○忘恩、そして世の友情のはかなさ、それが原因で味わう失望は、また人間の心の悲しみそのものではないでしょうか。
「左様。だが、我等は諸君等が、これら忘恩、また誠意を欠く友等に対して、憐みの心を持つよう教えたい。彼等の無情は、諸君等に対してより、彼等自分自身を傷つけることになろう。忘恩は利己主義から出る。利己的な人間は、いつか、自分と同じ冷酷な人間達に会うだろう。次の事を思いなされ、諸君等より善行の士達が、諸君等にまさって価値ある人士が、しかも、その愛の行為の見返りとして忘恩をもって報いられた事を。また、イエスの事を思い出してみなされ、その生時、あざけられ軽侮を受け、悪漢か詐欺漢のように取り扱われていたということ。諸君等が同じように取り扱われたとしても、だから驚くことはない。自分自身が良いことをした、この思いこそ、現世の報酬としておくがよい。自分が親切にしてあげた人達について、あれこれ頭を悩ますでない。忘恩があって初めて、諸君等は自分が善事を為す際の、忍耐力が試される。その事が諸君の今後の為になる。諸君の親切を心に留めなかった者達は罰せられる。その忘恩が大きければ、それに応じ罰も大となる」

○忘恩で失望すれば、人は心を無慈悲、無情にしようと思いませんか。
「実際はそうばかりではない。心の広い人々は唯善行をしたことを喜ぶものだから。彼等は心得ている、仮に彼等の善行をそれを受けた者が現世では忘れても、あの世では思い出し、恥じて忘恩の責めに苦しむということを」
-そうは分かっていても、だからといって、現世で心が傷つかないというわけではありますまい。この苦で本人はこう思いませんか、もっと自分が薄情なら、もっと案配がいいのだがと。
「左様だな、本人が利己的な喜びを求めるのならば。だが、その種の幸福はまことに憐れむべきものである。そのような人には次の事を理解させたがよい、つまり、彼を見捨てた忘恩の徒は、彼の友情に値しない者達である。また、自分が彼等を見損なっていたのだから、彼等を失ったとて別に悔やむことはないのではないのかと。今に自分をよく理解してくれる、別の友人達が沢山できるだろう。まことに憐れむべきは、自分にいわれなき苦しみを与えた彼の者達である。彼等は今にその重い罰をもって報いられよう。諸君等はこのような不義に、必ず傷つき冒されることのないよう。この不当な行為に超然としていてこそ、諸君は彼等を超える者であり得よう」
〔注解〕自然は人間に愛し愛されたいという思いを植え付けた。地上で得られる最大の喜びの一つは、自分と共感する心の持ち主と巡り会うことである。この共感は、これすべて愛と献身に満ちた至高の霊の世界で、いつの日か彼が味わう、それの毒味である。いささかの利己もないその幸福。