そうした地上生活での指導とは別に、私の背後霊は霊視力によって色々と教訓を授けてくれており、それが私の人生のあらゆる面でよきアドバイスとなり、なるほどと思わせられることが多い。その背後霊達の容貌や霊格の程度については他の霊視能力者を通じて納得のいく叙述を得ており、私は『はたして神のものか否か、霊を試せよ』との聖書の忠告をいながらにして実行しているわけである。
 背後霊が私を首尾よく霊界旅行へ案内出来ている原因は、一つにはその背後霊に対する私の全幅の信頼感があると信じている。無論その信頼感は表面的なものであってはならず、絶対的なものでなければならない。なぜなら、物的精神に印象づけられたものは自動的に霊的精神にまで印象づけられるからである。 霊界における思念の影響の大きさを考えれば、万一心の奥に不信の念を宿すと意識的離脱はどうなるか、とても保証は出来ない。霊界でも自由意志が大原則であり、幽体はその念の為に肉体に縛り付けられているのである。
 書物を探す時でも指導してくれたことがある。ある時世界の宗教について研究していて図書館へ行ってみた時、何となく霊感を得て、普通なら気がつきそうにない場所から一冊の本を取り出した。それは特別どの宗教を取り扱ったものでもなく、古い中国の本の英訳本で、霊的発達について師が弟子に与えた教訓だった。その教訓が現代のスピリチュアリズムの教訓と完全に一致していることに非常に興味を覚えた。
 その中に『霊的旅行』と題するイラストがあった。修行僧が結跏趺坐(けっかふざ)し、その上方に同じ人物の小さな像が描かれ、両者が細い紐で繋がっている。私の背後に中国人の霊がいることは知っていたが、そのイラストはこれといって私に格別の意味のあるものではなかった。
 第一、両脚を交差させて座るという姿勢はおよそ私には真似の出来るものではない。私はベッドに横になるか、居心地良い椅子に腰掛けるかして、完全に楽な姿勢でなければならない。なぜかというと、離脱に際して私は肉体感覚をすっかり失うように努めるので、少しでも不快な感覚があるとその状態が達成出来ないのである。先に交霊会の席で座り心地の悪い椅子の中で離脱した話をしたが、あのようなことはあれ一度きりで、私も驚いたほどである。今思うとあれは一つの証拠として、前の席にいた霊視能力者に見せる為だったようである。いずれにせよ長続きはしなかった。
 先に私は、多くの人が睡眠中に霊界旅行を体験していてそれを思い出せないだけだと述べたが、次のような訓練をすればそれを思い出す糸口になることが、私自信の体験で分かった。それは、朝目を覚ますと同時に精神を統一して記憶を遡ってみることである。
 難しいのは精神を統一することである。私の場合、それが上手くいくと睡眠中の体験を包み込んだオーラが身体を取り囲んでいるのを感じる。物的精神によっても感触が得られる程である。物的精神と霊的精神との間はゴースのような繊細な糸で結ばれており、ちょっとした精神の乱れでそれが切れてしまう。一旦切れてしまうと、もはや回想不可能となってしまうので厄介である。
 もう一つのちょっとした訓練も、私自身がやってみてとても効果的であることが分かっている。それは、日中に何か変わった出来事が起きたり、或は変わった光景を見たりした時はー例えばトラックが得たいの知れないものを積んでいるといったことでもよいー今見た光景は地上のことだろうか、それとも霊界のことだろうか、一体自分は本当にそこに居合わせたのだろうかと自問してみることである。
 こうした訓練が内部へ向けての意識を開発するのである。これは根気よく続けて一つの習慣にしてしまわないといけない。そうなると霊界へ入った際にその意識が表面へ出て来るのである。
 ご承知のとおり私の最大の願望は妻と会って一緒に霊界を探訪することである。そしてそれが二つとも叶えられた。私の場合、肉体から脱け出る際に自分の肉体や魂の緒を一度も見たことがない。それは脱け出る際に極度に受け身の精神となって雑念や辺りの光景を故意に無視しているからである。旅行中も同じ精神状態を保ち続ける。その状態は背後霊が私を各地へ連れて回る上で都合がよいはずである。というのは、霊的活動は全てが思念と同じ作用であり、私の雑念によって離脱が邪魔されたくないのである。そのせいか、本格的に霊界旅行をするようになってまだ一度も途中で中止されたことがない。
 予定した目的地にもきちんと到着し、すぐに指導霊がそこの特殊な霊的状態について教えてくれた。背後霊団には私の霊界研究に関してきちんとした予定表が出来ていたようで、当然のことながら私に見せられるのは、地上の教育でも同じだが、その特徴をよく示している、言わば極端な例が多かった。