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自殺してはならない理由
-これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死をもって本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか-この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・・。
分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた実在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
既に述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時-この〝最終的に〟というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入る毎に引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです-霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
さて、所謂〝霊視能力〟をもった人が見ると分かりますが、霊体と肉体とを繋いでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それが遂に切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることは出来ません。
-そもそもこの問題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴する為に人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。
臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(この辺りから〝大勢いるのです〟という所まで、おかしさを噛み殺した言い方で喋っている)死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私達の世界ではこれから地上へ生まれて行く人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私達の世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。
-もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人達は、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけです。死後直ぐに死体をいじくり回すと魂又は霊に何らかの害があるでしょうか。
それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、たとえ肉体と霊体とを繋いでいるコードが切れても、それまでの永年に亘る一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。
一般的に言えば、霊的なことに全く無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことを勧めます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てる為に提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることは出来ません。
-それと関連した問題として〝突発事故〟による死の問題があります。例えば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂又は霊にどういう影響があるでしょうか。
今申し上げたのと全く同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過と共に意識と自覚を取り戻します。
-天命を全うしない内に突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。
私はその〝突発事故〟という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。〝たまたま〟と思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと十分なお答えが出来ません。
-最後に・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は〝死者へ向かって読んで聞かせる〟という供養の仕方を説いております。この〝読んで聞かせる〟ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。
〝死者〟というのは何のことでしょうか。
-ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人達です。
ああ、成る程!私は又、目の前に横たわっている死体に向かって読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチ独特の含み笑いをする)
-違いますよ!
そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(注-この言葉には〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている)
-何人かの弟子達が他界した親戚縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親戚縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。
別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意の出来た人なら誰でも知識が得られるように、沢山の施設が用意してあります。受け入れる素地が出来ていなければ受け入れることは出来ません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。そうでしゅう、サム、師は弟子に応じて法を説く他はないわけでしょう。(訳者注-原則的にはシルバーバーチの言っている通りかも知れないし、事実、霊界では我々の想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであれば、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的に或いは無意識の内に寄り添って来る霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言を繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかも知れない霊にとっても勉強になると考えている。シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)
-全く仰る通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(注)の治療を熱心に行っている所があります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。(注-霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィーなどではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体(ダブル)〟という肉体と幽体との接着剤に当たる半物質体のことを言っている。チャプマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)
本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体を携えた霊であり、霊を携えた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和或いは円満性が崩れているという単純な事実の表れです。又人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させる為の機関です。(別の所では〝コントロールルーム〟のようなものと言っている)
さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力をもつ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて放射されます。その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟というふうに、至って単純に表現することが出来ます。全ての操作が霊的なものなのです。
霊は生命力ですから、不調和状態-調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態-を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが功を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。
それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。
-どうも有難うございました。
他に質問はありませんね?(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう。(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットでは省略されている)
-有難うございます。
いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。
(個人相談が終わって閉会の祈りで締め括る)
私の全ての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届けしたいと思います。その方達の多くもまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有り難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事が出来ているという事実を知って頂きたく思います。
これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱で暗い世界です。しかし、その中にあって私達はそこここに愛と好意と友情の炉辺を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。
又新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。
それではこれを(カセットで)お聞きくださる方々、並びに本日ここにおいでの皆さんにも、常に大霊の祝福のあらんことを。
自殺してはならない理由
-これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死をもって本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか-この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・・。
分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた実在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
既に述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時-この〝最終的に〟というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入る毎に引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです-霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
さて、所謂〝霊視能力〟をもった人が見ると分かりますが、霊体と肉体とを繋いでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それが遂に切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることは出来ません。
-そもそもこの問題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴する為に人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。
臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(この辺りから〝大勢いるのです〟という所まで、おかしさを噛み殺した言い方で喋っている)死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私達の世界ではこれから地上へ生まれて行く人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私達の世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。
-もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人達は、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけです。死後直ぐに死体をいじくり回すと魂又は霊に何らかの害があるでしょうか。
それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、たとえ肉体と霊体とを繋いでいるコードが切れても、それまでの永年に亘る一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。
一般的に言えば、霊的なことに全く無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことを勧めます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てる為に提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることは出来ません。
-それと関連した問題として〝突発事故〟による死の問題があります。例えば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂又は霊にどういう影響があるでしょうか。
今申し上げたのと全く同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過と共に意識と自覚を取り戻します。
-天命を全うしない内に突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。
私はその〝突発事故〟という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。〝たまたま〟と思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと十分なお答えが出来ません。
-最後に・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は〝死者へ向かって読んで聞かせる〟という供養の仕方を説いております。この〝読んで聞かせる〟ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。
〝死者〟というのは何のことでしょうか。
-ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人達です。
ああ、成る程!私は又、目の前に横たわっている死体に向かって読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチ独特の含み笑いをする)
-違いますよ!
そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(注-この言葉には〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている)
-何人かの弟子達が他界した親戚縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親戚縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。
別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意の出来た人なら誰でも知識が得られるように、沢山の施設が用意してあります。受け入れる素地が出来ていなければ受け入れることは出来ません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。そうでしゅう、サム、師は弟子に応じて法を説く他はないわけでしょう。(訳者注-原則的にはシルバーバーチの言っている通りかも知れないし、事実、霊界では我々の想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであれば、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的に或いは無意識の内に寄り添って来る霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言を繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかも知れない霊にとっても勉強になると考えている。シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)
-全く仰る通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(注)の治療を熱心に行っている所があります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。(注-霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィーなどではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体(ダブル)〟という肉体と幽体との接着剤に当たる半物質体のことを言っている。チャプマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)
本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体を携えた霊であり、霊を携えた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和或いは円満性が崩れているという単純な事実の表れです。又人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させる為の機関です。(別の所では〝コントロールルーム〟のようなものと言っている)
さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力をもつ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて放射されます。その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟というふうに、至って単純に表現することが出来ます。全ての操作が霊的なものなのです。
霊は生命力ですから、不調和状態-調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態-を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが功を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。
それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。
-どうも有難うございました。
他に質問はありませんね?(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう。(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットでは省略されている)
-有難うございます。
いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。
(個人相談が終わって閉会の祈りで締め括る)
私の全ての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届けしたいと思います。その方達の多くもまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有り難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事が出来ているという事実を知って頂きたく思います。
これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰鬱で暗い世界です。しかし、その中にあって私達はそこここに愛と好意と友情の炉辺を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。
又新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。
それではこれを(カセットで)お聞きくださる方々、並びに本日ここにおいでの皆さんにも、常に大霊の祝福のあらんことを。