アイルランド出身のカミンズは本来は劇作家であるが、いつの頃からか、自動書記能力を発揮し始め、主として聖書時代に関する通信を受け取っていた。
 周知の通り聖書時代に描かれているイエスの生涯は処刑に至るまでの三年間だけで、それまでの少年時代や青年時代、或は修業時代に関しては全くといってよいほど不明である。聖書学者の中には、少なくとも証拠という点から見る限り[イエスなる人物]が実在したとは言えないと断言する者がいる程である。
 その空白を埋める内容の通信がカミンズ女史の自動書記によって次々入手されたことが公になって、スピリチュアリズム関係者のみならず、敵対するキリスト教の聖職者や研究者・聖書学者も本格的な調査に参加し、[正真正銘]の折り紙がつけられている。これはキリスト教界における一大事件と呼ぶに相応しい大変な事実である。
 そうした一連の聖書時代のものが出たあとからフレデリック・マイヤースと名乗る霊からの通信が届けられるようになった。それを纏めたのが『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の二冊で、[マイヤースの通信]と呼ばれて愛読されている。
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●マイヤースの[類魂説]

 さきの聖書時代に関する通信に関してもそうであったが、この二冊に纏められた通信を、地上時代に(人間の個性とその死後存続)を著して他界した古典学者で詩人のフレデリック・マイヤースからのものであると断定する作業はH・G・ギブス女史によって徹底して行われたが、このギブス女史もカミンズ女史も自分自身のことに関しては何一つ述べていない。本項の冒頭を「いつの頃からか」という曖昧な書き方で始めたのはその為である。
 いかなる機縁で二人が共同の仕事をするようになったのかも不明であるが、大の仲良しで、二人とも独身で、アイルランドのカミンズ女史が英国本土へ出向くと必ずロンドンのギブス女史のところに泊まっていたことだけは確かのようで、多分そうした関係の中で不意にカミンズ女史の自動書記現象が始まったのであろう。モーゼスやオーエンと違ってカミンズはトランス霊媒、つまり完全に意識を失ってしまうタイプの霊媒なので助手を必要とし、図らずもギブス女史がその役をすることになった、ということではなかったろうか。一種の審神者だったという見方も出来る。
 このように二人の結びつきの経緯は具体的には分からなくても、現実の遺された珠玉の霊界通信を見れば、二人がその使命を担って地上へ派遣されたであろうことは想像に難くない。それは筆者が[マイヤースの通信]の二冊を全訳していく中で痛切に感じたことである。特に通信者がマイヤースであるかどうかを確認する時のギブス女史の慎重さは、日本の審神者も見習うべきであろう。このあと紹介する[とっておきのエピソード4]からもその一端が伺われる。
 では、二冊の通信を通してマイヤースが最も力こぶを入れ、また確かにスピリチュアリズムの生命哲学に飛躍的発展をもたらしたとされる[類魂説]を紹介しよう。
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●『永遠の大道』から

 類魂は、見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つに纏めているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、霊的生活においても、一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊から貰うのである。
 地上時代の私もある一つの類魂団に属していた。が、自分以外の類魂と、その全てを養う総括霊ーこれらは根に相当すると考えればよいーは超物質界の世界にいた。霊的進化の真相を理解せんとする者は是非ともこの類魂の原理を研究し、また理解しなくてはならない。これによって、例えば従来の再生説だけでは説明のつかない難問の多くが見事に片付く。
 私はこの説を決して安直に述べているわけではない。例えば人間が地上に生を受けるのは、前世での罪の代価を払う為であるというのは、ある意味では真実である。が、その前世とは、自分の生涯と言えると同時に自分の生涯ではないとも言える。つまり、前世とは自分と同じ霊系の魂の一つが、私が誕生する以前に地上で送った生涯を指すもので、それが現在の自分の地上生活の型をこしらえているのである。
 現在私が居住している超物質界には無限に近い程の生活状態があるので、私はただ私の知っている限りのことしか述べられない。断じて誤っていないとは言わないが、大体これから述べるところを一つの定理と考えて頂きたい。
 さて[ソウル・マン]となると大部分は二度と地上に戻りたいとは思わない。(マイヤースは人間をその本性から三つのタイプに分けている。動物的欲望を多分に残している人間を[アニマル・マン]、高い知性と豊かな情緒を備えている人間を[ソウル・マン]、霊性に目覚めた宗教的指導者や哲人を[スピリット・マン]しかし、彼らを統括している霊は幾度でも地上生活を求める。そしてその統括霊が類魂同士の強い絆となって、進化向上の過程において互いに反応し合い、刺激し合うのである。従って私が霊的祖先という時、それは肉体上の祖先のことではなく、そうした一個の霊によって私と結びついている類魂の先輩達のことをいうのである。
一個の統括霊の中に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの宿業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。
 同様に私も、自分が送った地上生活によって他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら、同時にまた、色々な界で生活している他の霊的仲間達からの影響を受けるのである。
 仏教が唱道する再生輪廻説、即ち何度も地上生活を繰り返すという説明は、半面の真理しか述べていない。この半面の真理というのは往々にして完全な誤謬よりも悪影響を及ぼすことがある。私自身は二度と地上に現れることはないであろう。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上でこしらえたカルマの中に入ることになる。ただし、私がカルマという用語を用いる時、それは従来のカルマと同じものではない。私は私としての王国を持っている。が、それすら大きな連邦の一単位に過ぎないのである。
 こう述べると、中にはソウル・マンにとっても一回の地上生活では十分ではないのではないかと言う人が居るかも知れない。が、こちらで進化を遂げると、同一の霊系の魂の記憶と経験の中へ入り込むことが出来るようになるのである。私はこの類魂説が一般的通説として規定さるべきであるとは言わない。が、私の知る限り、私の経験した限りにおいて、断じて正しいと信じる。(中略)
 我々は、この死後の世界へ来て霊的に向上して行くにつれ、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そしてついには個人的存在に別れを告げて類魂の中へ没入し、仲間達の経験までも我がものとしてしまう。と言うことは、結局人間の存在には二つの面があると理解して頂きたいのである。即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。
 地上の人間は私のこの類魂説を直ぐには受け入れてくれないのかも知れない。多分死後においての不変の独立性に憧れるか、或は神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が、私の類魂説の中にはその二つの要素が含まれている。即ち我々は立派な個性を持った存在であり続けると同時に、全体の中の一員でもあり続けるのである。(後略)

●『個人的存在の彼方』から

 地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、今度は知能ないし情緒的生活を体験する為に再び地上に戻ってくることは、これは紛れもない事実である。言い換えれば、私のいう[アニマル・マン]は間違いなく再生する。
 私のいう[ソウル・マン]の中にも再生という手段を選ぶ者がいない訳ではない。が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一個の霊が機械が回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどということは、まず考えられない。その説は明らかに間違っている。勿論原始的な人間の中には向上心、つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるであろうし、そういう人間は例外的に何度も再生を繰り返すかも知れない。しかし、まず大部分の人間は二回から三回、ないしは、せいぜい四回位なものである。
 もっとも、中には特殊な使命または因縁があって八回も九回も戻ってくる場合がないではない。従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言出来ることは、人間という形態で五十回も百回も、或はそれ以上も地上をうろつき回るようなことは絶対にないということである。
 「たった二回や三回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか」ーそう仰る方がいるかも知れない。が、その不足を補う為の配慮がちゃんと為されているのである。物もらい・道化師・王様・詩人・母親・軍人ー以上は無数にある生活形態の中から種類と性質の全く異なるものを無造作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っているという点においては全く同じ条件であること、言い換えれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下であり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているに過ぎないということである。
 そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験全体からみればホンの一部分しか体験出来ないことは確かである。苦労したと言っても高が知れている。人間性の機微に触れたと言っても、或は豁然として大悟したと言っても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚の全てに通暁するなどということはまず出来ない相談だと言っていい。なのに私は、地上生活の体験を十分に身に付ける迄は死後において高級界に住むことは望めない、と敢えて言うのである。
 その矛盾を解くのが私の言う類魂の原理である。我々はそうした無数の地上的体験と知識とを身に付ける為に、わざわざ地上へ戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識を霊界にあって我がものとすることが可能なのである。誰にでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、今旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。
 私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験を持たないが、私の属する類魂団の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが可能なのである。その中には仏教の僧侶だった者もいればアメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間達の体験を私が上手く吸収すれば、わざわざ地上へ降りて生活する必要はないのである。
 こうした類魂という『より大きな自分』の中に入ってみると、意志と精神と感性がいかにその威力を増すものであるかが分かる。自我意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。幾世紀にもわたる先人の智慧を、肉体という牢獄の中における疾風怒濤の地上生活によってではなく、肌の色こそ違えど同じ地上で生活した霊的仲間達の体験の中から、愛という吸引力によって我がものとすることが出来るのである。


 [とっておきのエピソード4]

 マイヤースは日本の参戦を予言していた

 『個人的存在の彼方』の付録として掲載されている幾つかのエピソードの中に、日本が第二次世界大戦に参戦し、いわゆる太平洋戦争へと突入する可能性があることを予言している部分がある。
 『個人的存在の彼方』の第一章の見出しは「この、お粗末極まる時代」となっているが、原文を直訳すれば「この、ちゃちで、けちくさい時代」となる。見出しとしてはいささか品が無さ過ぎるとの配慮から、あのように改めたのであるが、付録を読んでみて、マイヤースが当時の地上界の波動の酷さに苛立ちさえ覚えていた為に、あのような表現になったことに理解がいった。
 カミンズ女史の霊団にはアスターという名の少女の取り次ぎ役がいる。1933年12月の交霊会の日にギブス女史が、当日予定されていたマイヤースからの通信を受ける前に、そのアスターに向かって
 「マイヤースさんに間違いないか、よく見てね」
と語りかけた直後に、カミンズ女史の手がいきなり
 「フレデリック・マイヤース。今晩は」
と書き始め、そのまま一時間十七分にわたって書き続け、書き終わるとギブス女史に宛ててこう書いた。
 「奥さん、申し訳ない。私には地球に近づいてくる暗い影が見えたのです。それは災厄をもたらさずに終わるかも知れません。人類にも吉凶をどちらにでもする力があるのですから・・・ですが私はこの警告を書かずにいられなかったのです。申し訳ない。「この、ちゃちで、けちくさい時代」とでも題してください。こういう酷いタイトルにでもしないと注意を向けてくれないでしょう。今夜は思い切らせて頂きます」
 ギブス女史がこれには何か特別な訳でもあるのか、「影」というのは何なのかを尋ねると
 「例によって戦争の危機です。今直ぐというわけではありませんが、ここ数年の内に起きそうです。人類にとって幸せへの最善の方法は[国家]という名の物的な神の観念を捨てることです。つまり、国家というものは存在せず、意識の程度ないしはレベルがあるのみで、白・黄・黒・茶の肌色をした人間の大きな集団があればいいのです。それも数ではなく質こそ理想であることを知らねばなりません。美も力も、人口を抑制し管理し世界的な同朋意識を持つことによって得られるのです」
 「戦争というのはロシアとドイツの戦争のことですか」
 「そうです。それに日本です。避けられるかも知れません。が、いずれにしても新しい宗教、新しい信仰が是非とも必要です。これまでのものとは幾つかの点で異なるものが必要です」(後略)
 日本軍は1931年の満州事変を皮切りにアジアでの侵略行為を続け、33年には国際連盟を脱退、36年には日独防共協定に調印、37年に日中戦争開戦、39年にノモンハン事件勃発、40年に日独伊三国同盟に調印、そして翌41年12月にハワイの真珠湾を奇襲、かくしてマイヤースが危惧した通り、太平洋戦争へと突入して行った。