『私の体が死んだ後に、こういうことが起こったのです。私が思っていたのとは違って、私は死んでも死ななかったのですよ。ようやく苦しみが終わると思っていたところが、実際には、筆舌に尽くし難い苦しみが、まさにその時から始まったのです』
 これを聞いて、崖から落ちる前に止まる人も出てくるでしょう。こんなふうにして、誰かが犯罪を犯すのを防げば、それが私にとっては一つの功徳となり、罪を償ったことになるのです。
 こんなふうにして、悪から善が生じ、神の善が、あらゆるところにー地上においても、霊界においてもー出現することになるのです。
 こうして、あなた方とコンタクトを取っている間は、私は、自分が殺した人々の姿を見ずにいられます。しかし、これが終われば、また再び彼らの姿を見なければなりません。そのことを考えるだけでも、言いようのない苦悩に襲われます。こうして招霊して頂くと、その間だけでも地獄から逃れ出ることが出来るので、幸せなのです。
 いつも私の為にお祈りをしてください。私が犠牲者達の姿を見ないで済むように、どうか神様にお願いしてください。
 はい、一緒に祈りましょう。お祈りの効果は本当に素晴らしいものです。とても楽になります。私を押し潰そうとする重い荷物が軽く感じられるようになるのです。私の目に希望の光が宿り、悔い改めの気持ちが強くなるのです。そして、私は次のように叫ぶのです。『神の手に祝福あれ!神の願いが成就されますように!』と」
ー殺した人々を見なくても済むようにお願いするのではなく、「彼らの姿を見るという償いに耐えられるだけの力を与えてください」と、一緒に祈りましょう。
「犠牲者の姿を見ないで済ませられたら、やはり、そちらの方がよいのです。私が、そのことで、どれ位苦しんでいるか分かりますか?どれほど鈍感な人間でも、私の魂の苦しみが、私の表情に刻まれている様を見れば、心を打たれることでしょう。
 でも、私はあなたが忠告してくださった通りにしましょう。『その方が、過ちを早く償うことになる』ということが分かるからです。それは、病んだ体を健康にする為に、苦しい手術を受けるようなものです。
 ああ、もしも地上の罪人達が私の姿を見られたならば!そうすれば、彼らは、その犯罪の結果として、どれほど恐ろしいことが待っているかが分かるでしょうに!
 人間の目はごまかせても、神様の目は絶対にごまかせないのです。無知ほど恐ろしいものはありません!
 霊実在主義協会の教室で学ぶことを拒否する人々は、一体どのようにして責任を負うのでしょうか?彼らは、警察と法律さえあれば、犯罪は防げると思っているのです。何という思い違いでしょうか!」

「私が被っている苦しみは、本当に恐ろしいものです。でも、あなたがお祈りしてくださって以来、私は天使達の援助を受け、『希望を持つように』と励まされています。あなたが忠告してくれた英雄的な方法が効果的であることを、私は理解しましたので、神様に、償いに耐える力を与えてくださるようにお願いしています。
 私は、もう、自分が犯した重罪に対して、言い訳をしようとは思いません。
 神父達は、神に見放された者達が感じることになる苦しみについて、さも恐ろしげに語りますが、愛と慈悲に満ちた神の法を犯した子供達に対して、神が正義に基づいて科すことになる真の苦しみについては、殆ど何も理解していないように思われます。
 理性を少しでも備えた者ならば、『魂という、物質ではない何ものかが、火という物質のせいで苦しむ』などということは、到底信じられるものではありません。そんなこと実に馬鹿げています。だからこそ、殆どの犯罪者は、『地獄など、おとぎ話に過ぎない』と言って鼻先で笑うのです。
 しかし、肉体的な死の後で魂が被ることになる精神的な苦しみについては、同列に扱うわけにはいきません。
 どうか、『絶望にのみ込まれないように』と、私の為に祈ってください」

「到達すべき目標をかいま見せてくださったことに、お礼申し上げます。『私の浄化が進めば、この栄えある目標に到達出来る』という確信を持つことが出来ました。
 私は今非常に苦しんでいますが、それでも、この苦しみが和らいできていることは事実です。霊界では、苦しみに慣れたからといって、苦しみが和らぐとは思われません。そんなことはないのです。あなたのお祈りが、私の力を強くしてくれました。苦しみが同じだとしても、私の力が強くなったので、苦しみが、その分だけ弱くなったように感じられるのでしょう。
 私の考えは、直前の転生のことに向かいます。『私が、祈ることを知っていたならば、多くの過ちを避けることが出来たであろうに』と 思うのです。ようやく祈りの力を理解することが出来るようになりました。
 また、『誠実で敬虔な女性こそが強い』ということも分かるようになりました。彼女達は、肉体的にはか弱いのですが、信仰あるが故に、精神的には非常に強いのです。地上の似非学者達が理解出来ない、この神秘が、私には分かるようになったのです。
 ああ、信仰!この言葉を聞いただけで、反抗的な似非学者達は、あざ笑います。けれども、彼らが、いずれ霊界に還ってきて、彼らに真理を見えなくしていたヴェールを剥がれた時に、馬鹿にしていた永遠なる神の前に跪くのは彼らなのです。彼らは、自らの小さな罪と大いなる罪を、謙虚に白状せざるを得なくなるでしょう。その時に、祈りの力というものを知るのです。
 祈り、それは愛することです。愛、それは祈りです。したがって、彼らは主を愛し、主に対して愛と感謝の祈りを捧げるでしょう。
 苦しみを通して再生しーというのも、必ず苦しむことになるからですがー、私と同じように、『償いと苦しみに耐える力を与えたまえ』と祈ることになるでしょう。そして、苦しみを通り抜けた暁には、許してくださった主に対してー彼らは、その時には、素直さと諦念によって、許しを受けるに相応しい霊となっているはずですがー、感謝の祈りを捧げることになるのです。
 一緒に祈ってください、兄弟よ。私をもっと強くしてほしいのです。
 ああ、ありがとう、兄弟よ。温かい心を本当にありがとう。私はやっと許されました。神は、ついに犠牲者達を見なくても済むようにしてくださいました。
 ああ、神よ、私にお与えくださった恩寵ゆえに、あなたが永遠に祝福されますように!
 ああ、神よ、私は自分のとてつもない罪深さを感じ、全能なるあなたの前で消え入りそうです。
 主よ、私はあなたを全身全霊で愛しております。あなたが再び私を地上に送り出してくださる時は、『私が、安らぎと思いやりの使節として、あなたの御名を敬愛の心と共に唱えることを、子供達に教える』という使命をお与えください。
 ああ、ああ、ありがとうございます。ありがとうございます、神よ!私はようやく悔い改めることが出来ました。心より悔い改めたのです。神よ、私はあなたを愛しています。あれ程汚れていた私の心も、あなたの神聖さから発せられる、この純粋な思いを、理解出来るようになりました。
 兄弟よ、一緒に祈りましょう。私の心は感謝で一杯です。鎖を断ち切って、私はついに自由になりました!もう神から見放された者ではありません。まだ苦しんではいますが、でも、悔い改めています。
 この私の例を見て、犯罪を犯そうとして振り上げられた手が静かに下ろされるのであれば、どんなに嬉しいことでしょうか。兄弟達よ、悪いことは止めなさい!犯罪を行ってはなりません。というのも、その後の償いは非常に過酷なものとなるからです。神は、罪人の祈りをそれ程すぐには聞いてくれません。何世紀も拷問に苦しむことになるのですよ」

 霊媒の指導霊からのメッセージ:「あなたには、この霊の言うことが、よく分からなかったようですね。彼の感情と、主への感謝の気持ちを、理解してあげるようにしなさい。彼は、『これから犯罪を犯そうと思っている者達に、犯罪を思い留まらせること以上に、神への感謝の思いを表す方法はない』と思っているのです。彼は、自分の言葉が、犯罪の手前にいる人々に届くことを願っています。
 そして、これは、彼自身もまだ知らないので、あなたにも言いませんでしたが、彼が、人々に償いを促す使命を開始することが許されたのです。彼は、これから、共犯者達の所に行き、彼らが悔い改められるようにとインスピレーションを与え、彼らの心の中に悔悟の種を蒔こうとしています。
 地上では、時々、誰からも正直だと思われていた人が、司祭のもとに罪を告白しにやってくることがあります。これは、悔悟の思いにとらわれたからです。
 もし、霊界とあなた方を隔てているヴェールが取り払われたなら、地上では犯罪者だった者達の霊が、しばしば地上に戻ってきて、丁度、ラトゥールの霊が、これからするであろうように、自らの罪を償う為に、地上に生きている人々に悔悟の念を吹き込もうとしているのが、見えるはずなのです」

 ラトゥールの最初のメッセージを受け取ったブリュッセルの霊媒が、暫く後に、また次のメッセージを受け取った。

「私のことは、もう何も心配しないでください。大分落ち着いてきましたから。
 でも、まだ苦しんでいるのは事実です。神は、私が悔い改めているのをご覧になって、私に哀れみをかけてくださいました。現在では、私は、悔い改めの結果気づいた自分の罪の重大さ故に苦しんでいます。
 私が、もし、地上において、もっとしっかり教育されていれば、あのような犯罪を犯さずに済んだかもしれません。しかし、実際には、私は本能を抑えることが出来ず、あのようなことをしてしまいました。もし、地上の人間達が、もっと神のことを思えば、或は、少なくとも神を信じさえすれば、もっと犯罪は少なくなるはずなのです。
 しかし、人間心による正義は上手く機能していません。
 過ちを犯すとー時として、それが軽いものであってもー牢獄に入れられます。ところが、牢獄が、実は邪悪の横行する破滅の場所なのです。そこから出てくる時には、悪しき忠告と悪しき例によって、完全に理性を失っているのです。
 芯が強いおかげで、そうした悪に染まらずに牢獄から出てこられたとしても、あらゆる扉は閉ざされており、あらゆる手は引っ込められるのです。全うな人々は彼を拒絶します。そんな人間に何が出来るでしょうか?あるのは、軽蔑、悲惨のみ。仮に、『善に戻ろう』と決心したところで、人々から打ち捨てられ、絶望するしかないのです。
 悲惨な人間は、どんなことでもするでしょう。彼自身、人々を軽蔑し、憎み、そして、善悪を区別する心を失っていくのです。折角、真っ当な人間になろうとしたのに、皆から拒絶されたのですから、それも当然と言えるでしょう。生きる為に、彼は、盗み、時には人を殺しさえします。そして、ギロチン送りです!
 神よ、私が再び幻覚に襲われそうになると、あなたの御手が私の方に差し伸べられます。あなたの思いやりが私を包み込み、そして、私は守られるのです。ああ、神よ、ありがとうございます。
 次の転生の時には、私は、知性と財産を使って、人生に敗北した不幸な人々を救い、彼らを転落から守ろうと思います。
 兄弟よ、ありがとう。あなたは快く私の通信を受け取ってくれました。もう心配しないでください。もう私は悪から解放されました。これから私のことを思ってくださる時は、どうか、凶悪な顔をした私ではなく、あなたの寛大さに感謝し、恐縮している私を思い浮かべて頂きたいものです。
 では、これで。また招霊してください。そして、私の為に神に祈ってください」

 この通信に収められた言葉のうち、あるものに関しては、その深さと広がりを充分に捉え切れないかもしれない。この通信は、厳罰を受けている霊達の世界の一端をかいま見せてくれるが、それ以上に、神の深い思いやりを感じさせてくれる。
 この霊が立ち直っていく速さには、いささか、戸惑いを感じる程である。他の霊でも見たように、傲慢な霊、或は偽善的な霊よりも、荒々しい霊の方が可能性を秘めているということだろうか。この素早い立ち直りを見ると、この霊は、邪悪というよりも、野性的だったにすぎず、正しい方向付けが欠けていただけだったということがよく分かる。
 この霊の言葉遣いと、「光による懲罰」というテーマで次に登場する犯罪者の言葉遣いを比べてみれば、教育も、育った環境も異なる二人のうち、どちらが精神的に進んでいるかは、直ちに分かるだろう。
 前者は、獰猛な本能、一種の狂熱に従っただけであるのに対し、後者は、落ち着いて、極めて冷静に犯罪を遂行しているのであって、死んだ後も、傲慢に対する罰を平然として拒否している。苦しんでいるにもかかわらず、改心しようとしないのだ。どちらが長い間苦しむことになるかは一目瞭然であろう。
 「私は、悔い改めの結果気づいた自分の罪の重大さ故に苦しんでいます」とラトゥールは言っているが、ここには深い思いが窺われる。霊は、悔い改めを始めるまでは、自分の犯した罪の重大さを理解することは出来ない。悔い改めは、苦悩に満ちた悔悟の情を呼び起こし、そのことによって、霊は、悪から善へ、心の病から心の健康へと至れるわけである。
 しかし、丁度、病人が、自分を治してくれるはずの治療を拒むことがあるように、よこしまな霊が、良心の声に、頑に抵抗することがある。「そのことこそが悔悟を遅らせる」ということが分からないのだ。そうして、幻想を作り上げ、自らを欺いて、悪の中に留まり続けることになる。
 ラトゥールの場合、頑な態度がようやく終わりを見せ、悔悟の思いが心の中に生じたのである。悔い改めが可能となり、自分のなした悪の意味を理解するに至る。自らのおぞましさに気がつき、そのことで苦しむ。だからこそ、「自分の罪の重大さ故に苦しんでいます」と言ったわけである。
 今回の転生の前の転生では、彼は、もっと酷い生き方をしたに違いない。もし、その時、今日のような悔い改めが出来ていれば、彼の人生は、もっとマシなものになっていたはずだからである。
 このたび決意したことによって、彼の未来の転生は、大きな影響を受けるだろう。その意味では、今回の、おぞましいとも言える彼の人生は、進化へのワン・ステップになっているわけである。
「過去世で自分がどんな人間だったのか、何をしたのかを思い出せない以上、そうした過去世から教訓を引き出すことは、出来ないではないか」と言う人は多い。
 しかし、この問題は、次のように考えればよいのである。
 我々が犯した悪が、既に消し去られ、心の中に、いかなる痕跡も残っていない場合には、それは、既に解決したということなのだから、思い出す必要もなければ、それに取り組む必要もない。もし、完全に解決していない問題があるのであれば、それは、我々の現在の心の傾向性として表れているはずである。とすれば、全ての意識をそこに投入して、それを改善しようとすればよいわけである。
 我々がどんな人間であったかを知る必要はない。我々がどんな人間であるかを知れば充分なのである。
「一つの生涯だけでは、過去世で犯した罪の償いが、なかなか終了しない」ということ、また、「その罪が、どれほどの非難の的になるか」ということを考えるならば、神が、その過去にヴェールをかけてくださるというのは、実は大変ありがたいことなのである。
 もし、ラトゥールの過去世での行いが、社会に対して明らかにされていたとすれば、彼が有罪になろうと無罪になろうと、いずれにしても、社会から締め出されていただろう。仮に彼が悔い改めたとしても、人々は、密かに彼を許さずにいたはずである。
 彼が、現在、霊として表明している気持ちを見れば、彼は、次の転生では、きっと、正直な人間として、みんなから尊敬されるようになるだろうと考えられる。しかし、その時に、彼が直前の転生で大犯罪人のラトゥールであったということが明らかにされたとすれば、人々は彼を非難するに違いない。
 したがって、過去に被せられたヴェールが、むしろ、彼に立ち直りの扉を開くことになるのである。過去が隠されているからこそ、彼は、最も正直な人間と一緒にいても恥を感じずに済むのである。
 人生の忌まわしい数年間を消し去りたいと思っている人は、どれ程いることだろうか! 
 こうした考え方以上に、神の正義と善意に適う理論はあるだろうか?
 しかも、これは単なる机上の空論ではない。確かな観察から導き出されたものであって、我々が勝手に作り上げたものではないのである。霊が招霊に応じて語ってくれた、様々な状況を、詳細に観察し、それをいかにすれば合理的に説明出来るかを考えた結果、その説明が理論としてまとめられたものなのである。
 それを認めるのは、それが事実から周到に導き出されたものであるからに他ならないし、死後の魂の行き先に関して、これ以上、合理的な考え方は見つからないからなのである。
 霊界通信には、高い内容の教えが含まれていることが多い。通信を送ってきた霊達は、思考の進め方や、それをどう表現するかといった点に関し、高級霊達の支援を受けている。しかし、その場合でも、高級霊達は、あくまでも形式面で援助しているにすぎず、内容にまでは立ち入っていない。 未熟な霊達に、自分の考えではないことを言わせたりはいないのである。
 ラトゥールの例でも、高級霊達は、 悔い改めの様子を「詩的に」表現するのを手伝ったかもしれないが、「彼がそうしたくもないのに、悔い改めを強制した」という事実はない。人間と同様、霊にも自由意志があるからである。
 彼らは、ラトゥールの心の中に、よき感情の芽生えがあるのを見て取り、彼に、それを表現するように促した。そうすることによって、その感情が育つのを助け、そして同時に、彼に同情の念が集まるようにしたのである。
 自らの罪を悔い改め、絶望と後悔を表明する大犯罪人以上に、心を揺さぶる姿があるだろうか?これ以上に、教訓となる、印象的な例があるだろうか?自らが殺めた人々の視線に刺し貫かれ、拷問に苦しむ中、彼は、思いを神の方に向け、神の慈悲を乞うたのである。これほど、罪人の希望となる例があるだろうか?
 我々には彼の苦悩の性質が分かる。それは、合理的なものであり、恐ろしく、かつまた単純であって、そこには何の演出も施されていない。
 人は、ラトゥールのような人間に、あれほど大きな変化が生じたことに、驚くかもしれない。だが、どうして、もっと早く彼は悔い改めることが出来なかったのか?彼には心の琴線はないのだろうか?罪を犯したら、ずっと悪に留まる他ないのだろうか?光が心に射してくる瞬間はないのだろうか?その瞬間は、ラトゥールには、やってきた。これこそが、まさに霊界通信が持つ教訓的な側面なのである。
 彼は、自分の置かれた状況を見事に理解した。そして、後悔し、償いの計画を立てた。これは実に教訓的なことである。
 死ぬ前に彼が素直に悔い改めた方がよかったのだろうか?死んでから言ったことを、生前に言った方が素晴らしかったのだろうか?だが、そんな例なら、いくらでもある。
 死を前にして悔い改める姿は、凶悪な犯罪者達にとっては、弱さの表れとしか見えないはずである。それに対し、死後の声は、何が彼らを待っているかをはっきりと示す。「私の例は、地獄の火を見るよりも、死刑台を見るよりも、罪人を改心させる力を持っているだろう」とラトゥールが言う時、この言葉には真実がこもっている。
 ならば、牢獄にいる罪人達に、この例を知らせるべきではないだろうか?この話を聞いて、既に、何人もの人間が実際に改心しているのである。
 だが、「死ねば、全てはおしまい」と考えている人間に、どうして死者の言葉が信じられるだろうか?もっとも、遅かれ早かれ、人は、必ず死後の世界を知ることになっている。そして、「死後の世界からこの世に、メッセージを携えて戻ることも出来る」ということを知るのである。
 この霊界通信からは、他にも重要な教訓を引き出すことが出来る。
 それは、「単に悔い改めただけでは、高い世界には還れない」という、永遠の正義の原理である。悔い改めは、神の慈悲を呼び寄せることの出来る、回復に向けての第一歩にすぎないということである。許しへの前奏曲、苦しみの短縮への前奏曲にすぎないのだ。しかも、神が、故なくして許すということは有り得ない。神に許されるには、償い、すなわち罪滅ぼしが必要なのである。
 これをラトゥールは理解し、そして、それに備えた。