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自殺してはならない理由


 〝今もしナザレのイエスが地上へ戻って来て自分の名の下に説かれている教えを聞いたら、一体何のことだか理解出来ないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者達がでっち上げたものだからです〟
 これは聖公会(アングリカン)の牧師が初めて交霊会に出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いはどこにあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する-

-あなたの霊訓によって随分教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果して教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。それには聖書に言う〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。
 霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。それが霊的起源であることの証拠は、病人を癒すこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。
 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられて行きました。不毛の人間的産物が神の声を押し退けてしまったのです。その後も〝しるしと驚異〟或いは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それが又もや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。
 そうしたことばかりしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築き上げられた壁のあまりの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。
 さて、あなたが一番良い例ですが、それまで信じて来た伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。板挟みの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発して行きなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。これは単なるラベルに過ぎません。私達はラベルには拘りません。私達の関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。
 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性の癌です。これは是非とも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。
 それなら教会内でも出来る筈です。導きを求めてあなたの下を訪れる人に教えてあげることが出来ます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気付きになられます。
 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人達との接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側から言えば、同志が一人増えただけということになります。その点キリスト教界に留まっていれば、伝道の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めて来る人々に手を差し延べてあげることが出来ます。
 ナザレのイエスは今尚我々のこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣を纏っていた人が大勢参加しております。他界後に身に付けた知識と霊力とを携えて、地上の人類に幅広く援助の手を差し延べる為の道具を求めております。使命感は死と共に終わるものではないのです。
 神は人間に〝疑う心〟を植え付けております。真実性を確かめる為の批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいが為に疑ってかかる人を私達は大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人は御免被ります。
 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意が出来たからです。
 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる-

-私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないと仰っています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別の所では〝未来永劫に亘って神の愛と愛の神が存在します。皆さんが愛念を表現する毎に神が自らを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他の諸々の言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にして頂けないでしょうか。

 分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。
 大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりも更に厄介な問題が生じます。
 物的世界は、他の全ての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。その作用は完璧であり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。
 生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。種蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理の下に生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
 こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行き渡っているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることは出来ません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることは出来ません。なぜならば摂理は完全な公正が行き渡るように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。霊格を誤魔化したり偽ったりすることは出来ません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神様ではありません。
 摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらす為のチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。

-全てが神の懐の中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 結構です。神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。

-新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結び付けたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手に拵えた信仰に合わせて働かせることは出来ません。霊的真理を自分の信仰の型に嵌め込むことは出来ません。いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではありえないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。
 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることは極めて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。
 例えば、先程大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊は全てであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。

-(最初に質問した牧師)私には何のことだか、訳が分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈もないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関わります。又、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

 別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人と共に招待され〝妻と共に生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる-

 あなたが私の説く真理の幾つかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。
 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者達も、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にして欲しいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人達が石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。
 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気溢れる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。

-私共は大霊があなたのような高級界の霊を通して語りかけてくださっていると理解しておりますが、人類の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。

 大霊は個的存在ではありません。大霊は個人が神格化されたものではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理・愛・叡智・真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休み無く作用している無限の知性です。
 それは数限りない自然現象の中に見ることが出来ます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人の為に尽くす時、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。
 又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気付けてあげる時の霊力の流れの中にも見ることが出来ます。
 一個の男性或いは女性として出現することは出来ません。個々の人間に宿る神性の発現という形で、部分的に顕現されることはありうるわけです。

-私達から大霊に直接語りかけることは出来るのでしょうか。もし出来るとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。

 あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合に過ぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。従って大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。あなたが愛・寛容心・慈悲・哀れみ・仁といった神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。なぜなら、あなたを通じて大霊が表現されているからです。
 一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意を行き渡らせることを任務とした高級神霊の一大組織が張り巡らされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、或いは声に出して祈ることによってでも、あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すということは良いことです。念じるだけではとかく乱れ易い思念を明確に纏め、具象化することになるからです。
 しかし声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政を司る任にある高級霊に届きます。