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自殺してはならない理由
植物人間と安楽死
もう一人のゲストが脳障害の為に植物同然となり病院でただ機械に繋がれて生き永らえている人達の問題を持ち出して、こう尋ねた。
-そうやって生き永らえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人達の霊はどうなっているのでしょうか。肉体に繋がれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。
「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。度々申し上げておりますように、林檎は熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。
あなたの仰る脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機に関わることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることは出来ません。
脳に障害を受けた患者は、例えば動力源が故障した為に受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けた為に〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現が出来なくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。
要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られた筈の成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。
霊が身体を生かしめている限り、両者の繋がりは維持されます。霊と身体とを繋いでいる〝玉の緒(コード)〟-胎児と母胎とを繋いでいる〝へその緒〟と同じです-が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生して来た霊にとっては物的生活の始まりです」
-今にも死ぬかに思える人が機械によって生き永らえている例をよく耳にします。
「霊が身体から離れるべき時期が来れば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上繋ぎ止めることは出来ません。一旦コードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度繋ぎ止める力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」
ここから所謂安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。
-交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれた後一命を取り留めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つ出来なくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。
「バイブルのどこかにこんな言葉があります。〝神が与え、神が奪われる。有り難きかな神の御名〟(ヨブ記1・21。バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形となっている-訳者)
私がこの文句を引用したのは真実その通りだからです。人間は生命を創造することは出来ませんし滅ぼすことも出来ません。生命が機能する為の機関を提供することは出来ます。その機関を破壊することも出来ます。しかし生命は神からの贈物であり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。
なぜ?というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫を誘われるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しない筈です。
一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷が酷くて霊が自我を表現出来なくなった。この問題をあなたは身体上の問題と見ますか、それとも霊的な問題と見ますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。確かに見たところ身体的には全く動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることが出来るようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解出来るようにならない限り、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。
私は所謂植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。但し、そこにやむを得ない動機が有り得ることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」
サークルのメンバーの一人が尋ねる。
-一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私達にあるのではないでしょうか。
「病気とか異状或いは虚弱といった身体上のことを仰っているのであれば、現代医学で治すことも改善することも出来ないものがあることは認めます。しかし、素晴らしい効果のある、そして現に成果を挙げている治療方法が他にも色々あります。医学的診断のみを判定基準としてはいけません。そのことをしっかりと認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、又は改善されたケースが沢山あることを皆さんはよくご存知なのですから。
苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、一層強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生を全く別の視点から見詰めさせる大きな触媒となっています。
いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命ある限りは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。霊が宿っている限り元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることが出来ます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機が来れば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」
-私が知っているある癌患者はそろそろ痛みを覚え始めており、症状は良くないようです。
「でも傷みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それは何とかなります。そして、たとえ症状が耐え切れない段階に達しても、私達から見る限り、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いて来た全ての教説を裏切ることになりましょう」
ここで別のメンバーが「私達の経験でも手術不能の癌患者が心霊治療によって痛みが取れた例が沢山あります」と指摘する。
すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例も沢山あります」と反論する。
「結局我々は霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時の為に霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」
「でも、それでは今私が言っている患者を救うことは出来ません」
ここでシルバーバーチが答える。
「皆さんはいつでも治療を施してあげることが出来ます。祈ることによっても助けになってあげることが出来ます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受け止めてはなりません」
先のメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことを度々仰ってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議を挟むと-
「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいる限り耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。度々申し上げておりますように、晴天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるという風に、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それは最早幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験して初めて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達する為の手段となっているケースが沢山あります」
-残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。
「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはない筈です。これも人生の一コマだ、全てではなくホンの一部に過ぎないのだという認識が出来るからです」
-結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解出来る段階まで到達した人だけが受ければよいということになります。
「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤まることはないことを知ったということ、それだけです」
別のメンバーが論議に加わる。
-死にたくない患者も大勢いる筈です。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人達はまず死にたがらないだろうと思われます。
「安楽死の決定権は元々医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体の他に精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生で最も大切なことについて全く無知な人達に、そのような生死に関わる決定権がどうして預けられましょうか」
-万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、という宣誓書にサインをする人がいます。
「それはその人の自由意志によって行う選択です」
-その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。
「問題はありません」
-患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。
「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこの度の地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。
何度も申し上げておりますように、死は霊に準備が出来た時に訪れるべきものです。それは林檎が熟すると実が落ちるのと同じです。まだ熟し切らない内にもぎ取れば、その林檎は食べられません。霊も十分な準備が出来ない内に身体から無理矢理離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。
人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的は元々霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それも全て自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。
神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠の営みを、この地上生活という一欠片でもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、及びその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。
苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によって初めて真の姿を現すのです。
地上生活の出来事には必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持は私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、一体誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤まることは十分に有り得ることです。数々の誤診を犯している現実をご覧になれば分かります。
私達はあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見做し、人間が進歩と思っていることを禍の種と見做すことがあります。永遠を物的な物差しで計っても満足のいく解答は得られません。
例えば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生して来る前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気付くのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成する時が来てみると帳尻がきっちりと合っています。
どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するように努めてください。
永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。多分ご存知だと思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものなのです。
魂に及ぶものが一番大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者は常に反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼします。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使です。
身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることは出来るかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることは出来ません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」
自殺してはならない理由
植物人間と安楽死
もう一人のゲストが脳障害の為に植物同然となり病院でただ機械に繋がれて生き永らえている人達の問題を持ち出して、こう尋ねた。
-そうやって生き永らえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人達の霊はどうなっているのでしょうか。肉体に繋がれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。
「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。度々申し上げておりますように、林檎は熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。
あなたの仰る脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機に関わることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることは出来ません。
脳に障害を受けた患者は、例えば動力源が故障した為に受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けた為に〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現が出来なくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。
要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られた筈の成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。
霊が身体を生かしめている限り、両者の繋がりは維持されます。霊と身体とを繋いでいる〝玉の緒(コード)〟-胎児と母胎とを繋いでいる〝へその緒〟と同じです-が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生して来た霊にとっては物的生活の始まりです」
-今にも死ぬかに思える人が機械によって生き永らえている例をよく耳にします。
「霊が身体から離れるべき時期が来れば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上繋ぎ止めることは出来ません。一旦コードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度繋ぎ止める力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」
ここから所謂安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。
-交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運び込まれた後一命を取り留めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つ出来なくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けねばならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。
「バイブルのどこかにこんな言葉があります。〝神が与え、神が奪われる。有り難きかな神の御名〟(ヨブ記1・21。バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形となっている-訳者)
私がこの文句を引用したのは真実その通りだからです。人間は生命を創造することは出来ませんし滅ぼすことも出来ません。生命が機能する為の機関を提供することは出来ます。その機関を破壊することも出来ます。しかし生命は神からの贈物であり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。
なぜ?というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫を誘われるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しない筈です。
一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷が酷くて霊が自我を表現出来なくなった。この問題をあなたは身体上の問題と見ますか、それとも霊的な問題と見ますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。確かに見たところ身体的には全く動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることが出来るようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解出来るようにならない限り、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。
私は所謂植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。但し、そこにやむを得ない動機が有り得ることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」
サークルのメンバーの一人が尋ねる。
-一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私達にあるのではないでしょうか。
「病気とか異状或いは虚弱といった身体上のことを仰っているのであれば、現代医学で治すことも改善することも出来ないものがあることは認めます。しかし、素晴らしい効果のある、そして現に成果を挙げている治療方法が他にも色々あります。医学的診断のみを判定基準としてはいけません。そのことをしっかりと認識しなくてはいけません。医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、又は改善されたケースが沢山あることを皆さんはよくご存知なのですから。
苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、一層強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生を全く別の視点から見詰めさせる大きな触媒となっています。
いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命ある限りは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。霊が宿っている限り元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることが出来ます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機が来れば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」
-私が知っているある癌患者はそろそろ痛みを覚え始めており、症状は良くないようです。
「でも傷みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それは何とかなります。そして、たとえ症状が耐え切れない段階に達しても、私達から見る限り、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いて来た全ての教説を裏切ることになりましょう」
ここで別のメンバーが「私達の経験でも手術不能の癌患者が心霊治療によって痛みが取れた例が沢山あります」と指摘する。
すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし痛みが取れない例も沢山あります」と反論する。
「結局我々は霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時の為に霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」
「でも、それでは今私が言っている患者を救うことは出来ません」
ここでシルバーバーチが答える。
「皆さんはいつでも治療を施してあげることが出来ます。祈ることによっても助けになってあげることが出来ます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受け止めてはなりません」
先のメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことを度々仰ってますが、そうでないケースもしばしば見受けます」と異議を挟むと-
「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいる限り耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。度々申し上げておりますように、晴天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるという風に、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それは最早幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験して初めて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達する為の手段となっているケースが沢山あります」
-残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。
「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはない筈です。これも人生の一コマだ、全てではなくホンの一部に過ぎないのだという認識が出来るからです」
-結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解出来る段階まで到達した人だけが受ければよいということになります。
「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤まることはないことを知ったということ、それだけです」
別のメンバーが論議に加わる。
-死にたくない患者も大勢いる筈です。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人達はまず死にたがらないだろうと思われます。
「安楽死の決定権は元々医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体の他に精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生で最も大切なことについて全く無知な人達に、そのような生死に関わる決定権がどうして預けられましょうか」
-万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、という宣誓書にサインをする人がいます。
「それはその人の自由意志によって行う選択です」
-その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。
「問題はありません」
-患者が自由意志によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。
「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこの度の地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断(ショート)させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。
何度も申し上げておりますように、死は霊に準備が出来た時に訪れるべきものです。それは林檎が熟すると実が落ちるのと同じです。まだ熟し切らない内にもぎ取れば、その林檎は食べられません。霊も十分な準備が出来ない内に身体から無理矢理離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。
人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的は元々霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それも全て自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。
神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠の営みを、この地上生活という一欠片でもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、及びその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。
苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によって初めて真の姿を現すのです。
地上生活の出来事には必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持は私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、一体誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤まることは十分に有り得ることです。数々の誤診を犯している現実をご覧になれば分かります。
私達はあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見做し、人間が進歩と思っていることを禍の種と見做すことがあります。永遠を物的な物差しで計っても満足のいく解答は得られません。
例えば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生して来る前に、自ら覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。
こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気付くのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成する時が来てみると帳尻がきっちりと合っています。
どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するように努めてください。
永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。多分ご存知だと思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものなのです。
魂に及ぶものが一番大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者は常に反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼします。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使です。
身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることは出来るかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることは出来ません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」