仕事を辞めてから、次の仕事に就くまでは、約一ヶ月の間があった。その間、仕事を探していたのだ。前の仕事を辞める前に、次の仕事を見つけるということはしていなかったから。
それで、もう、今度は正社員は止めようと思い、派遣社員の仕事を探したら、時給千円の、ある工場の作業員の募集を見つけたので、それに応募しました。その時はまだ、人見知りというか、対人の接客業とかをする心理的余裕は なかったんだ。体毛の件で、人の前で肌を晒すような仕事は嫌だったし、何より、もともと積極的に誰かと付き合うようなタイプではなかった。だから、今回も一人で黙々と出来る工場作業員を選んだのだった。
それで、俺は初めて派遣会社の人と会って、派遣社員としての契約を交わしました。俺は従業員数が百人くらいの、とある製品を作る工場に行きました。
それで、やはり派遣社員というのは、正社員とは違って、『部外者』って感じがしたな。だって、結局、3ヶ月ごとの細切れ契約だし、いつ辞めるか分からない立場だし。そういった意味で、自分に対するその会社の社員の態度も、冷たいというか、見下されていたところも正直あった。
事務の手続きで、その工場の事務室に行ったら、そこの中年社員が、とても見下した態度と目で傲慢に対応していたしな。そんな感じで、俺は、休憩時間も、休憩室で一人雑誌を読んでいた。まぁ、あくまで部外者だから、居場所というか、仲間意識はゼロだったな。あくまで派遣は派遣。部外者って感じだな。
それで、給与面も、時給千円だけど、月給制じゃないから、出勤日が少ない月は、とても手取りが少なかった。たしか、月の半ばから数えての一ヶ月で締めだと思ったが、それで、一月だかの給与が、手取りで10万円しかなかった。まぁ、そこは土日祝日休みだったし、年末年始も長期間休みだったので、時給制だと、そうなるわな。なんか、業績がヤバいらしかった。ま、派遣の身の俺にとっては、そんなのは無関係だが。業績が関係あるのは、クビを切られたらヤバい立場の派遣社員と、正社員だからな。俺は別にここを切られたって、また他で働けばいいし。何もしがみつくような条件じゃないし。ただの時給千円ぽっちだし。そんで、ここで働いたって、何も技能は身に付かないし。
それで、俺は真面目に頑張っていました。けど、相変わらず将来の展望というか、未来は思い描けなかった。どうしていいのか分からなかった。だから、毎月給与が入ると、家賃を払い、食費とか、その他の費用を払い、恋人もおらず、仕事のストレスと性欲から風俗に行って散財したりして、貯金はなしでした。派遣だから、ボーナスなんて何もないからね。だから、休憩室で正社員の皆さんがボーナスのことについてウキウキ話しているのを聞いても、俺には無関係であった。
それで、ある日、俺の担当していた行程の上司から、「君、いつまでいるつもりなの?もう辞めたほうがいいんじゃないの?」と言われたので、俺はそのことは伏せた形で、派遣会社の担当者に辞めると伝えた。派遣会社の人は「何か職場であったんですか?」と尋ねてきたが、そのことは言わなかった。だって、それを言おうが言いまいが、結局、そのままそこに留まっていても何にもならないしね。一応、その当時は、派遣社員として同一の職場で3年間働けば、そこで正社員として雇用する義務が発生するとかいう法律があったらしいが、そんなのはたやすく破られるだろう。何より、そこの正社員になりたいとも思わなかったから。そこには、もうすぐ派遣で3年目の人がいたが、その人は無事、正社員になれたのだろうか?2年9ヶ月目でクビを切れば、そんなの無視できるしな。どうなったのかしら?
それで、俺が辞めるとなったので、急に俺の上司はニコニコし出した。それで、次の引き継ぎの派遣社員が来た。32歳の人だった。その人は俺が辞める半月程前に来たが、俺がいる半月の間に、数回休んだ。上司は、「何でこんなに休むんだろう?」と言っていたが、そんなの知るか。一応、俺はその半月間で、引き継ぎの為に、その人には出来るだけ教えました。それで終了。
ここで派遣をして、一応、クレジットカードは作りました。というのも、以前のセゾンカードは、俺が低所得なのにどんどん借入可能枠を勝手に増やしてキャッシングとショッピングの合計が180万円もあった。そんなにあったら、またその借入枠を使って、借金地獄に陥ってしまう可能性があったので、セゾンカードは解約していたのだ。でも、やはりクレジットカードのない生活は不便に感じていた。そんな時、この派遣会社でクレジットカードを作れるというので、作ったんだ。数年後、この派遣会社のクレカは廃止になったけど、俺は引き続き、その派遣会社と契約していたライフカードのクレジットカードを所有できることになった。そして、今のライフカードの借入可能枠は、ショッピングとキャッシングの合計が40万円までだ。そして、今は職業の登録をしていないので、キャッシングは不可能になっている。年収200万円台の人には、このくらいが無難だよ。なんでセゾンカードは、年利29%もあって、低所得の俺に借入枠180万円も与えたんだ、まったく。馬鹿にそんなに与えたら、そいつの人生破滅するだろうが!そんなわけで、ライフカードで十分です。
そして、この工場での派遣社員の期間は、約9ヶ月でした。
その後、お金の心配がすぐに始まりました。なぜなら、この時も、次の仕事が決まってから辞めたのではなくて、辞めてから探そうと思っていたからだ。なんで俺はこうも、計画性がないのだろうか。だから、アイフルもご利用は計画的に出来なかったんだな。サラ金に頼るような人は、サラ金に頼る時点で計画的ではないからな。
でも、一カ所の仕事が終わると、もう燃え尽きた感じがしてしまって、それが一区切りつくまでは、次のことを考えられない性格なのかもしれない。
まぁ、一応、最後の月の労働分の給料が入っていたので、ちょっとの余裕はあったけど、そんなの雀の涙みたいなものだから、すぐに無くなってしまう。しかし、またどこかのちゃんとした仕事を探して就職しないといけないのは分かっていたような気がするけれど、俺はすぐに何かしらの手っ取り早い稼ぎが欲しかったので、近くの日雇い派遣会社に登録しました。
ああ、何で俺はこんなに、どうしようもないんだろう。福祉の専門学校の卒業間近の時も、みんなは就職先を必死に探していたのに、俺は絵を描いて、新風舎という素人からの作品を大々的に募集しまくっていた会社のコンクールに応募していたりした。そして連絡が来て、新風舎の本社に行き、俺の不出来な三流の絵本を散々褒められて、また、危うく自費出版で300万円ほど取られるところだった。その時はほうほうの体で逃げてきたが・・・。でも、俺は馬鹿だから、本気でその自費出版の本が何十万部も売れて元が取れる、いや、初版は元が取れずとも、それがきっかけで次々と仕事の依頼が入るはずだ!などと考えていたのでした。しかし、以前の速聴で懲りていたので、ギリギリで、断って帰ってきました。けっこう担当者の熱意というか気迫に押されて、契約しそうになっちゃったけどな。ヤバかった。ちなみに、後に新風舎は倒産しました。かなりの被害者がいたらしいぞ。
俺は本当に、美術というか、そういう方面にばかり興味があって、真面目に世の中を生きられない性格なのかもしれない。 そのくせ、馬鹿すぎて手に負えない。よくもまぁ、俺は今まで生きてこられたな。
その時は、というか、今までずっと、祖父母からは毎月、お小遣いを貰っていました。サラ金とクレカで火の車だった時には、毎月6万円か8万円だったかな?そのくらい貰い続けていました。しかし不思議なことに、サラ金とクレカの問題が片付いた後は、毎月4万円くらいに減りました。それは、たしか、祖父が入院したからだったと思います。俺は不思議と、お金のピンチの時に、必要な分だけお金が入ってくるのだ。きっと、俺の守護霊が配慮してくれるのだろう。ああ、それにしても、俺には生活能力が無さ過ぎる。ちゃんとしたお嫁さんを貰いたいものだ。
横道に大分逸れたが、本道に戻ろう。それで、『日雇い』というのを初めて体験した。まず、前日の夜頃に、派遣会社からメールが来て、『明日、どこどこでこういう仕事があります。出勤可能な人は応募してください』というメールが来る。それで、応募すれば、案内が来るという訳だ。
俺の初日の仕事は、家から大分離れた、片道2時間くらいの田舎の中に建つ、ペットポトル関連の倉庫だった。ちなみに、ここの派遣のシステムを解説すると、交通費はなし、時給千円、残業代は、たしか、25%割り増しだったかな。だから、今回のように、遠い場所の職場だと、もう、交通費だけで二千円とかかかるので、とても損です。JRだけじゃなくて、私鉄を乗り継いで、さらに職場まではバスだから、相当損ですね。あー、アホらしい。やっぱり、ちゃんとした仕事にずっと就くのがいかに大切で得かということですね。
その仕事は、2リットルのペットボトルに延々とおまけのおもちゃをつけるというものだった。その仕事にその日参加した人数は、男女合計50人程だったと思う。クーラーのない真夏の倉庫の中で、汗ダクダクになりながら、交通費を差し引くと、たかだか6000円程度の為に、八時間みっちり働くのだ。女達は力が無いからということで、おまけをつける仕事で、俺は一番最後の、ペットボトルが六本詰まった12kgの段ボールを延々とパレットに積み上げるという作業だった。あー、キツかった。それで、たかだか五千数百円。エリート官僚の人達も、そりゃ利権を貪りたくなるよなぁ。こんな仕事、したくないものなぁ。まったく、本当に人間、能力差がありすぎる。
翌日も、身体が痛む中、とにかくお金を稼がないといけないので、また応募しました。次は、川崎市にある職場でした。冷凍庫と、食料品の常温倉庫での仕事。紙を渡されて、そこに書いてある品物を凍えながら冷凍庫の中に入ってピッキングしたり、常温倉庫からスーパーに置いてあるような食料品をピッキングしたり。最後はツルハシで凍った床面の分厚い氷をガンガンと砕いていました。そこでは何ヶ月も前からそこに来ていた日雇いの奴らがいて、その内の一人が不良みたいな危ない奴だった。もう関わりたくないね。初めての職場で、何も分からないのに、初っぱなから誰も教えてくれる人はいなかった。まぁ、派遣社員は3ヶ月の細切れ契約だけど、日雇いはたったの一日契約だからな。そんなものだな。
翌日も、超身体が痛むなか、また応募しました。それは、横浜市の巨大流通倉庫群での仕事だった。某大手家電量販店向けの品物を箱に詰める仕事だった。ラインに乗って細かい商品がどんどん流れてきて、それぞれの支店先ごとに自動で振り分けられるので、俺らはそこに溜まった商品をきれいに整頓して箱に詰めて行くという仕事だった。右側と左側にラインがあり、右側が終了したらすぐに走って左側に移動し、また右側に移動する。とても慌ただしくて、「早く走れ!」と怒鳴られながら、みんなせっせと作業していました。それが終了したら、次にその箱が自動で下に移動するので、今度はその箱を台車に乗せる作業。帰る頃にはクタクタの限界。初めての仕事なので、精神的にもクタクタ。だけど、正社員みたいに、習得するまでの猶予期間がある訳じゃない。もう、即、その場でちゃんと仕事をしなけりゃならないからな。大変だよ、日雇いは。それに、毎日毎日、仕事場が変わるしな。依頼主が欲しい時に欲しい人数分だけ依頼するシステムなので、依頼主からしたら、超都合の良いシステムだな。帰る時は真っ暗。またバスやら電車やらで片道の通勤二時間。そんで手取りは僅か。あー、アホらしい。
こんな感じで、三日間頑張りましたが、もう限界でした。たったの三日でギブアップ。それで、後日、その労賃を受け取りに行くと、二万数千円だったかな。でも、交通費は自腹なので、実際はもっと少ないよな。大変だ。ちなみに、その日雇い会社は、この前見たら、もう看板が無かった。
あとは、派遣社員だった頃の派遣会社から電話がかかってきて、単発の日雇いの仕事が一日あると誘われたので、行きました。そこは野菜加工工場で、色々な野菜を加工していた。俺が配置されたのは、大根カットグループで、おばさん達が延々と大根を包丁でカットし続けて、俺がそれを延々と段ボールに入れ続けるというものだ。それで、時給が800円だったかな。大根カット作業が終了後は、レタス洗いグループに配置された。これも交通費はなし。あー、アホらしい。
まぁ、こんな重労働が続けられる程、俺は体力も精神力も強靭ではなく、とうとうお金が尽きかけてきた。それで、その頃はまだ派遣会社のクレジットカードで、たしかキャッシングサービスが使えたので、またキャッシングに頼り始めてしまったような気がする。というのも、よく覚えていない。とにかく、金銭的に行き詰まって、とうとう実家の両親に相談し、アパートを引き払って、実家に帰ることにした。その時には、もう妹二人共、仕事をし出していて、実家を出ていたので、俺が使用する部屋は空いていたのだった。
ちなみに俺が借りていたアパートは、やはり防音設備がなっていなくて、隣の物音と声がまる聞こえだった。やはり、「うるせえ」みたいなことを、壁越しに言われたことがあります。窓の一部を破損してしまっていましたが、なんとか敷金の範疇で収まりました。クソ狭いワンルームなのに、家賃が53000円で、駐車場代は6000円だった。岐阜で借りたアパートは和室二部屋で駐車場無料で35000円だったのに・・・やはり神奈川は物価がクソ高い。
それで、もう、今度は正社員は止めようと思い、派遣社員の仕事を探したら、時給千円の、ある工場の作業員の募集を見つけたので、それに応募しました。その時はまだ、人見知りというか、対人の接客業とかをする心理的余裕は なかったんだ。体毛の件で、人の前で肌を晒すような仕事は嫌だったし、何より、もともと積極的に誰かと付き合うようなタイプではなかった。だから、今回も一人で黙々と出来る工場作業員を選んだのだった。
それで、俺は初めて派遣会社の人と会って、派遣社員としての契約を交わしました。俺は従業員数が百人くらいの、とある製品を作る工場に行きました。
それで、やはり派遣社員というのは、正社員とは違って、『部外者』って感じがしたな。だって、結局、3ヶ月ごとの細切れ契約だし、いつ辞めるか分からない立場だし。そういった意味で、自分に対するその会社の社員の態度も、冷たいというか、見下されていたところも正直あった。
事務の手続きで、その工場の事務室に行ったら、そこの中年社員が、とても見下した態度と目で傲慢に対応していたしな。そんな感じで、俺は、休憩時間も、休憩室で一人雑誌を読んでいた。まぁ、あくまで部外者だから、居場所というか、仲間意識はゼロだったな。あくまで派遣は派遣。部外者って感じだな。
それで、給与面も、時給千円だけど、月給制じゃないから、出勤日が少ない月は、とても手取りが少なかった。たしか、月の半ばから数えての一ヶ月で締めだと思ったが、それで、一月だかの給与が、手取りで10万円しかなかった。まぁ、そこは土日祝日休みだったし、年末年始も長期間休みだったので、時給制だと、そうなるわな。なんか、業績がヤバいらしかった。ま、派遣の身の俺にとっては、そんなのは無関係だが。業績が関係あるのは、クビを切られたらヤバい立場の派遣社員と、正社員だからな。俺は別にここを切られたって、また他で働けばいいし。何もしがみつくような条件じゃないし。ただの時給千円ぽっちだし。そんで、ここで働いたって、何も技能は身に付かないし。
それで、俺は真面目に頑張っていました。けど、相変わらず将来の展望というか、未来は思い描けなかった。どうしていいのか分からなかった。だから、毎月給与が入ると、家賃を払い、食費とか、その他の費用を払い、恋人もおらず、仕事のストレスと性欲から風俗に行って散財したりして、貯金はなしでした。派遣だから、ボーナスなんて何もないからね。だから、休憩室で正社員の皆さんがボーナスのことについてウキウキ話しているのを聞いても、俺には無関係であった。
それで、ある日、俺の担当していた行程の上司から、「君、いつまでいるつもりなの?もう辞めたほうがいいんじゃないの?」と言われたので、俺はそのことは伏せた形で、派遣会社の担当者に辞めると伝えた。派遣会社の人は「何か職場であったんですか?」と尋ねてきたが、そのことは言わなかった。だって、それを言おうが言いまいが、結局、そのままそこに留まっていても何にもならないしね。一応、その当時は、派遣社員として同一の職場で3年間働けば、そこで正社員として雇用する義務が発生するとかいう法律があったらしいが、そんなのはたやすく破られるだろう。何より、そこの正社員になりたいとも思わなかったから。そこには、もうすぐ派遣で3年目の人がいたが、その人は無事、正社員になれたのだろうか?2年9ヶ月目でクビを切れば、そんなの無視できるしな。どうなったのかしら?
それで、俺が辞めるとなったので、急に俺の上司はニコニコし出した。それで、次の引き継ぎの派遣社員が来た。32歳の人だった。その人は俺が辞める半月程前に来たが、俺がいる半月の間に、数回休んだ。上司は、「何でこんなに休むんだろう?」と言っていたが、そんなの知るか。一応、俺はその半月間で、引き継ぎの為に、その人には出来るだけ教えました。それで終了。
ここで派遣をして、一応、クレジットカードは作りました。というのも、以前のセゾンカードは、俺が低所得なのにどんどん借入可能枠を勝手に増やしてキャッシングとショッピングの合計が180万円もあった。そんなにあったら、またその借入枠を使って、借金地獄に陥ってしまう可能性があったので、セゾンカードは解約していたのだ。でも、やはりクレジットカードのない生活は不便に感じていた。そんな時、この派遣会社でクレジットカードを作れるというので、作ったんだ。数年後、この派遣会社のクレカは廃止になったけど、俺は引き続き、その派遣会社と契約していたライフカードのクレジットカードを所有できることになった。そして、今のライフカードの借入可能枠は、ショッピングとキャッシングの合計が40万円までだ。そして、今は職業の登録をしていないので、キャッシングは不可能になっている。年収200万円台の人には、このくらいが無難だよ。なんでセゾンカードは、年利29%もあって、低所得の俺に借入枠180万円も与えたんだ、まったく。馬鹿にそんなに与えたら、そいつの人生破滅するだろうが!そんなわけで、ライフカードで十分です。
そして、この工場での派遣社員の期間は、約9ヶ月でした。
その後、お金の心配がすぐに始まりました。なぜなら、この時も、次の仕事が決まってから辞めたのではなくて、辞めてから探そうと思っていたからだ。なんで俺はこうも、計画性がないのだろうか。だから、アイフルもご利用は計画的に出来なかったんだな。サラ金に頼るような人は、サラ金に頼る時点で計画的ではないからな。
でも、一カ所の仕事が終わると、もう燃え尽きた感じがしてしまって、それが一区切りつくまでは、次のことを考えられない性格なのかもしれない。
まぁ、一応、最後の月の労働分の給料が入っていたので、ちょっとの余裕はあったけど、そんなの雀の涙みたいなものだから、すぐに無くなってしまう。しかし、またどこかのちゃんとした仕事を探して就職しないといけないのは分かっていたような気がするけれど、俺はすぐに何かしらの手っ取り早い稼ぎが欲しかったので、近くの日雇い派遣会社に登録しました。
ああ、何で俺はこんなに、どうしようもないんだろう。福祉の専門学校の卒業間近の時も、みんなは就職先を必死に探していたのに、俺は絵を描いて、新風舎という素人からの作品を大々的に募集しまくっていた会社のコンクールに応募していたりした。そして連絡が来て、新風舎の本社に行き、俺の不出来な三流の絵本を散々褒められて、また、危うく自費出版で300万円ほど取られるところだった。その時はほうほうの体で逃げてきたが・・・。でも、俺は馬鹿だから、本気でその自費出版の本が何十万部も売れて元が取れる、いや、初版は元が取れずとも、それがきっかけで次々と仕事の依頼が入るはずだ!などと考えていたのでした。しかし、以前の速聴で懲りていたので、ギリギリで、断って帰ってきました。けっこう担当者の熱意というか気迫に押されて、契約しそうになっちゃったけどな。ヤバかった。ちなみに、後に新風舎は倒産しました。かなりの被害者がいたらしいぞ。
俺は本当に、美術というか、そういう方面にばかり興味があって、真面目に世の中を生きられない性格なのかもしれない。 そのくせ、馬鹿すぎて手に負えない。よくもまぁ、俺は今まで生きてこられたな。
その時は、というか、今までずっと、祖父母からは毎月、お小遣いを貰っていました。サラ金とクレカで火の車だった時には、毎月6万円か8万円だったかな?そのくらい貰い続けていました。しかし不思議なことに、サラ金とクレカの問題が片付いた後は、毎月4万円くらいに減りました。それは、たしか、祖父が入院したからだったと思います。俺は不思議と、お金のピンチの時に、必要な分だけお金が入ってくるのだ。きっと、俺の守護霊が配慮してくれるのだろう。ああ、それにしても、俺には生活能力が無さ過ぎる。ちゃんとしたお嫁さんを貰いたいものだ。
横道に大分逸れたが、本道に戻ろう。それで、『日雇い』というのを初めて体験した。まず、前日の夜頃に、派遣会社からメールが来て、『明日、どこどこでこういう仕事があります。出勤可能な人は応募してください』というメールが来る。それで、応募すれば、案内が来るという訳だ。
俺の初日の仕事は、家から大分離れた、片道2時間くらいの田舎の中に建つ、ペットポトル関連の倉庫だった。ちなみに、ここの派遣のシステムを解説すると、交通費はなし、時給千円、残業代は、たしか、25%割り増しだったかな。だから、今回のように、遠い場所の職場だと、もう、交通費だけで二千円とかかかるので、とても損です。JRだけじゃなくて、私鉄を乗り継いで、さらに職場まではバスだから、相当損ですね。あー、アホらしい。やっぱり、ちゃんとした仕事にずっと就くのがいかに大切で得かということですね。
その仕事は、2リットルのペットボトルに延々とおまけのおもちゃをつけるというものだった。その仕事にその日参加した人数は、男女合計50人程だったと思う。クーラーのない真夏の倉庫の中で、汗ダクダクになりながら、交通費を差し引くと、たかだか6000円程度の為に、八時間みっちり働くのだ。女達は力が無いからということで、おまけをつける仕事で、俺は一番最後の、ペットボトルが六本詰まった12kgの段ボールを延々とパレットに積み上げるという作業だった。あー、キツかった。それで、たかだか五千数百円。エリート官僚の人達も、そりゃ利権を貪りたくなるよなぁ。こんな仕事、したくないものなぁ。まったく、本当に人間、能力差がありすぎる。
翌日も、身体が痛む中、とにかくお金を稼がないといけないので、また応募しました。次は、川崎市にある職場でした。冷凍庫と、食料品の常温倉庫での仕事。紙を渡されて、そこに書いてある品物を凍えながら冷凍庫の中に入ってピッキングしたり、常温倉庫からスーパーに置いてあるような食料品をピッキングしたり。最後はツルハシで凍った床面の分厚い氷をガンガンと砕いていました。そこでは何ヶ月も前からそこに来ていた日雇いの奴らがいて、その内の一人が不良みたいな危ない奴だった。もう関わりたくないね。初めての職場で、何も分からないのに、初っぱなから誰も教えてくれる人はいなかった。まぁ、派遣社員は3ヶ月の細切れ契約だけど、日雇いはたったの一日契約だからな。そんなものだな。
翌日も、超身体が痛むなか、また応募しました。それは、横浜市の巨大流通倉庫群での仕事だった。某大手家電量販店向けの品物を箱に詰める仕事だった。ラインに乗って細かい商品がどんどん流れてきて、それぞれの支店先ごとに自動で振り分けられるので、俺らはそこに溜まった商品をきれいに整頓して箱に詰めて行くという仕事だった。右側と左側にラインがあり、右側が終了したらすぐに走って左側に移動し、また右側に移動する。とても慌ただしくて、「早く走れ!」と怒鳴られながら、みんなせっせと作業していました。それが終了したら、次にその箱が自動で下に移動するので、今度はその箱を台車に乗せる作業。帰る頃にはクタクタの限界。初めての仕事なので、精神的にもクタクタ。だけど、正社員みたいに、習得するまでの猶予期間がある訳じゃない。もう、即、その場でちゃんと仕事をしなけりゃならないからな。大変だよ、日雇いは。それに、毎日毎日、仕事場が変わるしな。依頼主が欲しい時に欲しい人数分だけ依頼するシステムなので、依頼主からしたら、超都合の良いシステムだな。帰る時は真っ暗。またバスやら電車やらで片道の通勤二時間。そんで手取りは僅か。あー、アホらしい。
こんな感じで、三日間頑張りましたが、もう限界でした。たったの三日でギブアップ。それで、後日、その労賃を受け取りに行くと、二万数千円だったかな。でも、交通費は自腹なので、実際はもっと少ないよな。大変だ。ちなみに、その日雇い会社は、この前見たら、もう看板が無かった。
あとは、派遣社員だった頃の派遣会社から電話がかかってきて、単発の日雇いの仕事が一日あると誘われたので、行きました。そこは野菜加工工場で、色々な野菜を加工していた。俺が配置されたのは、大根カットグループで、おばさん達が延々と大根を包丁でカットし続けて、俺がそれを延々と段ボールに入れ続けるというものだ。それで、時給が800円だったかな。大根カット作業が終了後は、レタス洗いグループに配置された。これも交通費はなし。あー、アホらしい。
まぁ、こんな重労働が続けられる程、俺は体力も精神力も強靭ではなく、とうとうお金が尽きかけてきた。それで、その頃はまだ派遣会社のクレジットカードで、たしかキャッシングサービスが使えたので、またキャッシングに頼り始めてしまったような気がする。というのも、よく覚えていない。とにかく、金銭的に行き詰まって、とうとう実家の両親に相談し、アパートを引き払って、実家に帰ることにした。その時には、もう妹二人共、仕事をし出していて、実家を出ていたので、俺が使用する部屋は空いていたのだった。
ちなみに俺が借りていたアパートは、やはり防音設備がなっていなくて、隣の物音と声がまる聞こえだった。やはり、「うるせえ」みたいなことを、壁越しに言われたことがあります。窓の一部を破損してしまっていましたが、なんとか敷金の範疇で収まりました。クソ狭いワンルームなのに、家賃が53000円で、駐車場代は6000円だった。岐阜で借りたアパートは和室二部屋で駐車場無料で35000円だったのに・・・やはり神奈川は物価がクソ高い。