そんで、神奈川県に帰ってきて、最初の一ヶ月くらいは祖父母の家にいましたが、それから両親の家に来ました。でも、その時には、もう俺が高校生まで使っていた部屋は、妹が使っていたのでした。なぜなら、俺が実家にいた時は、妹は二人で一部屋を使っていたのですが、俺が岐阜に行ってからは、俺の部屋が空いたので、俺の部屋が使われていたからです。だから、俺は一階の居間で寝泊まりしていました。

 こんな状況ですが、本当に精神は最悪で、でもこんな状況なので、どうにかしないといけなくて・・・という八方塞がりな状況でした。しかし、俺の借金のことなど少しも知らない父親は、もう一度、人生やり直せと、専門学校への入学を勧めてきました。それで、以前から俺は美術が好きで、美術系の専門学校のパンフレットを見せて、ここがいいと言ったのですが、そんなところに行っても就職先がないから駄目だと却下されました。それで、介護の仕事なら仕事にあぶれないからと、半ば無理矢理、というか弱っていた俺に対して、かなり強引に、そっち方面へ連れて行かれました。
 俺は、介護なんてヤダと思ったのですが、しかしその時は、お金もないし、生きる気力も仕事する気力もないしで、それに従うしかありませんでした。今の俺なら、どこか給料の良い仕事を探して、働いてなんとか出来るかもしれないが、その時はもう、周囲の流れに従うしか、ギリギリの精神状態だったから、仕方なかったのだ。
 それで、俺は近くの介護系の専門学校を受験して、受かったので、四月から行くことになりました。ちなみに、その前年の五月に仕事を止めて、九月頃まで借金生活の無職で、それから神奈川に帰って、祖父母の家にいたり、実家にいました。しかし、ずっと実家の居間に居続けることは不可能なので、親が、その専門学校の近くのアパートを借りてくれて、生活費、賃料、自動車の維持費とか、全部出してくれました。借金の返済の方は、祖父母から毎月貰う6万円くらいの小遣いと、両親から貰う毎月の生活費8万円くらいがありましたので、それでなんとか凌いでいました。だから、無借金なら、かなりリッチなのに、それも殆ど、借金の返済に消えました。しかも、クレジットカードもサラ金も、グレーゾーン金利が29%で、借入金が、クレカ(ショッピングとキャッシングの合計)170万円、サラ金97万円位の、ほぼ満額借入状態だったので、毎月決められた最低返済額を返済し続けても、完済までは気の遠くなるような年月がかかりそうでした。 しかも、速聴の35600円のローンもあるし。だから、本当は、専門学校でちゃんと勉強できるような精神状態でも経済状態でもなかったのだ。だって、常にこんな重たい借金という不安を抱えながら、フレッシュな18歳やそこらの子達の中で、勉強できないでしょ。

 バイトも、しようとは思いませんでした。というのも、俺は生来呑気な性格で、バイトを出来る精神状態ではなかったということもありましたが、それでもやろうと思えば出来たはずです。しかしやらなかった理由は、やはり祖父母からの収入と、両親からの収入でなんとかやり繰り出来ていたので、それで安心してしまい、それ以上の努力はしようとはしませんでした。勿論、バイトをして、借金の返済をどんどん加速させないと、いつまで経っても、この借金地獄から抜け出すことは不可能なのです。なのに、俺は毎月の最低返済額のみで満足というか、とりあえず安心してしまい、本当に危機感ゼロでした。そのくせ、その借金のせいで、精神状態は常に不安定だったのです。
 俺の祖父母は、祖父は建設省で働いていた人だし、祖母はお針の、着物を縫う仕事を、俺が小さな時までしていたので、その貯金がありました。だから、毎月、そんなに貰えていたのです。あと、両親も、けっこう大きくて安定している勤め先に勤務していたので、けっこう収入がありました。まぁ、だから、金銭面でこんなに甘やかされて、結果、金銭の管理能力がない人物になってしまったのかもしれません。それと、俺の前世から引きずる性質も、関係あったでしょう。俺の前世の人物が、もっとちゃんとした人だったならば、こんな事態は避けられていたでしょうから。
 
 そんな状態で、四月に入学しました。けど、案の定、そんな精神不安定な状態で勉強などまともに出来るはずもなく、未来に希望を抱いているフレッシュな人達の傍らで、俺はなんだか情緒不安定でした。そりゃそうです。自分だけ、莫大な借金を背負って、しかもそれを誰とも共有せずに、ひっそりと秘密として抱え込んでいたのですから。
 で、結局、入学してから六ヶ月後くらいに、とうとう、何らかの精神不安定な状況から、俺の莫大な借金が両親にバレました。そこからは、そんな金利ばかり返済しているようなやり方では、全然何も解決しないということで、両親が、クレカとサラ金の借金は全額一括返済してくれました。しかし、ローンの方は、俺が完済まで、自分で返済していくことになりました。ちなみに、そのクレカとサラ金の返済分は、俺の、両親に対する借金ということで、将来、少しずつ返済していくことになっていたのですが、未だに一円も返済できていません。というのも、今でも俺は、自分一人が生きていくのが精一杯だし、まだあまり、精神的に進歩もしていないからです。ま、ずっと年収200万円台の低空飛行なもので。
 いや、そりゃ、ものすごい剣幕で怒られました。皆さんは、俺の人生を今まで読んできて、本当に人間のクズだなとお思いでしょう。そうです。クズです。だけど、これは事実なのです。嘘をついて、自分の人生を美化して脚色しても、このサイト内では無意味だし、それでは俺の低空飛行な人生を知ってもらって、ああ、自分よりも下の人物がいるのだということで慰めを得てもらい、このサイトの読者に自殺を思い留まってもらうという趣旨から逸脱してしまいますから。

 それで、なんとか借金の重圧からは逃れたものの、相変わらずバイトはしませんでした。それは、やはり、俺は生来の怠け癖があるので、「これで、前よりも楽になったから、バイトはしなくてよくなった」と思ってしまったからでした。両親がクレカとサラ金の借金を全額返済してくれた後でも、そのことは祖父母には知らされませんでしたから、相変わらず、祖父母からは大きなお金が毎月無条件で入ってきていました。それで、俺は安心してしまっていたのです。何もしないでも大金が手に入る状況が常にあったので、人生をナメてしまったのです。だから、これは逆に言えば、俺のせいでもあるし、俺に無条件で大金を与え続けた祖父母と両親の責任でもあると思います。やはり、あまりにも簡単に金を子供や孫に渡すのは、考えものです。本人がそれを有効に使えれば、よいのですが、俺みたいに馬鹿だと、それを無駄遣いするし、それよりももっと悪影響なのは、簡単に金が手に入ることにより、そいつの社会生活能力が発達しないということです。だから、俺はもしも今後、結婚出来たとして子供が出来たら、ちゃんと俺の子供には、金銭教育はする予定。まぁ、それ以前に、結構相手、いないけど。

  それで、借金の重圧が大分軽くなったので、福祉の勉強には熱が入ったのかというと、全然入りませんでした。だって、俺は、元々、福祉をやりたくて入学したわけではなかったし。むしろ、福祉には無興味でした。それでも、精神状態が不安定極まる時に、父親が福祉の専門学校に行けと、恐ろしい顔で言ったら、その時の俺は、逆らえませんでした。だから、表面上は納得というか、渋々前向きになったつもりだったけど、内心は、心の奥底の本心では、やはり福祉なんてやりたくなかったのだろう。実際に、知的障害者や身体障害者や老人の施設に研修に行ったけど、全然、何の感動も湧かなかった。なんで俺、こんなことをしているんだという気持ちでした。俺ははっきり言って、障害者や老人には無興味なのです。それは今でも、ほぼそうです。一人の人間として、障害者の○○さんや、老人の○○さんと話すというのなら出来るし、それは大丈夫だけど、介護とか介助という形で接することに対しては、全く興味がありませんでした。そう、まったく興味のない分野の専門学校に、またしても行ってしまったのです。ある施設での研修時には、身体障害者と話すことがなくなって、休憩室で漫画をチラっと読んだら、それをその施設のスタッフに見られて、そんな気持ちだったらもう来るな!みたいに怒鳴られました。その時はどうもすみませんと、平身低頭で必死に謝ってばかりいたが、元々俺は、身体障害者には無興味なのだ。介助の仕方とか、どうでもよい。NHKの介護や介助の番組とか全然観ていなかったし、今でも全然観ない。どうでもいいや。
 だから、結局は、興味のない分野に進んで、無理矢理学ばせても、我慢の出来る人物ならばやっていけるだろうが、俺の場合は無理だ。身体障害者とか老人とか知的障害者の世話をしていても、何の感動も湧かなかったし、むしろ嫌でした。やりたくもない仕事を嫌々してたら、相手も鋭いから、それを察知するだろうしね。それに、福祉の分野の給与は総じて低いし。まあ、今のこの、漂流している俺と比べたら、安定しているし、給与額も上だろうけど。俺に福祉をやらせるのは、ピカソに単調な事務作業を延々とさせたり、ゴッホに単調なライン作業をやらせるようなものだ。ゴッホが、大量にものすごいスピートで流れてくるペットボトルを延々と眺めて、不良品を見ているとか、そんなの考えられない。あり得ない。それくらい、あり得ない。そりゃ、無理だよ。

 俺は、クリエイティブな分野というか、芸術関連の分野には前々から興味があった。けど、ついにそっちの方面には、進めなかった。ずっと心の奥底でくすぶり続けていただけだったな。多分、俺の前世は、自由奔放な、売れない芸術作品でも制作して陳列していた、芸術家気取りの呑気な人物だったのかもしれないな。だから今世でこんな、呑気すぎて、現代社会で生きていくのを苦労しているのだろう。

 まぁ、そんなんで、福祉の専門学校自体は、二年間通いました。しかし、結局、福祉の分野には進みませんでした。当然、それを聞いた両親は激怒しました。なんで二年間も学費と生活費を工面してやったのに、福祉の方面に進まないんだと。でも、どうしても、俺は福祉をやる気にはなれなかった。もう、短期間の研修だけで、嫌気がさしていた。これからずっと、障害者や老人の介護・介助をしていくなんて、それはとても無理だと確信していた。だって、相手には愛をもって接しないといけないのに、俺は悪意しか持てませんよ。笑顔じゃないといけないのに、俺は嫌な顔しか出来ないよ。積極的に声かけしないといけないのに、俺は何の興味もないし、超消極的だよ。
 だって、俺は邪悪な部分が、けっこうあるし。そんな、マザーテレサみたいに、弱者に愛なんざ、持てないよ。このサイトは、俺が何度も何度も実際に自殺したくなって、俺自身が極度に弱い性質で、そんな人生だから、みんなには自殺して欲しくないと思ったから作ったんだ。自分がとても辛い状況に陥れば、その状況と同じ危機に瀕している人達を救いたいと思うのは、普通の人なら、至極当然だと思う。同情心というか、慈悲心が芽生えるからだ。それは、邪悪な心の部分を持っている俺でも同様。邪悪な性質を持っているといっても、それはあくまで数%であって、基本的には、優しい性格であるから。でも、どうしても、老人とか障害者に対しては、優しい気持ちにはなれません。介助が必要な立場の老人になったことはまだないし、障害者になったこともないからだ。俺はあくまで、自殺志願者は一人でも多く救いたいと思っているが、はっきり言って、老人とか障害者は別に今でも、どうでもいいや。勿論、自殺したいと思っている老人や障害者は別だけど。あくまで、普通の老人とか障害者に対しては、何の感慨も湧かないのだ。

 あと、仕事をしていた時や無職の時には、肌を見られるのを避けられていたので、体毛のことはほぼ忘れていたが、介護の生徒同士の研修とかでは、脚を出した状態で、生徒同士で介助訓練などしなければならない。その時などは、やはり地獄でした。体毛のことをまた気にし出して、この時に流行っていた、体毛が薄くなるといわれていた豆乳ローションを買ったり、パイナップルローションを自作したり、また体毛を抜いたり、他の体毛関連の商品を買ったり。しかし、結局は、それらは無意味でした。やはり、後で知ったのですが、体毛問題を根絶するには、美容外科にて、レーザー脱毛を何回も受けなければならなかったのです。その話は、もっと後で出てきます。とにかく、俺は夏場とか、介護訓練の時とか、腕とか脚をみんなに見せなければならない時には、本当に嫌でした。
 学校生活自体は、年上ということもあり、また何人かは大学や他の専門学校や短大や社会人を経由して入学してきた人達だったので、俺だけが年上ではありませんでした。だから、虐められることもなく、あまり浮き過ぎるということもありませんでした。なんとか上手くやっていました。しかし前述のとおり、やはり俺は介護・介助には無関心なので、この時もやはり、勉強には力が入らず、テスト前に集中して勉強して、あとは数日ですっかり忘れてしまう、という繰り返しでした。だから、結局、俺に、俺が嫌がることをあまりにも無理強いしても、意味ない。