天保十年、西暦1839年の七月四日のことである。庄屋で酒造家の長男・市次郎が原因不明の熱病にかかった。『普門庵』と名付けられた御霊鎮めの為の観音堂にお参りした時に、いきなり病みついたという。
実は市次郎の家系は代々変死者がよく出るので、気味悪がった父親の伝次郎が元の屋敷を取り壊して現在地に新築し、元の屋敷跡にその普門庵というのを建てたのだった。私も拝観させて頂いたが、大小合わせて三、四十体の観念像が奇麗に祀られていた。
さて、市次郎は寝付いたきり、何人の医者に診てもらっても一向に良くならず、食事らしい食事も取らないので、日に日に痩せ細る一方で、ついにはうわ言を言うようになってきた。そして三週間後には妙な手真似や身振りを始めた。家の者はこれはてっきり狐が取り憑いたと思い、近郷で神道の修法家として名高い宮崎大門に加持祈祷をお願いすることになった。
大門が訪れた時は数名の医者が詰めていて、容体を聞くと、甚だよろしくないとのことだった。髭も髪も伸び放題だった上に頬がすっかりこけ落ちてしまい、さながら餓鬼のような形相をしていたという。
実は市次郎の家系は代々変死者がよく出るので、気味悪がった父親の伝次郎が元の屋敷を取り壊して現在地に新築し、元の屋敷跡にその普門庵というのを建てたのだった。私も拝観させて頂いたが、大小合わせて三、四十体の観念像が奇麗に祀られていた。
さて、市次郎は寝付いたきり、何人の医者に診てもらっても一向に良くならず、食事らしい食事も取らないので、日に日に痩せ細る一方で、ついにはうわ言を言うようになってきた。そして三週間後には妙な手真似や身振りを始めた。家の者はこれはてっきり狐が取り憑いたと思い、近郷で神道の修法家として名高い宮崎大門に加持祈祷をお願いすることになった。
大門が訪れた時は数名の医者が詰めていて、容体を聞くと、甚だよろしくないとのことだった。髭も髪も伸び放題だった上に頬がすっかりこけ落ちてしまい、さながら餓鬼のような形相をしていたという。