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自殺してはならない理由


 諸君は、今世界を侵そうとしている、軽信という病気の時代を癒したいと言う。諸君が蔓延を願っているのは不信、諸君はその不信の世界をむしろ見たいのか。家庭の絆を弛緩させ、社会を段々駄目にしていく多くの無秩序、それらの因ってくるところは、信仰の欠如にあるのではないか。心霊主義は、霊魂の実在と不滅を示し、来世の信を回復して、絶望する者に勇気を奮い起こさせ、世の浮沈に耐えることを可能にしてくれる。諸君はこれを悪というか。今、我々の前には、二つの教えが提示され、その選択が求められている。一つは、来世の生存を否定し、他方は、これを宣言し、証明する。一つは何も説明しないが、他は、全てを証明し、我々の理性に訴える。一方は利己主義を肯定するが、他方は、正義と博愛と隣人愛に基礎を置く。一つは、現在のみを示し、全ての希望を軽視するが、もう一つは、我々に広大な未来の生命を示して、慰めを与えてくれる。二つの内、どちらが有害であるか。
 我々に敵対する最も懐疑的な者達の中に、自らを友愛と進歩の徒と称するものがある。しかし、友愛とは私心のないこと、自分自身の自己犠牲を意味する。しかるに、何の権利があって、人に犠牲を課するのか。つまり、彼等は人間の死に対して次のように断言する、お前が死ぬと、何もかもお終いになるぞと。またこうも断言する、お前は明日にも、使い古した機械みたいに、ガラクタ同様捨てられてしまうぞと。もしこの通りならば、人間はなぜ貧乏に甘んじなければならぬのか。この短い時間を、出来る限り愉快に過ごそうと思うのが当然ではないのか。そこで、うんと快楽が得られるようにと、当然、沢山の物を所有したいと思うのではないか。こうして、この所有欲の為に、他の多くを所有する者達への嫉妬が生まれてくるのではないか。次いで、この嫉妬から、人の物を奪おうという、次の一歩が出て来る。この一歩を止める何かがあるだろうか。法律?だが、法律が全てをカバーできるとは限らない。良心?義務感?しかし、良心とは何か、諸君はどう考えられる?また、義務感をどんな基盤の上に諸君は置こうとするのか?もし、この人生をもって、全てが諸君と共に終るのなら、義務感にどんな動機、どんな目的をもたせられるか?このような信仰と結び付けて、ただ一つ、次の格言が浮かび上がってくる、[万人は自分自身の為にある]。友愛、良心、義務、人間性、進歩さえも、空しい単なる言葉である。ああ、このような教義を宣布する諸君、諸君はどれ程多くの害を社会に与えているか分からない、どれ程の罪の責任を自分に招いているか、諸君は知らない。しかし、我々は何故、責任という言葉を口にするのだろう。そのような種類のものは、唯物主義者には存在しない。彼は物にのみ敬意を表するのであるから。