ノースクリフ卿ほど、毀誉褒貶、様々なことを言われた人物も珍しいのではなかろうかー生前も、そして死後も。
そのノースクリフ卿の下で私は、延べ十七年間も仕えていたー最初は若いレポーターとして、その後は卿の厚い信頼を受けた編集者の一人として。そんな私には、卿の言わんとすることは、口から出る前に直感的に察しがついたものだった。電話が掛かってきた時などは特にそうだった。さらに卿は死後ほどなくして自分が死んでいないことを私を介して伝えてきた時も、私は卿であることをまず直感的に確信したのだった。
本名をアルフレッド・ハームズワースといった。アルフレッドは少年の頃からフリート街で新聞を売り歩き、生涯で八十種類もの印刷物を発行し、『ノースクリフ卿』の称号を授与されて、五十七歳でその波乱の生涯を閉じている。大英帝国で最も多くの話題を振りまいた男であると同時に、最も頭の切れるジャーナリストであった。その男が、死んだ後また戻ってきて、話題を振りまくことになろうとは・・・
「ノースクリフ卿というのはどういう風貌の男でしたか」ー私はよくそう聞かれることがある。この質問には、どんなご機嫌の時に会ったかによって違うと答えておこう。惚れ惚れするほどハンサムに見える時があるかと思うと、芋虫を噛み潰したような顔でがなり立ててばかりいる時がある。満面に笑みを浮かべて、顔中がライトアップされたみたいに『いい顔』に見える時もある。こんな時の顔は実に印象的だった。近づき難いほどの威厳を感じさせる時があるかと思うと、少年のように、あどけなく笑い転げることもあった。
決断の速さは凄かった。記憶力の良さは、頭の中が区画整理がキチンとなされているようで、一度会った人、一度耳にしたことは絶対に忘れなかった。話題の切り替えが瞬間的で絶対に混乱しなかったのは、そのせいであったと思われる。人生問題に答えるコラムを執筆中に政治問題の論説を指示することもあった。日刊であろうと夕刊であろうと、或は一度に両方であろうと・・・
彼の話し振りはまるで暴君のように威圧的だった。電話での話の時は特にそうで、もしも相手に言い返され、その言い分が正しい時、つまり議論に負けた時は、いきなり受話器を切ったものだった。相手が取締役であろうが使い走りの少年であろうが、それは同じだった。それだけに、彼は「使い走りの少年だって、その気になれば取締役になれるよ」と言って笑っていた。もっとも「その気」になる者は一人もいなかったであろうが・・・
そんな暴君的な態度に嫌気がさして二、三週間で辞めていく者が少なくなかったが、その殆どがその後一流のジャーナリストとなっているという事実は何を物語っているのだろうか。実は私自身が三回も辞めては再就職している。多分これが最多記録であろう。
彼は社員の誰にとっても『親分』(ボス)のような存在だった。彼自身も自分が会社の中でも誰にも負けない活動的なジャーナリストであることを誇りにしていた。そして彼の偉いところは、道行く人の誰にでも「Daily Mailをどう思いますか」と聞いてみていたことである。その数は20人や30人ではなかった。中には痛烈な批判的な意見もあった。勿論記事の素晴らしさを口にする人もいた。彼はそれらを全部まとめてタイプで打ち、何枚もコピーして、社内の壁という壁に貼付けた。
雑誌類を発行し始めた時、最初の頃は全寮制の学生が小遣い稼ぎに働きに来たものだった。ノースクリフはもともと下卑た表現をしない人だったが、学生の読者が多いことを念頭において、教養度の高い表現は無理としても、せめて不潔な用語だけは用いないように指示していた。同時に彼は学生達に、なるべくならDaily MailやEvening Newsを読むように勧めていた。(第一次)世界大戦中も彼は、傍から見て明らかに働き過ぎと思われる程は働いた。それでも、死を予想させない元気さで戦乱の続くヨーロッパ大陸を訪れた時も、七本の記事を送ってきた。
その内の二本が「タイムズ」誌に掲載された時、精神分析の専門家から、この記事を聞いた記者はどこか妄想に取りつかれているところがある、と指摘する手紙が届いた。そう言えば、自分の記事が二本しか掲載されていないことに腹を立てたノースクリフはヨーロッパから電報で掲載を命令してきた。
が、彼の病は急速に進行し、その異常ぶりを案じた複数の友人がヨーロッパから連れて帰った。そして入院させ静養させようとしたが、1922年8月14日、ベッドの上で原稿を整理している間に絶命していた。ジャーナリストとして生き、ジャーナリストとして死んだ。
愚か者は彼のことを無慈悲な暴君だったと評する。が私は、彼ほどその人間関係の中に人間らしいムードと品格のあるマナーの魅力を感じさせた人を知らない。間違いなくそういう『ボス』だった。私にとっては二人といないその『ボス』の霊前に最敬礼する。
こうして綴っていても、私の脳裏を去来するのは無心に記事を書いている新聞人としてのノースクリフではなく、私の人生に誰よりも多くの影響を与えてくれた友人として、また、辛くはあったが最も幸せだった十七年間を捧げた人間ノースクリフとしての思い出である。
『ノースクリフ卿』と呼ばれる人物はもういないー彼は相続人を残さなかったのである。また『ボス』と呼ぶ人物も、もういないー世界中を探しても彼ほどボスと呼ぶに相応しい人物はいないからである。[Nothcliffeというのは『称号』であって個人名ではない。この称号は彼一人で終わったー訳者]
そのノースクリフ卿の下で私は、延べ十七年間も仕えていたー最初は若いレポーターとして、その後は卿の厚い信頼を受けた編集者の一人として。そんな私には、卿の言わんとすることは、口から出る前に直感的に察しがついたものだった。電話が掛かってきた時などは特にそうだった。さらに卿は死後ほどなくして自分が死んでいないことを私を介して伝えてきた時も、私は卿であることをまず直感的に確信したのだった。
本名をアルフレッド・ハームズワースといった。アルフレッドは少年の頃からフリート街で新聞を売り歩き、生涯で八十種類もの印刷物を発行し、『ノースクリフ卿』の称号を授与されて、五十七歳でその波乱の生涯を閉じている。大英帝国で最も多くの話題を振りまいた男であると同時に、最も頭の切れるジャーナリストであった。その男が、死んだ後また戻ってきて、話題を振りまくことになろうとは・・・
「ノースクリフ卿というのはどういう風貌の男でしたか」ー私はよくそう聞かれることがある。この質問には、どんなご機嫌の時に会ったかによって違うと答えておこう。惚れ惚れするほどハンサムに見える時があるかと思うと、芋虫を噛み潰したような顔でがなり立ててばかりいる時がある。満面に笑みを浮かべて、顔中がライトアップされたみたいに『いい顔』に見える時もある。こんな時の顔は実に印象的だった。近づき難いほどの威厳を感じさせる時があるかと思うと、少年のように、あどけなく笑い転げることもあった。
決断の速さは凄かった。記憶力の良さは、頭の中が区画整理がキチンとなされているようで、一度会った人、一度耳にしたことは絶対に忘れなかった。話題の切り替えが瞬間的で絶対に混乱しなかったのは、そのせいであったと思われる。人生問題に答えるコラムを執筆中に政治問題の論説を指示することもあった。日刊であろうと夕刊であろうと、或は一度に両方であろうと・・・
彼の話し振りはまるで暴君のように威圧的だった。電話での話の時は特にそうで、もしも相手に言い返され、その言い分が正しい時、つまり議論に負けた時は、いきなり受話器を切ったものだった。相手が取締役であろうが使い走りの少年であろうが、それは同じだった。それだけに、彼は「使い走りの少年だって、その気になれば取締役になれるよ」と言って笑っていた。もっとも「その気」になる者は一人もいなかったであろうが・・・
そんな暴君的な態度に嫌気がさして二、三週間で辞めていく者が少なくなかったが、その殆どがその後一流のジャーナリストとなっているという事実は何を物語っているのだろうか。実は私自身が三回も辞めては再就職している。多分これが最多記録であろう。
彼は社員の誰にとっても『親分』(ボス)のような存在だった。彼自身も自分が会社の中でも誰にも負けない活動的なジャーナリストであることを誇りにしていた。そして彼の偉いところは、道行く人の誰にでも「Daily Mailをどう思いますか」と聞いてみていたことである。その数は20人や30人ではなかった。中には痛烈な批判的な意見もあった。勿論記事の素晴らしさを口にする人もいた。彼はそれらを全部まとめてタイプで打ち、何枚もコピーして、社内の壁という壁に貼付けた。
雑誌類を発行し始めた時、最初の頃は全寮制の学生が小遣い稼ぎに働きに来たものだった。ノースクリフはもともと下卑た表現をしない人だったが、学生の読者が多いことを念頭において、教養度の高い表現は無理としても、せめて不潔な用語だけは用いないように指示していた。同時に彼は学生達に、なるべくならDaily MailやEvening Newsを読むように勧めていた。(第一次)世界大戦中も彼は、傍から見て明らかに働き過ぎと思われる程は働いた。それでも、死を予想させない元気さで戦乱の続くヨーロッパ大陸を訪れた時も、七本の記事を送ってきた。
その内の二本が「タイムズ」誌に掲載された時、精神分析の専門家から、この記事を聞いた記者はどこか妄想に取りつかれているところがある、と指摘する手紙が届いた。そう言えば、自分の記事が二本しか掲載されていないことに腹を立てたノースクリフはヨーロッパから電報で掲載を命令してきた。
が、彼の病は急速に進行し、その異常ぶりを案じた複数の友人がヨーロッパから連れて帰った。そして入院させ静養させようとしたが、1922年8月14日、ベッドの上で原稿を整理している間に絶命していた。ジャーナリストとして生き、ジャーナリストとして死んだ。
愚か者は彼のことを無慈悲な暴君だったと評する。が私は、彼ほどその人間関係の中に人間らしいムードと品格のあるマナーの魅力を感じさせた人を知らない。間違いなくそういう『ボス』だった。私にとっては二人といないその『ボス』の霊前に最敬礼する。
こうして綴っていても、私の脳裏を去来するのは無心に記事を書いている新聞人としてのノースクリフではなく、私の人生に誰よりも多くの影響を与えてくれた友人として、また、辛くはあったが最も幸せだった十七年間を捧げた人間ノースクリフとしての思い出である。
『ノースクリフ卿』と呼ばれる人物はもういないー彼は相続人を残さなかったのである。また『ボス』と呼ぶ人物も、もういないー世界中を探しても彼ほどボスと呼ぶに相応しい人物はいないからである。[Nothcliffeというのは『称号』であって個人名ではない。この称号は彼一人で終わったー訳者]