さて、死の過程の最終段階は、肉体とエーテル体の分離である。これは、いわゆる老衰による自然死の場合は、至って簡単に行われる。というのは、両者を接着している電気性エネルギーがその時迄に殆ど枯渇して稀薄になっている為である。
これに反し、事故のような急激なショックによって分離した場合は事情が違ってくる。そういう場合は接着剤に相当する電気性エネルギーが豊富に残っている為に、肉体からの分離が容易に行われない。しかし、否でも応でも離れざるを得ない。そこで苦痛が生じる。また、色々な資料によると、事故による精神的ショックが死後もずっと尾を引いて、霊的な回復を遅らせる。いわば無理矢理にもぎ取られた青い果実のようなもので、霊的でも目覚めが遅く、回復に相当期間を要する。
デービスも次のように述べている。
人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごく穏やかに、そっと肉体から離れていく為に、あたかもこの世への赤子の如く、本人も自分が死んだことに一向に気づかないことすらある。しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、苦痛が伴う為にそれを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。そんな場合は、一時的に感覚の休止という現象が生じる。つまり、死後の睡眠状態である。それが何日も何十日も続く。さらに霊体の方は、霊の道具となる為の準備がまだまだ不足している。
死の現象を実際に観察した話は数多くある。霊界のスピリットが観察してそれを霊媒を通じて語ってくれたものもあれば、肉体を持ちながらスピリットと同じ視力、いわゆる霊眼で観察して語ったものもある。スエーデンボルグがその一人である。ナザレのイエス(キリスト)がまたしかりである。が、素晴らしさと興味深さの点で群を抜いているのは、これまで度々引用しているデービスである。
数多くの書物の中でデービスは度々死の問題に触れ、自分の観察記録を細かく書き記している。その観察の素晴らしさは群を抜き、肉体構造の知識などは当時の科学知識の水準を遥かに超えていた。
したがって、当時の科学者がデービスの業績に対して正当な評価を与えなかったのも無理からぬことであった。が、今日では学者の態度もようやく変わりつつある。死の現象について心霊学的知識を基礎とした科学的解説が施される日も、そう遠くはないであろう。
そのデービスの記述の中でも最高と思われるものがThe Physicianの中に収められている。これはあらゆる点から見て完璧と思われるので、数ページにわたる全文を紹介しようと思う。
患者は60歳位の女性で、亡くなられる八ヶ月前に私のところへ診察の為に来られた。症状としてはただ元気がない、十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない、ということくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八ヶ月前のことである。もっともその時は、八ヶ月後ということは分からなかった。(霊感によって地上の時間と空間を測るのは私には出来ないことである。)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心密かに、その『死』という、恐ろしくはあるが興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、その為に適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして心身共に入神し易い状態にあった。が、入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。私はそういう場所を探し始めた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。
最早肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が、同時に、各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しているかに見える。すなわち、筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚を保持しようとし、脳組織は知性を維持しようとして懸命になる。つまり、肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死に抵抗を試みるのである。その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる、が、私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応に過ぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。
やがて頭部が急に何やらキメ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が拡がり始めた。大脳も小脳も普段の流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが、見ていると、全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。言い換えれば、脳全体が普段の10倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。
今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。続いて、驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてキメの細かい発光性の電気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を現し始めたのである。念の為に言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることは出来ない。肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いている為に、私はその中身まで透視することは出来ないし、じっと見つめていることすら出来なくなった。この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。すなわち、肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであって、これが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。
表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現の時と全く同じ要領で次々と出現し、奇麗な形を整えていった。こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの[未分化の粒子]とでもいうべき無数の粒子は、[不滅の友情]にも似たある種の親和力を本質的に備えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の中部に潜む親和力の所為である。というのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しく出来た霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官が全ての創造物に共通した性向に従ってその在るべき本来の姿に立ち帰るのだ。
こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最後を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかし実は、それは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜け出て行く時の[反応]にすぎないのであった。
霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部の辺りに垂直に立った。これで六十有余年の長きにわたって続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足元と肉体の頭部とが一本の電気性のコードによって結ばれているのが映った、明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだ、と。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似合った才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。また思った。母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象とは全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。コードはなおも二つの身体をしっかりと繋いでいた。そして、切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐ為であった。
その意味で死体は、完全に腐敗が始まる迄は埋葬すべきではない。たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体と繋がっているからである。事実、完全に死んだと思われた人が数時間、或は数日後に生き返って、その間の楽しい霊界旅行の話をした例があるのである。原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直性、夢遊病、或は恍惚状態と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、或は数時間の間の記憶は滅多に思い出せない。そのために浅薄な人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとする。が、霊的旅行の記憶を持ち帰ることが出来るのは、肉体から完全に離脱し、霊的へその緒、すなわち電気性のコード(電線と呼んでもよい)によって繋がった状態で自由に動き回った時であって、その時は明るく楽しい記憶に満ち満ちている。
かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ目をやると、早速霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとしている様子が見えた。初めは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ち良さそうに吸収するようになった。よく見ると、霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、その他、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。何と素晴らしいことか。決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまった訳ではない。特徴が消え失せた訳でもない。もしも地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、丁度病気で永らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきた時の姿を見て驚くように、「まあ、奥さん、お元気そうですわ。すっかり良くなられましたのね」ーそう叫ぶに違いない。その程度の意味において、霊界の彼女は変わったのである。
彼女は引き続き霊界の新しい要素と高度な感覚に自分を適応させ、馴染ませようと努力していた。もっとも私は彼女の新しい霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全課程に終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者達の止めどもない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。一目見て彼女は、家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今なお生きている霊的真実を知らないからだ、と理解した。
人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。少数の例外は別として、霊覚の未発達の人類、すなわち全てを見通せる能力を持たない現段階の人類、目に見え、手で触れること以外に存在を確信出来ない人類、したがって「死」というものを肉体の現象によってしか理解出来ない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。つまり、人類の大部分は肉体の死が全ての終わりであると思い込んでいる。が、私は、そう思い込んでいる人、或は死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。死に際して本人自身は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でボロボロになって死んでも、或は雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。もしもあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることが出来れば、あなたの直ぐ前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来、「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶべきものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へと生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。祭壇を前にして生身のまま墓地に入る思いをしている時、或は魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの喪服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。
以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。もっともこれが全ての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素に慣れてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降り立って、病める肉体と共に数週間を過ごしたその寝室のドアから出て行った。夏のことなので、全てのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出て行くことが出来た。寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が、我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことが出来るのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。家を出てからほどなくして二人の霊が彼女を出迎えた。そして優しくお互いを確かめ話を交わした後、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来事であることが実感出来なかった。あたかも、いつも登る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間、私は普段の自分に戻っていた。
戻ってみて驚いた。こちらはまた何という違いであろう。美しく若々しい霊姿とはうって変わって、生命の灯の消えた、冷えきった亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。
これに反し、事故のような急激なショックによって分離した場合は事情が違ってくる。そういう場合は接着剤に相当する電気性エネルギーが豊富に残っている為に、肉体からの分離が容易に行われない。しかし、否でも応でも離れざるを得ない。そこで苦痛が生じる。また、色々な資料によると、事故による精神的ショックが死後もずっと尾を引いて、霊的な回復を遅らせる。いわば無理矢理にもぎ取られた青い果実のようなもので、霊的でも目覚めが遅く、回復に相当期間を要する。
デービスも次のように述べている。
人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごく穏やかに、そっと肉体から離れていく為に、あたかもこの世への赤子の如く、本人も自分が死んだことに一向に気づかないことすらある。しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、苦痛が伴う為にそれを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。そんな場合は、一時的に感覚の休止という現象が生じる。つまり、死後の睡眠状態である。それが何日も何十日も続く。さらに霊体の方は、霊の道具となる為の準備がまだまだ不足している。
死の現象を実際に観察した話は数多くある。霊界のスピリットが観察してそれを霊媒を通じて語ってくれたものもあれば、肉体を持ちながらスピリットと同じ視力、いわゆる霊眼で観察して語ったものもある。スエーデンボルグがその一人である。ナザレのイエス(キリスト)がまたしかりである。が、素晴らしさと興味深さの点で群を抜いているのは、これまで度々引用しているデービスである。
数多くの書物の中でデービスは度々死の問題に触れ、自分の観察記録を細かく書き記している。その観察の素晴らしさは群を抜き、肉体構造の知識などは当時の科学知識の水準を遥かに超えていた。
したがって、当時の科学者がデービスの業績に対して正当な評価を与えなかったのも無理からぬことであった。が、今日では学者の態度もようやく変わりつつある。死の現象について心霊学的知識を基礎とした科学的解説が施される日も、そう遠くはないであろう。
そのデービスの記述の中でも最高と思われるものがThe Physicianの中に収められている。これはあらゆる点から見て完璧と思われるので、数ページにわたる全文を紹介しようと思う。
患者は60歳位の女性で、亡くなられる八ヶ月前に私のところへ診察の為に来られた。症状としてはただ元気がない、十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない、ということくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八ヶ月前のことである。もっともその時は、八ヶ月後ということは分からなかった。(霊感によって地上の時間と空間を測るのは私には出来ないことである。)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心密かに、その『死』という、恐ろしくはあるが興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、その為に適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして心身共に入神し易い状態にあった。が、入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。私はそういう場所を探し始めた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。
最早肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が、同時に、各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しているかに見える。すなわち、筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚を保持しようとし、脳組織は知性を維持しようとして懸命になる。つまり、肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死に抵抗を試みるのである。その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる、が、私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応に過ぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。
やがて頭部が急に何やらキメ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が拡がり始めた。大脳も小脳も普段の流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが、見ていると、全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。言い換えれば、脳全体が普段の10倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。
今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。続いて、驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてキメの細かい発光性の電気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を現し始めたのである。念の為に言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることは出来ない。肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いている為に、私はその中身まで透視することは出来ないし、じっと見つめていることすら出来なくなった。この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。すなわち、肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであって、これが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。
表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現の時と全く同じ要領で次々と出現し、奇麗な形を整えていった。こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの[未分化の粒子]とでもいうべき無数の粒子は、[不滅の友情]にも似たある種の親和力を本質的に備えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の中部に潜む親和力の所為である。というのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しく出来た霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官が全ての創造物に共通した性向に従ってその在るべき本来の姿に立ち帰るのだ。
こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最後を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかし実は、それは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜け出て行く時の[反応]にすぎないのであった。
霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部の辺りに垂直に立った。これで六十有余年の長きにわたって続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足元と肉体の頭部とが一本の電気性のコードによって結ばれているのが映った、明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだ、と。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似合った才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。また思った。母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象とは全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。コードはなおも二つの身体をしっかりと繋いでいた。そして、切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐ為であった。
その意味で死体は、完全に腐敗が始まる迄は埋葬すべきではない。たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体と繋がっているからである。事実、完全に死んだと思われた人が数時間、或は数日後に生き返って、その間の楽しい霊界旅行の話をした例があるのである。原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直性、夢遊病、或は恍惚状態と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、或は数時間の間の記憶は滅多に思い出せない。そのために浅薄な人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとする。が、霊的旅行の記憶を持ち帰ることが出来るのは、肉体から完全に離脱し、霊的へその緒、すなわち電気性のコード(電線と呼んでもよい)によって繋がった状態で自由に動き回った時であって、その時は明るく楽しい記憶に満ち満ちている。
かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ目をやると、早速霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとしている様子が見えた。初めは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ち良さそうに吸収するようになった。よく見ると、霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、その他、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。何と素晴らしいことか。決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまった訳ではない。特徴が消え失せた訳でもない。もしも地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、丁度病気で永らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきた時の姿を見て驚くように、「まあ、奥さん、お元気そうですわ。すっかり良くなられましたのね」ーそう叫ぶに違いない。その程度の意味において、霊界の彼女は変わったのである。
彼女は引き続き霊界の新しい要素と高度な感覚に自分を適応させ、馴染ませようと努力していた。もっとも私は彼女の新しい霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全課程に終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者達の止めどもない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。一目見て彼女は、家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今なお生きている霊的真実を知らないからだ、と理解した。
人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。少数の例外は別として、霊覚の未発達の人類、すなわち全てを見通せる能力を持たない現段階の人類、目に見え、手で触れること以外に存在を確信出来ない人類、したがって「死」というものを肉体の現象によってしか理解出来ない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。つまり、人類の大部分は肉体の死が全ての終わりであると思い込んでいる。が、私は、そう思い込んでいる人、或は死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。死に際して本人自身は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でボロボロになって死んでも、或は雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。もしもあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることが出来れば、あなたの直ぐ前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来、「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶべきものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へと生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。祭壇を前にして生身のまま墓地に入る思いをしている時、或は魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの喪服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。
以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。もっともこれが全ての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素に慣れてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降り立って、病める肉体と共に数週間を過ごしたその寝室のドアから出て行った。夏のことなので、全てのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出て行くことが出来た。寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が、我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことが出来るのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。家を出てからほどなくして二人の霊が彼女を出迎えた。そして優しくお互いを確かめ話を交わした後、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来事であることが実感出来なかった。あたかも、いつも登る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間、私は普段の自分に戻っていた。
戻ってみて驚いた。こちらはまた何という違いであろう。美しく若々しい霊姿とはうって変わって、生命の灯の消えた、冷えきった亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。