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自殺してはならない理由
クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。
本章で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と子羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、その為には人類が愛と哀れみと慈悲と責任意識を持たねばならないことを力説している-
私達地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教で言うクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還する習わしになっております。
ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教より遡る太古において、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。
太古において太陽がその輝きを最高度に発揮する時期(夏至、六月下旬、旧暦五月中旬)が〝復活(よみがえり)〟の時、つまり大自然が讃歌を奏で、見事な美しさを披露する時と見做されました。言い換えれば、蒔かれた種がその頃に華麗なる成長を遂げると考えたのです。
それに呼応して冬至(十二月下旬、旧暦一月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えるというわけです。
そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りを終わりであると同時に、太陽の誕生、新たなる生命が地上へ誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。
この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽のもつ神秘的な影響力をご存知ありません。太古の人はその時期に今でいう交霊会を何日にも亘って大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。
そこで私達霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への讃美ということでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力などが含まれております。
特に一年のこの時期が選ばれたのは、私達に協力してくれている霊達の地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私達にとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季の巡りの終わりであると同時に新しい巡りの始まりでもあるわけです。
そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上から一旦引き上げて、新しい光を地上へもたらす為に霊力の回復を図ることを目的としております。今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的な祝い方と違って)この時期を地上から引き上げて私達の本来の所属界へ帰還する機会としております。
帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分達の霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それと共に新たな計画を討議し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。
その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今尚人類に古来の大真理すなわち〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私達の業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・
もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。
その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど一欠片もございません。
仮に世界最高の絵画の全て、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深くかつ壮大な美を全部集めて一つに纏めてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。
芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵画ではとても表現出来そうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現する為の色彩を求めます。が、それは地上のどこにも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現出来ないのです。
そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現出来ましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)
叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前に全てを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。
全ての宗教の根幹でありイエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私達もその真実性を宣言するものです。
かくして私達は本来の霊的状態に戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私達にとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私達のお祝いです。
助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身共にすっかり生き返った私達は、やおらこの冷ややかで陰鬱でジメジメとして味気ない、暗い地上世界へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせる為の仕事を再開します。
地上のクリスマスシーズンにも愛の精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離れ離れになった者が一堂に会するということの中にもそれが見られ、又、かつての恨みはもう忘れようという決意をさせることにもなります。
しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるというのは何と悲しいことでしょう。なぜ平和を祝う為に罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・・
いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物達への態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになって初めて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、狼が子羊と並んで寝そべることになりましょう。
訳者注-シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟 shining ones という言い方をする。日本で言う〝八百万の神々〟、西洋で言う〝天使〟で、『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>篇ではその存在の様子がアニメ風に語られている。
ただ注意しなければならないのは、その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、更にその上には太陽系が属する銀河系神界があり、更には星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。
シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙を Cosmos (コズモス)と呼び、物的宇宙を Universe (ユニバース)と呼んで使い分けている。が、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。こうなると人間の粗末な脳味噌などでは最早付いて行けない。アーネル霊でさえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力を広げるのはやめましょう〟と言っている程である。
先程シルバーバーチが〝私はあくまでも謙虚な気持ちであるがままを申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど一欠片もございません〟と述べたことにはそうした背景がある。最早〝謙虚〟などということを超越した次元の話である。
自殺してはならない理由
クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。
本章で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と子羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、その為には人類が愛と哀れみと慈悲と責任意識を持たねばならないことを力説している-
私達地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教で言うクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還する習わしになっております。
ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教より遡る太古において、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。
太古において太陽がその輝きを最高度に発揮する時期(夏至、六月下旬、旧暦五月中旬)が〝復活(よみがえり)〟の時、つまり大自然が讃歌を奏で、見事な美しさを披露する時と見做されました。言い換えれば、蒔かれた種がその頃に華麗なる成長を遂げると考えたのです。
それに呼応して冬至(十二月下旬、旧暦一月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えるというわけです。
そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りを終わりであると同時に、太陽の誕生、新たなる生命が地上へ誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。
この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽のもつ神秘的な影響力をご存知ありません。太古の人はその時期に今でいう交霊会を何日にも亘って大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。
そこで私達霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への讃美ということでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力などが含まれております。
特に一年のこの時期が選ばれたのは、私達に協力してくれている霊達の地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私達にとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季の巡りの終わりであると同時に新しい巡りの始まりでもあるわけです。
そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上から一旦引き上げて、新しい光を地上へもたらす為に霊力の回復を図ることを目的としております。今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的な祝い方と違って)この時期を地上から引き上げて私達の本来の所属界へ帰還する機会としております。
帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分達の霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それと共に新たな計画を討議し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。
その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今尚人類に古来の大真理すなわち〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私達の業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・
もとよりそれはキリスト教によって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。
その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど一欠片もございません。
仮に世界最高の絵画の全て、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深くかつ壮大な美を全部集めて一つに纏めてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。
芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵画ではとても表現出来そうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現する為の色彩を求めます。が、それは地上のどこにも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現出来ないのです。
そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現出来ましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)
叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前に全てを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。
全ての宗教の根幹でありイエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私達もその真実性を宣言するものです。
かくして私達は本来の霊的状態に戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私達にとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私達のお祝いです。
助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身共にすっかり生き返った私達は、やおらこの冷ややかで陰鬱でジメジメとして味気ない、暗い地上世界へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせる為の仕事を再開します。
地上のクリスマスシーズンにも愛の精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離れ離れになった者が一堂に会するということの中にもそれが見られ、又、かつての恨みはもう忘れようという決意をさせることにもなります。
しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるというのは何と悲しいことでしょう。なぜ平和を祝う為に罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・・
いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物達への態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになって初めて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、狼が子羊と並んで寝そべることになりましょう。
訳者注-シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟 shining ones という言い方をする。日本で言う〝八百万の神々〟、西洋で言う〝天使〟で、『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>篇ではその存在の様子がアニメ風に語られている。
ただ注意しなければならないのは、その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、更にその上には太陽系が属する銀河系神界があり、更には星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。
シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙を Cosmos (コズモス)と呼び、物的宇宙を Universe (ユニバース)と呼んで使い分けている。が、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。こうなると人間の粗末な脳味噌などでは最早付いて行けない。アーネル霊でさえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力を広げるのはやめましょう〟と言っている程である。
先程シルバーバーチが〝私はあくまでも謙虚な気持ちであるがままを申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなど一欠片もございません〟と述べたことにはそうした背景がある。最早〝謙虚〟などということを超越した次元の話である。