アントニオ・B氏は、才能に恵まれた作家であり、多くの人々から尊敬されていた。ロンバルディア地方における名士であり、清廉かつ高潔な態度で公務を果たしてもいた。
 1850年、脳卒中の発作を起こして倒れた。実際には死んでいなかったのだが、人々はー時々あることだがー彼を死んだものと見なした。特に、体中に腐敗の兆候が現れた為に、その思い違いが決定的となったのである。
 埋葬後二週間してから、偶発的な事態から、墓を開くこととなった。娘が大切にしていたロケットを不注意によって棺の中に置き忘れたことが判明したのである。
 しかし、棺が開けられた時、列席者の間に凄まじい衝撃が走った。なんと、故人の体の位置が変わっていたのだ。仰向けに埋葬した体が、うつ伏せになっていたのである。その為、アントニオ・B氏が、生きたまま埋葬されたことが明らかとなった。飢えと絶望に苛まれつつ亡くなったことは間違いなかった。

 家族の申請で、1861年に、パリ霊実在主義協会において招霊されたアントニオ・B氏は、質問に対して次のように答えた。

ー招霊します・・・。
 「何の用事でしょうか?」
ーご家族の要請があってお呼びしました。ご質問にお答え頂けると、大変有り難いのですが。どうぞよろしくお願い致します。
 「よろしい。お答えしましょう」
ー死んだ時の状況を覚えていらっしゃいますか?
 「ええ、覚えていますとも!よく覚えていますよ!しかし、どうして、あの忌まわしいことを思い出させるのですか?」
ーあなたは、間違って、生きたまま埋葬されたのでしたね。
 「ええ。でも無理もなかったのです。というのも、あらゆる兆候から、本当に死んでいるように見えたのですから。体も、完全に血の気を失っていました。実は、生まれる前からああなることに決まっていたのです。したがって、誰も悪くないのです」
ーこうして質問がぶしつけであれば、中止致しますが。
 「続けて結構ですよ」
ーあなたが、現在、幸福かどうかを知りたいのです。というのも、生前、立派な方として多くの人に尊敬されていたからです。
 「ありがとうございます。どうか、私の為に祈ってください。
 では、答えることに致しましょう。精一杯、頑張るつもりですが、上手くいかなかった場合には、あなたの指導霊達が補ってくださることでしょう」
ー生きて埋葬されるというのは、どんな気持ちがするものですか?
 「ああ、本当に苦しいものですよ。棺に閉じ込められて埋葬される!考えてもみてください。真っ暗で、起き上がることも、助けを呼ぶことも出来ない。声を出しても、誰にも届かないのです。そして、直ぐに呼吸も苦しくなってくる・・・。空気がなくなるのです・・・。何という拷問でしょう!こんなことは、他の誰にも体験させたくありません。
 冷酷で残念な人生には、冷酷で残忍な処罰が待っているということなのです・・・。私が何を考えてこんなことを言っているかということは、どうか聞かないでください。ただ、過去を振り返り、未来を漠然とかいま見ているのです」
ー「冷酷な人生には冷酷な処罰が下される」と仰いましたね。しかし、生前のあなたの評判は素晴らしいものだったではないですか。とてもそんなことは考えられません。もし可能なら、ご説明頂けませんか?
 「人間の生命は永遠に続いているのですよ。
 確かに、私は、今回の人生では、善き振る舞いを心掛けました。しかし、それは生まれる間に立てた目標だったのです。
 ああ、どうしても、私の辛い過去について話さなくてはならないのでしょうか?私の過去は、私と高級霊しか知らないのですが・・・。
 どうしても話せというのなら、仕方がない、お話しましょう。私は、実は、今回よりも一つ前の転生において、妻を生きたまま狭い地下倉に閉じ込めて殺したことがあるのです。その為に、今回の人生で、同じ状況を引き受けたということなのです。[目には目を、歯には歯を]ということです」
ーご質問にお答えくださり、本当に有り難うございました。今回の人生に免じて、過去の罪を許してくださるように、神にお祈り致しましょう。
 「また来ます。エラスト霊がもう少し説明したいようです」

 霊媒の指導霊であるエラストからのメッセージ:「このケースから引き出すべき教訓は、『地上における全ての人生が相互に関連している』ということでしょう。心配、悩み、苦労といったものは、全て、まずいことを行った、或は、正しく過ごさなかった過去世の結果であると言えるのです。
 しかし、これは言っておかなければなりませんが、このアントニオ・B氏のような、ああした亡くなり方は、そんなに多く見られるわけではありません。彼が、何一つ非難すべきことのない人生を終えるにあたって、ああいう死に方を選んだのは、死後の迷いの時期を短縮して、なるべく早く、高い世界に還る為だったのです。
 事実、彼の犯した恐るべき罰を償う為の、混乱と苦しみの期間を経た後に、初めて彼は許され、より高い世界に昇っていくことが出来たのです。そして、そこで、彼を待っている犠牲者ーつまり、奥さんのことですがーと再会を果たしたのです。奥さんは、既に彼のことは随分前から許しています。
 ですから、どうかこの残酷な例によく学んで、あなた方の肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、さらには人生のあらゆる細々とした苦しみを、辛抱強く耐え忍ぶようにしてください」
ーこうした処罰の例から、人類はどんな教訓を引き出せばよいのでしょうか?
 「処罰は、人類全体を進化させる為に行われるのではなくて、あくまでも、罪を犯した個人を罰する為に行われるのです。実際、人類全体は、個人個人が苦しむこととは何の関係もありません。罰は、過ちに対して向けられるものだからです。
 どうして狂人がいるのか?どうして愚かな人間が存在するのか?どうして、死に際して、生きることも死ぬことも出来ずに、長い間断末魔の苦しみに晒される人がいるのか?
 どうか、私の言うことを信じ、神の意志を尊重し、あらゆることに神の思いを見るようにしてください。よろしいですか?神は正義です。そして、全てのことを、正義に基づいて、過つことなくなさるのです」

 この例から、我々は、偉大な、そして恐るべき教訓を引き出すことが出来る。それは、「神の正義は、一つの例外もなく、必ず罪人に裁きを下す」ということである。
 その時期が遅れることはあっても、断罪を免れるということは有り得ない。大犯罪人達が、時には地上の財物への執着を放棄して、心静かに晩年を送っていたとしても、償いの時は、遅かれ早かれ、必ずやってくるということなのだ。
 この種の罰は、現実にこうして目の前に見せられることで納得出来るものとなるが、それだけではなくて、完全な論理性を備えているが故に、また理解し易くもあるのだと言えよう。理性に適ったものであるが故に信じることが出来るのだ。
 尊敬すべき立派な人生を送ったからといって、それだけで全てを償うことが出来、厳しい試練を免れることが出来るとは限らない。償いを完全に果たす為には、ある種の過酷な試練を自ら選び、受け入れなければならないこともあるのだ。それらは、いわば、借金の端数であって、それらをしっかり払い切ってこそ、進歩という結果が得られるのである。
 過去幾世紀にもわたって、最も教養のある、最も身分の高い人々が、正視に堪えない残虐な行為を繰り返してきた。数多くの王達が、同胞の命を弄び、権力をふるって無辜の民を虐殺してきた。
 今日、我々と共に生きている人間の中に、こうした過去を清算しなければならない人々が沢山いたとしても、何の不思議があるだろうか?個別の事故で亡くなったり、大きな災害に巻き込まれて亡くなったりと、数多くの人々が亡くなっているのも、別に不思議なことではないのかもしれない。
 中世、そして、その後の数世紀の間に、独裁政治、狂信、無知、傲慢、偏見等が原因で、数多くの罪が犯された。それらは、現在そして未来への膨大な量の借金となっているはずである。それらは、いずれにしても返されなければならない。
 多くの不幸が不当なものに見えるのは、今という瞬間しか視野に入らないからなのである。