この女性は、ツールーズの近くの小作農の家に生まれ、生まれつき目が見えなかった。1855年に四十五歳で亡くなった。
 初の聖体拝領[カトリック教会のミサで、聖体(キリストの体と血を表すパンとワイン)を受けること。また、その儀式]を受ける子供達に教理を教える仕事をずっと続けていたが、教理が変更されても、何の支障もなく教えることが出来た。新旧の教理を完全に暗記していたからである。
 冬のある日、伯母と二人で遠出をした帰り、日の暮れ始めた森の中を通って帰ることになった。その道は、ぬかるんだ酷い道で、しかも溝に沿っていたので、充分に注意して歩かねば溝に落ちる危険があった。
 伯母が手を引こうとすると、彼女はこう言った。
 「私のことは気にしないでください、落ちる危険はありませんから。肩のところに光が降りてきて、私を導いてくれるのです。ですから、心配なさらずに、むしろ私の後について歩いてください。私が先に歩きましょう」
 こうして、事故もなく、無事に家に帰り着いた。目の見えない人が、目の見える人を導いたのである。

 1865年に招霊が行われた。

 ー遠出の帰り道にあなたを導いた光について、説明して頂けませんか?あれは、あなたにしか見えなかったのですか?
 「なんですって?あなたのように、常時、霊とコンタクトをとっている方が、そんなことの説明を必要とするのですか?私の守護霊に決まっているではありませんか」
ー私もそのように思っておりました。しかし、確かめたかったのですよ。あの当時既に、それが守護霊であると分かっていたのですか?
 「いいえ、後で分かったのです。とはいえ、私は天上界の加護があることを確信していました。私は、とても長い間、神様にー善なる神様、寛大なる神様にーお祈りしたものです・・・。
 ああ、目が見えないということは、本当に辛いものですよ!・・・。そう、本当に。でも、それが正義であると知りました。目で罪を犯した者は、目で償わなければならないのです。これは、人間が与えられている全ての能力についてそう言えます。折角恵まれた能力を間違って使うとそうなるのです。
 ですから、人間達を苦しめる多くの不幸について、因果律に基づく当然の原因以外の原因を探す必要はないのです。そう、それは償いなのです。しかし、その償いは、素直に受け止めて実践しないと、償いになりません。
 また、お祈りによって、その苦しみを和らげることも可能です。というのも、お祈りに天使達が感応して、地上という牢獄にいる罪人を守ってくれるからです。悩み、苦しむ罪人に、希望と慰めを与えてくれるのです」
ーあなたは、貧しい子供達の宗教教育に打ち込まれました。そして、目が見えないにもかかわらず、教理を全て暗記しました。どうしてそのようなことが可能だったのですか?
 「『一般に、目が見えない人間は、他の感覚が二倍強くなる』と言えば分かって頂けるでしょうか。彼らの記憶力は非常に強く、自分の好きな分野の知識を、まるで整理棚の引き出しに入れるようにして楽々と記憶出来るのです。そして、一旦記憶された知識は決して消えることがありません。外部のどんな要素も、この能力を阻害することは出来ず、また、訓練によって、この能力はどんどん伸びます。
 しかし、私は例外に属していました。というのも、私はそうした訓練を受けたことがなかったからです。子供達に尽くす為に、神様がその能力を私に与えてくださったことに対しては、もう感謝するしかありません。
 ただ、それはまた、私が前世で作った罪に対する償いでもあったのです。というのも、私は、前世では、子供達に対して悪いお手本となってしまったからなのです。
 こうしたお話は、霊実在主義者にとっては、真面目な探求の主題になりますね」
ーあなたのお話をお聞きしていると、あなたが相当進んだ魂だということが分かります。また、あなたの地上での行動は、精神的な卓越性を証明するものだということが感じられます。
 「いいえ、私はまだまだ至らない存在で、勉強しなければならないことが山のようにあります。
 ただ、地上では、その知性が償いの為のヴェールをかぶっている為に、それほど知的だとは思われない人々が多くいることも事実なのです。しかし、死によってそのヴェールが剥ぎ取られると、実は、そうした人々は、彼らを軽蔑していた人間達よりも遥かに知性が高かった、という事実が判明することがしばしばあるのです。
 よろしいですか。傲慢というのは、試金石みたいなもので、傲慢かどうかを見れば、その人がどんな人であるか分かるのです。お世辞に弱い人、自分の知識を鼻にかける人は、大体間違った道にいます。彼らはおしなべて誠実さを欠きます。そうした人々には注意なさい。
 キリストのように謙虚であってください。キリストのように、愛と共に十字架を負い、やがては天の御国に還るのです」