「『死』の現象とその過程」ー『スピリチュアリズムの神髄』より

                               ジョン・レナード著


  「死」の現象とその過程は本質的には「老化」の現象とその過程である、というのがスピリチュアリズムの死の理論の出発点である。つまり、老化現象が死の過程の始まりだというのである。
 ところで、この老化という現象については現代の生理学でも諸説があって、定説がない。一番有力で一般に受け入れられているのが、老化は身体を構成している組織の硬化であるという説であるが、それは老化の原因ではなく結果とみるべきである。
 他の説についても同じことが言える。みな身体的な変化を取り上げてそれが原因であると主張するのであるが、いずれも原因と結果を取り違えている。老化及びその終末である死の原因は実は内面的なものであり、現代の科学の範囲を超えた次元に存在するのである。
 
 スピリチュアリズムでは、老化の原因は人体に活力を与えている生体磁気及び生体電気の消耗であると主張する。勿論一度に起きるものではなく、また、特殊な年齢に生じるものでもない。35歳前後の肉体的成熟期から始まって年齢と共に進行する現象で、いわば登り詰めた山からゆっくり下っていくようなものである。
 それまでひたすら吸収し蓄積していたエネルギーとバイタリティを、今度は徐々に使い果たしていくわけである。その過程は極めてゆっくりとしており、初めの頃は殆ど自覚しないが、年齢と共に着実に進行していき、ふと気づいた時はすっかり老け込んでしまっている、というのが通例である。
 ではなぜ34、35頃から、それまでせっせとエネルギーを吸収していたのが、反対に消耗する方に転じるのだろうか。
 その訳は簡単である。吸収するエネルギーの量より消費するエネルギーの方が多くなり始めるだけのことである。それまでは、ひたすらに自我を発達させながら伸び伸びと生きてきたのが、ほぼその年齢の頃から、家庭的にも社会的にも大きな、そして様々な義務と責任を背負うようになり、身体的のみならず精神的にもエネルギーの消耗が激しくなっていくのである。
 一旦この過程に入ると、山を下るのと同じで、止まることを知らず、そして、いよいよそのエネルギーの蓄えがそれ以上肉体を支えるに十分でなくなった時、スピリットは肉体から脱け出ていく。これがつまり死である。この老化現象と、その最終結果としての死に至る過程における最大の要因は、生体電気すなわちエーテル体の構成要素の中で一番程度が低く、物質形態に一番近いエネルギーの消耗である。エーテル体と肉体との分離は、当然、その一番近い接触部分から始まる。そこはバイタリティ、すなわち生体電気が物質形態の中でも物質性の一番低い形態であるエーテルと直接の繋がりを持つ部分である。生体電気の量が減少するにつれて、エーテル体との関係が薄くなる。あまりに薄くなると相互関係の維持が困難となる。そしていよいよ調和の取れた関係が維持出来ないほど生体電気が減少した時点で完全に関係が切れ、エーテル体は肉体から離れる。
 エネルギーの消耗は顔と姿格好に直ぐ現れ、例の老けた感じが出てくる。それは、身体にまるみと弾力性を与えているのがエーテル体の持つ磁気だからである。言ってみれば人間は、電気と磁気という液体の中に肉体という物体がどっぷり浸かって浮いている状態であって、その電気と磁気が枯渇してくれば、当然、肉体は縮んでくる。顔に皺が寄り骨格がもろくなるのはその為である。このエーテル体の電気と磁気は肉体と表裏一体の関係にあり、エーテル体がそれを失えば肉体にその影響が現れるのである。
 それ故に、老けるということは実質的には、エーテル体を構成し、霊が肉体器官と連絡したりコントロールしたりする際の媒体となっている、この電気と磁気が失われていくことである。失われるということは、老化の過程と死の瞬間において全部がどこかへ消えてしまうということではなく、その内の必要な分量だけは死後の身体の構成要素として残され、各器官に吸収されていく。実を言うと、実際に失われていくのは同じ生体エネルギーの中でも肉体と直接繋がった、いわゆる精力として実感している低級なエネルギーであって、高級なエネルギー、すなわち感情や情緒や愛情として実感しているエネルギーの殆どは全部残っていて、物質形態との接着剤の役割をしている媒体(複体)の消滅と共に内部へと移動するだけのことである。
 その過程、つまり低級な電磁気が涸れていくにつれて高級な電磁気が徐々にエーテル体に移動していく過程を、デービスは次のように叙述している。
 
 前述の如く、肉眼はその最上のエキス分を霊眼の製造の為にエーテル体に供給していく。そして、その供給量は年齢と共に増えていくので、晩年に至って視力が急速に衰えていく。耳も、数十年の間このエキス分をエーテル体の耳の製造に供給していく。そして、いわば磨り減っていく機械のように、徐々に聴力を失っていく。「あの人も耳が遠くなったな」ーあなたはそう思って気の毒に思うかも知れない。が、少しも気の毒がることではない。肉体の聴力がエーテル体へ撤退して、次の世界での生活の準備を整えているのである。頭の働きも同様である。「気の毒に、あの人もボケて来たな」ーそう思うかも知れない。確かに辻褄の合わない話をするようになる。回想力が衰えるからである。が、これも目や耳の場合と同じく、エーテル体の脳の準備の為に肉体の脳がそのエキス分をエーテル体に着々と送り続けてきた結果なのである。その為に肉体の脳細胞は磨り減り、衰弱し、そしてストップする。崇高なる使命を終えて、大工場が閉鎖したのである。が、それまで工場を動かし続けてきた動力が消滅したのではない。動力源である霊は生き生きとしているのである。上辺の肉体は確かに衰えた。言うことがおかしい。手が震える。「エネルギーが切れたのだろう」ーそう仰る方がいるかも知れない。が、そうではない。肉体は全盛を極めた時点から、骨、筋肉、神経、繊維等、要するに肉体を構成するあらゆる要素が、そのエキス分をエーテル体に供給して、地上より遥かに清らかで美しい次の世界、すなわち幽界で使用する身体を着々と用意してきたのである。
 内臓についても同じことが言える。ある一定の成熟度に達すると、内臓の諸器官、すなわち肺、胃、肝、腎、膵等は、これらと密接に繋がった細かい器官と共に徐々にその機能を低下させていく。やがて弱さが目立つようになり、病気がちになり、そして老衰する。これをただの老化現象だと決め込んでは見当違いである。というのは、表面的には確かに老化していくだけのように見えても、その内実は、各器官がその最高のエキス分を死後の生活に備えて着々とエーテル体の形成に送り込んでいるのである。肉体的には確かに老衰した。話をしても、まともな返事が返ってこない。が、それは脳味噌がそのエキス分をエーテル体に取られたからである。何たる不思議な変化であろうか。人間の老化と死は昆虫の羽化とまさしくそっくりである。いや、昆虫に限らない。植物の世界でもー地衣類のコケにさえーこの束縛から自由への決定的瞬間、危険に満ちた運命の一瞬が必ず訪れる。小麦がようやく地上に顔を出す直前をよく観察するがよい。種子が裂けて、そこから新しい茎が出てくる時の様子ほど人間の死に似たものはない。死に瀕した老人は、声をかけても、最早聞こえない。なぜか。エーテル界へ生れ出る瞬間の為に音もなくせっせと準備しつつあるからである。目も見えない。いかに上等の眼鏡をあてがってくれても、最早肝心の機能そのものが働きを止めているのであるから、どうしようもない。これを悲しんではいけない。大自然の摂理は全てが有り難く出来上がっている。これから始まる第二の人生の為に着々とエーテル体を整備しつつあるのである。やがて老体は一切の食事を受け付けなくなる。工場が完全にストップしたのである。炉の残り火がやっと燻っているだけである。工場全体に静寂が訪れる。全ての仕事が終わった。が、その長きにわたる仕事の産物が今、今工場から運び出された、それが霊である。後に残した工場は永久に使用されることはない。死が訪れたからである。が、霊は住み慣れたその生命の灯の消えた肉体から抜け出て、歓迎の為に訪れた霊魂の集まりへと歩み寄る。その様子はあなたには見えないであろう。
 
 このように、肉体の衰弱と意識の内部への撤退は生体電気の消耗によって生じる。肉体とエーテル体とを連絡しているエネルギーには生体電気と生体磁気の二種類があり、このうちの波長の低い方の生体電気が豊富にあるうちは、これを連絡路として高級な意識やエネルギーまでが肉体へと注ぎ込まれて、心身共に見るからに生気溌剌として健全である。
 ところが、やがて生体電気が消耗してくると、肉体との連絡が少しずつ疎遠になり、高級な意識とエネルギーは徐々にエーテル体へ撤退し、低級な意識とエネルギーだけが肉体を守ることになる。そしてやがてその生体電気までが枯渇しきった時、エーテル体と肉体は完全に縁が切れることになる。これが死である。
 青春時代は確かに心身共に生気溌剌として健康であり、身体は常に活動を求めてやまず、反対に霊的な、或は宗教的なことは敬遠しがちなものである。というのは、この時期には低級・高級の区別なくあらゆるエネルギーが豊富に肉体に流れ込んでくるが、なんといっても物質的な生体エネルギーが圧倒的に全体を支配する為に、高級な霊的意識が曇りがちとなるからである。となると、意識は当然の結果として物質的色彩を帯びて、食欲・性欲等の肉体的欲望が旺盛となってくる。
 これがやがて年齢と共にある程度まで消耗してしまうと、その分だけ物的感覚から脱して、霊的なもの・精神的なものへと意識が転移してくる。青春時代を活動と欲望の時期とすると、中年から老年の時代は思索と内省の時期ということができよう。
 繰り返し述べたように、老化は生体エネルギーの消耗の結果である。したがって仮にその消費しただけのエネルギーを何らかの方法で補給して、常に十分なエネルギーを蓄えておくことが出来れば、人間はいくら年をとっても若々しく健康であり、いくらでも寿命を伸ばせる理屈となる。それこそ不老長寿の妙薬ということができる。
 このエネルギー(生体電気)はエーテル体と肉体の接着剤のようなものであり、接着剤がしっかりしている限りは肉体と自我意識の関係は蜜に保たれ、ボケることはない。また、少なくとも理屈の上では死ぬこともない。
 元来、肉体そのものには直接生と死にかかわる原因的要素は無いのであって、全てはエーテル体にある。肉体上に現れる現象はことごとく結果であって、肉体の形体、容貌、活動、そして死に至るまでの全ては、みな内在するエーテル体にかかわっているのである。
 そういう観点から言えば、新しい衣服を着たからといって肉体が若返るものでないように、肉体そのものの健康管理が寿命を伸び縮みさせるものではないと言える。
 それはそれとして、もし仮にそういう不老長寿の妙薬が発見されたとした場合、果たして人間は喜んでそれを使用するであろうか。これは甚だ疑問である。
 というのは、今も述べたように、エーテル体と肉体とが完全に融合している時は肉体は若々しく溌剌としているが、やがて高級な生体エネルギーは死後の生活で使用する身体、つまり幽体の充実の為に抽出され、一方、低級なエネルギーも徐々に使い果たして老化していく。
 これは進化の道程における自然な成り行きであって、そうなることが人間の進化にとって望ましいわけである。それが不老長寿の妙薬で肉体的エネルギーを補給することによって若返るということは、思索と内省の時期から再び活動と欲望の時期に逆戻りすることであって、こうした状態をいつまでも続けることは決して望ましいことではない。
 進化とは、物質的欲望を体験することによってそれを卒業し、愛と知性と霊性を身につけていくことである。しだかって人間が徐々に若さを失い、肉欲的観念から抜き出て、やがて老衰し死に至るという過程は決して好ましからざることではなく、それでいいのである。
 死はそうした物質的感覚の次元から飛躍的にスピリットを解放してくる。同時にそれが知的ならびに霊的な喜びの世界への大きな門出でもあるのである。

 [原著者脚注]
 我々は死によってバイタリティ(精力素) の全てと縁が切れてしまうわけではない。そのうちでも低級な要素すなわち生体電気の何割かはエーテル体の構成要素となって残っている。つまり、身体は地上生活中にその生体電気の全てを使い果たして死ぬのではなく、エーテル体との繋がりを維持出来なくなる程度まで衰弱した挙げ句に断絶が生じ、死に至るわけである。残されたバイタリティはエーテル体の外部の要素となり、足りない部分は直接大気中から摂取したものが補われる。かくして新しい身体も丸みを帯び、美しさも具わってくる。但し、その新しい身体に吸収されたバイタリティは、地上時代のように精神を左右することはない。なぜなら精神の方が地上時代より遥かに発達し、むしろ身体の方を自由に操ることになるからである。