肉体と幽体の分離の準備が、あらかじめ、全くなされていないからである。有機的生命が、力に溢れた状態で、突然、中断されるわけである。
したがって、幽体の分離は、肉体が死んだ後で開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。霊は、あまりにも不意な出来事に圧倒されて、茫然自失の状態である。だが、考えることはできるので、「自分は、まだ生きているのだ」と思い込む。この錯覚は、状況を正しく把握するので、ずっと続く。
肉体生活と霊的生活の、この中間状態は、たいへん興味深いものであり、詳しい研究に値する。というのも、こういったケースでは、霊は、自分がまとっている幽体を肉体であると錯覚しており、肉体を持っていた時の感覚をまだ失っていないからである。
霊の性格、知識、悟りの程度に応じて、この中間状態は、実に多くの様相を呈する。魂が既に浄化されている人の場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。また、浄化が十分でない魂の場合、分離するのに数年間かかることがある。
もっとも、通常の死の場合においても、以上のことは、よく見られることであり、浄化の進んでいる魂にとっては、死は、何の苦しみももたらさないが、浄化が十分に進んでいない魂の場合、死が、とてつもない苦しみをもたらすことがある。
特に、自殺による死の場合、苦しみは大変なものとなる。肉体が、まだ完全に幽体と結びついているので、肉体の苦しみが、そのまま魂に伝わり、激烈な苦しみを味わうことになるのである。
死の瞬間の霊の状態は、大体次のようにまとめることが出来る。
幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊は、より長く苦しむこととなる。そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。
死後の世界は現実そのもの
魂の浄化をすすめ、悪しき傾向性をなくし、欲望に打ち勝つためには、そうすることによって、死後に、どのような利点があるかを知っておく必要があるだろう。
死後の生活に焦点を合わせ、それを目指し、地上の生活よりも、そちらを優先するためには、それを信じるだけでは十分ではなく、それが、いかなるものであるかを正確に知らなければならない。死後の世界は、理性的な観点からも、また、論理的な面からも、十分、納得出来るものである必要があるし、良識、神の偉大さや善意、正義とも矛盾しないものでなければならない。
この点に関して、あらゆる哲学の中で、霊実在論こそが、その揺るぎない根拠によって、人々に影響を与えることができる。
真摯な霊実在主義者は、盲目的に信じるのではない。彼は、正確に理解したが故に信じるのである。しかも、彼は、自らの判断力に基づいて理解したのである。
死後の世界は現実そのものであって、見ようと思えば常に見ることができる。彼は、絶えず、それを見、それに触れている。疑いをさしはさむ余地はまったくないので、霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには何の魅力も感じられなくなる。
そうした観点からすると、地上での、細々とした出来事などは、どうでもよくなり、また、様々な不幸にしても、それが、なぜ、どのような目的で起こるのかが分かるので、諦念とともに潔く受け止めることができる。
目に見えない世界と直接関わることができるので、魂は大きく飛躍する。
肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
というのも、あの世に踏み込んだ時点で、すぐに自分を取り戻すことができるからである。そこには未知のものは何も無く、自らの置かれた状況を直ちに理解出来るのである。
「霊実在論を知らなければ、そうした結果を得ることはできず、霊実在論だけが、魂の救済を果たし得る」と主張したいわけではない。だが、霊実在論が提示する知識や感覚、霊実在論によって示される死後の霊の行方を知ることが、魂の救済をはるかに容易にするのは事実である。霊実在論によって、我々は、霊的向上の必要性を正しく理解できるのである。
また、霊実在論によって、我々は、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。
真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
また、慎重に、智慧をもって招霊を行い、さらに、思いやりに満ちた励ましの言葉をその人にかけることで、その人の霊が、混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう、支援をすることができる。もし、その人が苦しんでいるようであれば、苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、その人を助けることも可能である。