初訪問者はこちら
自殺してはならない理由


 初めて招待された女性が自分の教会に通う十代の若者にはどう霊的真理を説けばよいかを尋ねた。その教会は英国国教会には属しておらず、バイブル中心の教えは説いていないという。シルバーバーチはこう答えた。

 「今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一番良いと私は考えます。彼等の気持の中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分達を裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。その際にスピリチュアリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語に過ぎないのですから。
 それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今既に自分という存在の中に化学的分析も解剖も出来ない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類を見ない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸出来ているのです。しかし実は、その物的身体の他にもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在していることを説くのです。
 目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。愛を計量することは出来ません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることも出来ません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。
 あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたが既にご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子達にまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか-こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけが掴めると思います。
 それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑や嘲りは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子は直ぐにではなくても、その内芽を出し始めることでしょう。それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私達は地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中関わっております。それが私達霊団に課された大目的なのです。人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度も出来ていないまま霊界入りする人があまりに多過ぎるからです」

 別の日の交霊会で-
-若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうしたらよいでしょうか。

 「私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、特に身近な人を失うことによる胸を抉られるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。
 私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させる為に、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。
 私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうる全ての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下に置かれているということです。
 それ故地上に起きる出来事は全て法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡というものはないということです。法則は定められた通りに働くものであり、その意味では全てのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こす為に法則を廃棄する必要はないのです。
 そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影に過ぎないことを証明していることを指摘します。つまり肉体そのものには動力も生命力もないのです。肉体が動き呼吸し機能出来ているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のお蔭なのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使のようなものです。要するに霊が全てを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。
 そう述べてから更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮の宿に過ぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。
 以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます」

-霊能養成会に参加することはお勧めになりますか。

 「初めからは勧めません。最初は精神統一の為のグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているでしょう。瞑想によって普段隠れているものに表現のチャンスを与えるのです」

-それはうっかりすると、所謂神秘主義者にしてしまいませんか。

 「もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意志による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備が出来れば受け入れます。弟子に準備が出来れば師が訪れるものです」

-現代の若者に対して霊界から特別の働きかけがあるのでしょうか。それが血気盛んな若者を刺激して、自分でも訳が分からないまま何かを求めようとさせているのではないでしょうか。

 「今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、今自分達が置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。
 若者は本性そのものが物事を何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚(エクスタシー)を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。
 もとより霊的開発に手っ取り早い方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大変な修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身に付ける為には長期間に亘る献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。
 若者には是非とも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時初めて若者としての社会への貢献が出来ることになります」

-組織的社会に対するそうした若者の反抗についてお尋ねしたいのですが、その傾向は若者が霊界の波長に合い易くて、知らず知らずの内に霊界からの指図に反応しているのだという観方をどう思われますか。

 「私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です」

-若者も愛を基本概念とした神を求めております。彼等の思想は愛に根ざしています。教会中心ではなく神を中心としています。そうではないでしょうか。

 「反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者でなくなります。追求し、詮索し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこの度幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。
 こうした折に若者なりに自分達の住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活も全て霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のお蔭なのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。
 肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間全てが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就の鍵を握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。
 人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置き換えないといけません。利己主義を自己犠牲と置き換えないといけません。恵まれた人が恵まれない人に手を差し延べるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。
 私は絶対に悲観していません。私は常に楽観的です。人間世界の諺を使わせて頂けば〝ボールはいつも足下に転がっている〟と申し上げます。(フットボールから生まれた言い回しで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味-訳者)

-若者の関心が物的なものに偏っていること、つまりお金と地位だけを目的としている生き方に批判的であるようにお見受けしますが・・・・

 「私が若者が悪いと言っているのではありません。彼等は言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼等が何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。様々な分野でのパイオニアや改革者達が同胞の為に刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。
 見通しはけっして救いようのない陰鬱なものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部に過ぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とをもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることが出来るようにしようと心を砕いている人達が大勢いるのです」

-私にも子供がいます。私が大切だと思うアドバイスをしても必ずしも受け入れてくれませんが、そうした努力によって私も未来の為に貢献出来るのだと思うと慰められます。

 「とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時を持ち、受身の姿勢になることは出来ます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます」

-問題は結局良い環境を作るということでしょうか。

 「若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いが故に自分達の方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていた筈です。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは自然な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。(環境うんぬんではなくて)結局親として一つの手本を示して、その理由付けが出来るようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません」