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自殺してはならない理由
(我々はいつかは肉体を捨てて次の世界へ行く。そこでの生活はどのようなものなのか、何をして過ごすのか、こうした疑問にシルバーバーチが答える)
こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽の回りを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。従って地上のような時間というものがありません。
こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐ為とか家賃を払う為とか衣服や食糧を買う為にするのではありません。
地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能をもつ人が次々と霊界へやってまいります。そういう人達はこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することが出来ます。
みんな自分がしたいと思うことに携わっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することが出来ます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことが出来ます。絵画に興味のある人も地上と霊界の傑作の全てを鑑賞することが出来ます。
子供が好きな人は両親に先立ってこちらへ来た子供の世話をすることが出来ます。魂に病のある者に関心を寄せる人は、そうした霊の為の更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事に携わります。それぞれに応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界の為の仕事に従事する者もいます。
とにかく地上を去ってこちらへお出でになれば、言葉では言い尽くせない程の豊かさが待ち受けております。例えば音楽であれば、地上に無い音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。その全てをお話することはとても不可能です。
-霊界へ行っても地上と同じように何等かの形体を具えるのでしょうか。
幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。又他人を認識する為の感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部揃っています。
ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能して行く上で必要な霊的器官を具えています。
よく理解して頂きたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり実感があり、霊というと何だか影のようで実体がないかに思えるのでしょうが、私達霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。
と言っても、人間が喋るに必要な器官は霊にはありません。喋る必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。存在するもの全てが思念で拵えられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることが出来るのです。(訳者注-別の所で、言葉で喋る必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際に喋り合っていると述べている。所謂地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気付かずに生活している霊には地上時代に使用した器官が全て残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)
海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、最早物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。
もう一つの霊界の有り難い点は、地上のような〝生きる為の必需品〟を得る為の苦労がいらないことです。食料品や衣類を買う必要はありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部揃っているのです。
-物的財産というものが無くなれば、貪欲とか権力欲とかも無くなりますか。
所謂幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前と全く同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。
私達から皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことは中々説明が難しいのですが、例えば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中では皆実在です。
こちらの世界では思念が全てのものを拵える素材です。ですから心に思うことが皆存在するわけです。貪欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気付くまで、それを待ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、漸く救われることになります。(これが本当の意味での〝成仏する〟ということ-訳者)
困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へ縛り付けます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私達より人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。
-と言うことは、地上近くをうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。
その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(注)。何の用意も身支度も出来ていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいる限り、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。
それで私達が地上人類の啓発の為にこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしい癌の発生を防ぐ為です。(注-同じく〝霊界〟という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である-訳者)
-霊界はこの地球からの他界者で占められていると仰いましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界も沢山あるのでしょうか。
神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個の豆粒のような存在でしかありません。
-地球のような世界が沢山あって、それぞれに霊界があるということですね?
霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児ではありません。
-となると〝死後の世界〟はどこにあるのかという問にはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが・・・
死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチする為の霊的感覚を発揮しない限り、それが認識出来ないというに過ぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面に過ぎません。
-その見えない世界の存在を認識する為に霊的感覚を養成することも、地上に生活している我々の義務と言ってよいでしょうか。
仰る通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識して初めて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気付かない限り、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。
-霊界から地上へ戻って来ると地上が陰鬱に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやって来ることになりますが・・・・
自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチする為に高いオクターブの振動に属する要素を霊界に預けて来なければなりません。
(質問者が代わる)
-なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。
それに対する答えは〝なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか〟という問に対する答えと同じです。学校を出た後の生活で直面する様々な情況に備えて、勉強させる為です。
物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去った後に訪れる生活に備えさせる為に、地上生活が様々な体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備える為の学習の一過程です。
物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方の言う神、私が大霊と呼んでいる絶対的エネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。
大霊の意志の表現である自然法則の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、或いはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。
人間界の法律は予期せぬ事情か生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規制されているのです。
私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはその為です。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現出来ません。
皆さんのどなたよりも永い間顕幽に跨る生命の旅を続けている私は、今尚、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完璧さに驚くことの連続です。
そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何等かの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的徳性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることに他ならないからです。
あなたは有限の知性でもって無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。
-あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。
あなた方の理解しておられる〝交信(コミュニケーション)〟の意味では〝ノー〟という答えになります。人間が交信するには口で喋るか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、従って無限なものを表現することは出来ません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。
霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、出来るだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。
-あなた達霊の方が私達人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。
あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。
それとも、〝密接〟と仰ったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得易いという意味でしょうか。それならば〝イエス〟です。なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮し易いからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性を全て発揮出来る段階が来ません。
(質問者が代わる)
-完全性は永遠に達成出来ない-完全を目指しての絶え間ない努力の連続であると仰るのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。
〝完全〟というものは、その本質故に達成出来ません。〝これで完全です〟という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。
完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出す為に絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知る程、又先に知るべきものが存在することを知ります。全知識の頂上に到達することは出来ません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。それが霊の属性の一つであり、無限であるが故に絶え間なく発展して行くことを意味します。
ところで、あなたは〝二重性〟という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。
-〝対照性の原理〟のことです。
私の言う〝両極性〟のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。もうこれでお終いという限界がない-どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。所謂ニルバーナ-霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。
-所謂因果律の次元を超えて、現在の我々に理解出来ない別の次元の摂理が存在しますか。
摂理は無限に存在します。が、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。
-このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。
人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことの出来ない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解して頂けるような原語では全く用をなさない、霊的実感の世界です。
(初めてサークルに招待された人が質問した)
-死後の生命の存在を立証しようとすると、色々と不可解に思えることが生じて来ます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今の我々と同じような、何等かの身体を具えたものなのでしょうか。
死後の生命と仰いますが、私は時折地上世界を見渡して、果して死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。全く生きているとは思えない人、或いは、仮に生きていると言えても、これ以上小さくなれない程お粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私達は人間のその五感に限られた状態で理解出来る範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるには全く無力です。
死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、上手く言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人達の憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。
経済問題かありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心の全てだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。
界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差が出来ています。あなたが他界後に落ち着く先は、あなたが地上で身に付けた霊的成長に似合った界層であり、それより高い所へは行けません。行きたくても行けません。又、それより低い所でもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。
霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをする為の行いに励むことになります。
埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せ掛けは剥ぎ取られてしまいます。全てが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても〝生きている〟ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。
もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それは嘘を言っていることになります。私に出来ることは、問題に正面から対処して克服して行く方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服出来ないものはありません。
霊は、今の私のように人間の口を借りて喋らなくても、いつまでも援助の手を差し延べることが出来ます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助出来ます。その時の条件下で可能な限り援助し続けましょう。
自殺してはならない理由
(我々はいつかは肉体を捨てて次の世界へ行く。そこでの生活はどのようなものなのか、何をして過ごすのか、こうした疑問にシルバーバーチが答える)
こちらには昼も夜もありません。地軸の回転に依存していないからです。太陽の回りを回転しているのではありません。こちらには永遠の光が存在します。従って地上のような時間というものがありません。
こちらへ来てからも仕事があります。が、それは自分がやりたいと思う仕事であって、お金を稼ぐ為とか家賃を払う為とか衣服や食糧を買う為にするのではありません。
地上で発揮されることのなかった能力や才能や技能をもつ人が次々と霊界へやってまいります。そういう人達はこちらでそれを存分に発揮して、霊界の住民として全体の豊かさの向上に寄与することが出来ます。
みんな自分がしたいと思うことに携わっております。霊界には無限の種類の楽しみがあります。音楽が好きであれば地上と霊界の名曲を鑑賞することが出来ます。コンサートも開かれております。文学が趣味の人は地上と霊界の名作を読むことが出来ます。絵画に興味のある人も地上と霊界の傑作の全てを鑑賞することが出来ます。
子供が好きな人は両親に先立ってこちらへ来た子供の世話をすることが出来ます。魂に病のある者に関心を寄せる人は、そうした霊の為の更生施設で看護し介抱して霊的健康を取り戻させる仕事に携わります。それぞれに応じた無限の種類の仕事があります。その上に更に私のように地上世界の為の仕事に従事する者もいます。
とにかく地上を去ってこちらへお出でになれば、言葉では言い尽くせない程の豊かさが待ち受けております。例えば音楽であれば、地上に無い音階が存在します。絵画であれば、地上に存在しない色彩があります。その全てをお話することはとても不可能です。
-霊界へ行っても地上と同じように何等かの形体を具えるのでしょうか。
幽霊や妖怪になるのではありませんよ。首のないお化けになるのではありませんよ。立派な胴体と、他人と区別のつく容貌を具えた、実在の個的存在です。又他人を認識する為の感覚もちゃんと具えております。霊の世界で生きて行く上で必要な霊的器官が全部揃っています。
ちゃんと姿があります。形体を具えております。個人的存在を有しております。具えていないのは肉体的器官だけで、それに代わって、霊界で機能して行く上で必要な霊的器官を具えています。
よく理解して頂きたいのは、あなた方人間にとって物質は固体性があり実感があり、霊というと何だか影のようで実体がないかに思えるのでしょうが、私達霊界の者にとっては霊こそ実在であり、実感があり、反対に物質の方が影のようで実体感がないということです。
と言っても、人間が喋るに必要な器官は霊にはありません。喋る必要がないからです。こちらの世界では思念で通じ合っています。お互いに思念を出し合い、それだけで通じ合えるのです。霊界では思念は実体のある存在なのです。存在するもの全てが思念で拵えられているのです。ですから、必要と思うものはどんなものでも手に入れることが出来るのです。(訳者注-別の所で、言葉で喋る必要があると思い込んでいる間はまだ幽質の発声器官が残っていて実際に喋り合っていると述べている。所謂地縛霊として地球圏内で自分が死んだことにも気付かずに生活している霊には地上時代に使用した器官が全て残っていて、同じように食べて飲んで寝るという生活を繰り返しているのが実情である)
海もあれば山もあり、湖もあり、花も樹木もあり、動物も小鳥もいます。その美しさの中には実際にこちらへ来ないと分からない種類のものがあります。ある程度の霊性に目覚めた者なら、最早物質界の愉しみ(飲食欲・性欲等)を求めなくなります。仮にいても、それは例外に属します。
もう一つの霊界の有り難い点は、地上のような〝生きる為の必需品〟を得る為の苦労がいらないことです。食料品や衣類を買う必要はありません。お金を払ってまでして家を求める必要がありません。全部揃っているのです。
-物的財産というものが無くなれば、貪欲とか権力欲とかも無くなりますか。
所謂幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前と全く同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。
私達から皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことは中々説明が難しいのですが、例えば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中では皆実在です。
こちらの世界では思念が全てのものを拵える素材です。ですから心に思うことが皆存在するわけです。貪欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気付くまで、それを待ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、漸く救われることになります。(これが本当の意味での〝成仏する〟ということ-訳者)
困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へ縛り付けます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私達より人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。
-と言うことは、地上近くをうろつく霊がますます増え、同時にそれが地上問題の解決を難しくしているということでしょうか。
その通りです。というのは、こちらの世界は地上からの他界者で構成されていることを知らねばなりません。地球からの渡来者しかいないのです(注)。何の用意も身支度も出来ていない未発達霊で適応性のない霊をそちらから送り込んでいる限り、地上と霊界双方の問題を増幅するばかりです。
それで私達が地上人類の啓発の為にこうして働いているのです。暴力・貪欲・唯物思想・利己主義・強欲等々、要するに世界各地での戦争と不協和音と分裂の元凶である恐ろしい癌の発生を防ぐ為です。(注-同じく〝霊界〟という言い方をしても地球圏の霊界、太陽の霊界、太陽系の霊界、銀河系の霊界、そして宇宙全体の規模の霊界がある。ここでは地球に限っての話である-訳者)
-霊界はこの地球からの他界者で占められていると仰いましたが、その世界は地球を取り巻くように存在しているのでしょうか。それともずっと遠くまで広がっているのでしょうか。霊界も沢山あるのでしょうか。
神は無限です。生命は無限です。あなた方の小さな天球は宇宙の中の一個の豆粒のような存在でしかありません。
-地球のような世界が沢山あって、それぞれに霊界があるということですね?
霊の住む世界は無数に存在します。あなた方はこの宇宙の孤児ではありません。
-となると〝死後の世界〟はどこにあるのかという問にはどう答えたらよいのでしょうか。明確に答えるのは困難だと思いますが・・・
死後の世界とは、要するに今生活している世界の目に見えない側面、耳に聞こえない側面のことです。死んでからではなく今の時点で霊の世界に住んでいるのです。死んでからそこへ行くのではありません。今いる場所に霊界があるのです。その世界の波長ないし振動、その他どう呼ばれても結構ですが、それをキャッチする為の霊的感覚を発揮しない限り、それが認識出来ないというに過ぎません。別個の世界ではないのです。宇宙全体を構成する不可欠の側面であり、地球もその小さな一側面に過ぎません。
-その見えない世界の存在を認識する為に霊的感覚を養成することも、地上に生活している我々の義務と言ってよいでしょうか。
仰る通りです。物質の世界の裏側に霊的側面があることを認識して初めて本当の意味で生きていることになります。霊的実在に気付かない限り、悲しいかな、霊的な意味で目と耳と口を塞がれているようなものです。
-霊界から地上へ戻って来ると地上が陰鬱に感じられるとおっしゃいました。するとあなたはどこか別の場所からやって来ることになりますが・・・・
自我の表現形態が変わるのです。霊界でのいつもの振動の速度を落とす操作をするのです。地上の低いオクターブをキャッチする為に高いオクターブの振動に属する要素を霊界に預けて来なければなりません。
(質問者が代わる)
-なぜ霊界と物質界とが存在するのでしょうか。なぜ霊界一つだけではいけないのでしょうか。
それに対する答えは〝なぜあなた方はお子さんを学校へ通わせるのですか〟という問に対する答えと同じです。学校を出た後の生活で直面する様々な情況に備えて、勉強させる為です。
物質界へ来るのも同じ理由からです。地上を去った後に訪れる生活に備えさせる為に、地上生活が様々な体験と挑戦の好機を提供してくれます。次の段階に備える為の学習の一過程です。
物質界、霊界、そして果てしなく広がる宇宙は、あなた方の言う神、私が大霊と呼んでいる絶対的エネルギーが顕現したものです。宇宙に存在する最高の力です。それは無限です。始まりも終わりもありません。その叡智も無限です。その愛も無限です。その貯蔵庫も無限です。
大霊の意志の表現である自然法則の働きは絶対です。かつて宇宙間に生じた現象、或いはこれから生じるであろう現象で、その働きによる配慮が為されていないものは何一つありません。
人間界の法律は予期せぬ事情か生じて絶えず改正が行われます。しかし自然法則は完璧です。その働きの及ばないものは存在しません。誰一人、何一つ、極大・極小、複雑・単純に関係なく、その働きからはみ出るものはありません。宇宙間のあらゆる事物、あらゆる環境、あらゆる事情、あらゆる現象が不変・不滅の法則によって規制されているのです。
私が何よりもまず、その絶対的な大霊に崇敬の念を捧げるのはその為です。荘厳さと深遠さにおいて、これに勝るものは何一つ、誰一人、存在しないのです。その知性の壮大さは到底地上の言語では表現出来ません。
皆さんのどなたよりも永い間顕幽に跨る生命の旅を続けている私は、今尚、あらゆる存在の次元において働いている自然の摂理の完璧さに驚くことの連続です。
そこで申し上げますが、宇宙に存在するものは何等かの役目があるからこそ存在しているということです。自然の摂理と調和して生きていれば、健康・幸福・霊的明るさ・精神的徳性という形でその恩沢を受けます。それは、内在する神性を発揮していることに他ならないからです。
あなたは有限の知性でもって無限なるものを理解しようとなさっていることを認識しておくことが大切です。
-あなたはその〝大霊〟と交信なさるのですか。
あなた方の理解しておられる〝交信(コミュニケーション)〟の意味では〝ノー〟という答えになります。人間が交信するには口で喋るか、書くか、とにかく何か道具を使用しなければなりません。自分の言いたいことを伝えるには言語を使用しなければなりません。しかし言語は有限なものであり、従って無限なものを表現することは出来ません。いかなる文章の達人も宇宙の無限性と、そこに存在するもの全てを、言語によって表現することは不可能です。
霊界では界層が高くなると意志の伝達が心と心との直接的なものとなります。そこで、私が大霊と交信し合うのかとのご質問ですが、交信が言語の使用を意味するのであればノーです。私達は直接的に意志を通じ合うのです。大霊の無限の力にチャンネルを合わせて、出来るだけ多くの力を頂戴するように努力するのです。
-あなた達霊の方が私達人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。
あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。
それとも、〝密接〟と仰ったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得易いという意味でしょうか。それならば〝イエス〟です。なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮し易いからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性を全て発揮出来る段階が来ません。
(質問者が代わる)
-完全性は永遠に達成出来ない-完全を目指しての絶え間ない努力の連続であると仰るのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。
〝完全〟というものは、その本質故に達成出来ません。〝これで完全です〟という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。
完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出す為に絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知る程、又先に知るべきものが存在することを知ります。全知識の頂上に到達することは出来ません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。それが霊の属性の一つであり、無限であるが故に絶え間なく発展して行くことを意味します。
ところで、あなたは〝二重性〟という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。
-〝対照性の原理〟のことです。
私の言う〝両極性〟のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。もうこれでお終いという限界がない-どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。所謂ニルバーナ-霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。
-所謂因果律の次元を超えて、現在の我々に理解出来ない別の次元の摂理が存在しますか。
摂理は無限に存在します。が、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。
-このサークルから離れている時のあなたは、どういうレベルの意識で機能しておられるのでしょうか。
人間の理解力を超えた境涯へ戻っております。霊の世界では地上的言語を超越し内的直覚を必要とする状態となります。私がこの地上を去って本来の次元の住処に引き返している間は、地上でこうして交信している時には出すことの出来ない高いレベルの意識を表現しております。それは皆さんに理解して頂けるような原語では全く用をなさない、霊的実感の世界です。
(初めてサークルに招待された人が質問した)
-死後の生命の存在を立証しようとすると、色々と不可解に思えることが生じて来ます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今の我々と同じような、何等かの身体を具えたものなのでしょうか。
死後の生命と仰いますが、私は時折地上世界を見渡して、果して死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。全く生きているとは思えない人、或いは、仮に生きていると言えても、これ以上小さくなれない程お粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私達は人間のその五感に限られた状態で理解出来る範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるには全く無力です。
死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、上手く言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人達の憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。
経済問題かありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心の全てだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。
界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差が出来ています。あなたが他界後に落ち着く先は、あなたが地上で身に付けた霊的成長に似合った界層であり、それより高い所へは行けません。行きたくても行けません。又、それより低い所でもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。
霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをする為の行いに励むことになります。
埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せ掛けは剥ぎ取られてしまいます。全てが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても〝生きている〟ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。
もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それは嘘を言っていることになります。私に出来ることは、問題に正面から対処して克服して行く方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服出来ないものはありません。
霊は、今の私のように人間の口を借りて喋らなくても、いつまでも援助の手を差し延べることが出来ます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助出来ます。その時の条件下で可能な限り援助し続けましょう。