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自殺してはならない理由
自殺の問題
人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。
-外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。
「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」
-死後の生命を信じるが故に死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上最早医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。
「ならばその時の動機付けが大切なポイントになります。同じ行為でも動機付けによって正当性が違ってきます」
-自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、惨めであるということですが、自殺する時の精神状態が既にそうであった筈ですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真の喜びと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。
「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理を誤魔化すことは出来ません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機が全てを決定付けます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしそこで言い訳をして自分で自分を誤魔化すようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」
ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。
-食べ過ぎ飲み過ぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見做されるのでしょうか、それとも死というのは予め定められているのでしょうか。
「答えはご質問の中に暗示されております。もしも予め定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向付けられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなる他はなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」
-私は死が誕生時から知られているのかどうか、又、その後の行いによって変えることが出来るのかどうか、その辺が確信出来ません。
「知られているというのは、誰にですか」
-おそらく生まれて来る本人、或いはそちらに残していく仲間の霊かと思います。
「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもって来ても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることは出来ません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。
人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることが出来ますが、その基本のパターンそのものを変えることは出来ません。定められたコースを自分で切り抜けて行かねばなりません。ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵に与る機会が与えられております。自ら求めるのでない限り、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」
死刑の是非
最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。
「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意も出来ていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一欠片も進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。
我々は生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備も出来ていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルの種を増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。
生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によって拵えられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。生命は神性を帯びているのです。ですから、生命及び各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません」
自殺してはならない理由
自殺の問題
人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。
-外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。
「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」
-死後の生命を信じるが故に死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上最早医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。
「ならばその時の動機付けが大切なポイントになります。同じ行為でも動機付けによって正当性が違ってきます」
-自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、惨めであるということですが、自殺する時の精神状態が既にそうであった筈ですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真の喜びと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。
「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理を誤魔化すことは出来ません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機が全てを決定付けます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしそこで言い訳をして自分で自分を誤魔化すようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」
ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。
-食べ過ぎ飲み過ぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見做されるのでしょうか、それとも死というのは予め定められているのでしょうか。
「答えはご質問の中に暗示されております。もしも予め定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向付けられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなる他はなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」
-私は死が誕生時から知られているのかどうか、又、その後の行いによって変えることが出来るのかどうか、その辺が確信出来ません。
「知られているというのは、誰にですか」
-おそらく生まれて来る本人、或いはそちらに残していく仲間の霊かと思います。
「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもって来ても、その下にあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることは出来ません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。
人間には相対的条件下での自由意志が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることが出来ますが、その基本のパターンそのものを変えることは出来ません。定められたコースを自分で切り抜けて行かねばなりません。ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵に与る機会が与えられております。自ら求めるのでない限り、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」
死刑の是非
最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。
「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意も出来ていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一欠片も進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、〝目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。
我々は生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備も出来ていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルの種を増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。
生命は神聖なるものです。その生殺与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるのではありません。物質が生命によって拵えられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。生命は神性を帯びているのです。ですから、生命及び各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません」