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自殺してはならない理由


 「私は、自分で正しいと信じて行動する限りそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

 本章では今日の倫理、道徳並びに社会問題を扱うが、右の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりの内の社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。

 人種問題

-現代社会の風潮について心配し、或いは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしょうか。

 「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならない限り、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。憎しみと暴力と敵意を剥き出しにして強欲と怠慢を貪っている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。
 愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。その為にこそ神は各自にその神性の一部を植え付けられ、人類の一人ひとりが構成員となって出来上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。
 しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、共に進み、共に後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。
 それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常々言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。一旦霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。
 あなた方の霊に危害が及ぶことは決してありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難が振りかかっても、いささかも傷付くことなく切り抜けることが出来ます。地上で生じるいかなる出来事も、あなた方を霊的に傷付けたり打ちのめしたりすることは出来ません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整った時の霊の威力を証明するものがいくらでもある筈です。
 残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気付いている人は少数であり、まだ多数とは言えません。大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子は全て身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。
 霊的真理が世界各地に広がり浸透して行くにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せ始めます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることは出来ます。が、それによって神が意志を変更なさることはありません。
 もしもそれ位のことで神の意志が覆されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです-心を強く持ち、背筋を真直ぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっと上手く行きます」

-我々真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

 「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点から見て間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方は特に恵まれた立場にあります。人間は霊ですから、その霊の宿として相応しい身体を持たねばなりません。となると、その為の教育が必要となります。霊的観点から見て適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。
 動物を虐待することは霊的観点から見て間違ったことなのです。民族差別や有色人種蔑視は霊的視点から見て間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、最も大切な貢献をすることになります」

-私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感を煽って、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

 「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることは出来なくなると申し上げているのです」

-より多くを知っている我々がしっかりしなくてはならないと思います。

 「そうです。知識(の価値)が大きければ大きい程大きな責任を伴います」

 愛と寛容

-それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。

 「寛容性は霊性の真髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません」

-寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見極める必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならない筈です。

 「それに、悪とは何かということも見極める必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象の後に待ち構えている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発する程洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。
 人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目を瞑ることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し延べる用意が出来ていなければなりません」

-愛と寛容は優しさから生まれます。情愛で繋がった者に対しては、我々はその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。愛と寛容とを結び付けることが出来れば人類は更に高揚されると思うのですが・・・・

 「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。従って神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。私の言う〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者の為に自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。自分のことを顧みず、助けを必要とする人の為に出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」

 真の道徳の基準

-現代社会程不道徳が露わな時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人達は、五十年或いは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除のような仕事に一生懸命従事していたものだと言います。

 「不道徳とは一体何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考えていらっしゃることが私達から見ると大変非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。
 もとよりそれは人の心を傷付けたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。
 私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第て違って来ます。本質において、ある面では経済的並びに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というのは一直線に進むものではないからです」

-今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養って行く為にはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になり過ぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

 「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝等に加えらるべし」(マタイ・6・33)

-両方共可能だということですね?

 「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面を疎かにすることはない筈です。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊を疎かにしてもいけませんし、精神を疎かにしてもいけませんし、身体を疎かにしてもいけません。責任を持つべきことを回避してはいけません」

 人工中絶と避妊

 その日のゲストの一人が産児制限の問題を持ち出した。

-人間の誕生は自然法則によって支配されていると仰っておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

 「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何事も動機が正当であれば、正しい決着を見ます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ち構えている事実を忘れないでください」

 続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。
-それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」

-妊娠して直ぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることは出来ても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の折角の自然な生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違って来ます。常に動機というものが考慮されるのです。
 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことですが・・・・
 あなた方が生命を拵えているのではないのです。従ってその生命が物質界に顕現する為の媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人達が、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題ではないこと、いつの日かその人達は(医師も含まれる-訳者)その中絶行為の為に地上に誕生出来なかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなるものと私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それはけっして死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」

-今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」

-堕胎された霊はいつかは又誕生して来るのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、その折角の機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生して来ます」