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自殺してはならない理由
地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。
地球という天体上に住む人間の一人ひとりに生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気付いていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさを全く知らずにいます。霊的真理に気が付けば今何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。
我々はみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。
私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解出来ます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高める為の触媒として、それを克服して行かねばなりません。
地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではの様々な条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、所謂人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を享けた意味があるのです。つまりそうした様々な浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質に顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇して初めて発揮されるものなのです。
魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。
これは、霊的叡智を求める求道者の全てに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、その後に訪れる恩寵の有り難さが十分に理解出来ません。人の為に役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。
人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。全てが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧に出来上がっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。
神の法則に例外というものはありません。存在するものの全て-地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの-が神の配剤に与っているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さ過ぎて見落とされたり、大き過ぎて法則の枠からはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。勿論私にも、そして他の全ての人にも働いております。
これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をお持ちです。
しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教は信仰や憧れや願い事とは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、元々霊であるものが地上へ肉体を纏って誕生し、その束の間の生活の為ではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活の為に備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たす為に、霊界でそのまま生き続けるのです。
その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何等かの役目があります。そして、それを果たそうとすると、色々と困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服して行くべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させていく上において必要不可欠の要素なのです。
地上という所はバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引き替え霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。
太陽が燦々と輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解出来ません。困苦の真っ只中に置かれて初めて触媒が働くのです。
霊性の開発には晴天よりも嵐の方が為になることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられて初めて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で築き上げねばなりません。同じことが皆さん方全てに言えるのです。
霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意が出来なくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。
苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何等かの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がり始めます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有り難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性と言ってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、最早這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至って初めて魂が目を覚ますのです。
ですから、私達霊界の者は魂にその受け入れ準備が出来るまで根気よく待つ他ないのです。馬を水辺へ連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。
私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのお蔭で、我々の全てを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。
時折私は地上の同志の下を訪ねてみることがありますが、霊的知識を携えている筈の人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤である筈です。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。
地上には人間が思い患う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器-非常事態や危機に際して活用出来る霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決出来ない問題は何一つありません。
自殺してはならない理由
地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。
地球という天体上に住む人間の一人ひとりに生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気付いていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさを全く知らずにいます。霊的真理に気が付けば今何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。
我々はみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。
私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解出来ます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高める為の触媒として、それを克服して行かねばなりません。
地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではの様々な条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、所謂人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を享けた意味があるのです。つまりそうした様々な浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質に顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇して初めて発揮されるものなのです。
魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。
これは、霊的叡智を求める求道者の全てに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、その後に訪れる恩寵の有り難さが十分に理解出来ません。人の為に役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。
人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。全てが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧に出来上がっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。
神の法則に例外というものはありません。存在するものの全て-地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの-が神の配剤に与っているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さ過ぎて見落とされたり、大き過ぎて法則の枠からはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。勿論私にも、そして他の全ての人にも働いております。
これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をお持ちです。
しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教は信仰や憧れや願い事とは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、元々霊であるものが地上へ肉体を纏って誕生し、その束の間の生活の為ではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活の為に備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当たり前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たす為に、霊界でそのまま生き続けるのです。
その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何等かの役目があります。そして、それを果たそうとすると、色々と困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服して行くべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させていく上において必要不可欠の要素なのです。
地上という所はバイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引き替え霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。
太陽が燦々と輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解出来ません。困苦の真っ只中に置かれて初めて触媒が働くのです。
霊性の開発には晴天よりも嵐の方が為になることがあるものです。鋼が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられて初めて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で築き上げねばなりません。同じことが皆さん方全てに言えるのです。
霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意が出来なくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。
苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何等かの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がり始めます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有り難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性と言ってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、最早這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至って初めて魂が目を覚ますのです。
ですから、私達霊界の者は魂にその受け入れ準備が出来るまで根気よく待つ他ないのです。馬を水辺へ連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。
私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのお蔭で、我々の全てを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。
時折私は地上の同志の下を訪ねてみることがありますが、霊的知識を携えている筈の人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤である筈です。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。
地上には人間が思い患う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器-非常事態や危機に際して活用出来る霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決出来ない問題は何一つありません。