○共感し合う霊は互いに引き付けられるのに、霊が肉体をとると、愛が一方通行となることが多いのはどうしてですか。心底深い愛が片思いであったり、肘鉄を食ったりします。更にまた、命を懸けた相思相愛なのに、その愛が冷めたり、憎しみに変わったりもします。
「そういう感情の不一致は一つの罰である。しかしそれは一時的なものだ。それに、本当に愛し合っていると思っている人はどれだけいるだろう。と申すのは、二人はお互いを外観だけで判断しており、さて一緒に生活する段になると、お互いの愛が気まぐれにすぎなかったことに、やっと思い当たるのである。感じが良くて、素敵な人と、そう思うだけでは不十分。あなたの心を捕えた外観の裏にある真価が分かるのは、共に住んでからである。その反対に、初めは愛など芽生える筈ないと思えたのに、時を経て、不変の愛に入って行くカップルがどんなに多いことだろう。彼等の間には、互いの長所をしっかり認め合った、そこから生まれた相互畏敬の念が根ざしているのである。霊が愛するのであって、肉体が愛するのではない、この事を心得られよ。また、肉体的な魅力の迷妄が消えた時、霊は結ばれたものの真義に思い及ぶのである」
「愛には二種類ある-一つは肉体の愛、他は、魂の愛。この二つはよく間違えられる。魂の愛は、純粋でうまく共感し合っていれば、永続する。ところが、肉体の愛は壊れ易い。永遠の愛と思い込んでいる二人が、夢うつつの時が過ぎれば、憎み合ったりすることが多いが、これはその為である」

○一緒に暮さねばならない二人に、心が通い合ってないということは、悲哀の種ではありませんか。それも生活全体が傷つけられるわけですから、酷い悲しみではないでしょうか。
「それは確かに辛い。だが、それは常に諸君等の方に原因があって、そういう巡り合わせになっているのだ。第一に、諸君等の物差しが間違っている、好き合ってもいない二人が、一緒になるよう神が定めているなど、なぜそう考えたりするのか。第二に、その罪は諸君等自身にある、と言うのは、この結婚で、二人の愛による幸せよりも、プライドだとか野望の満足を目的としたりすることが多いのだから。その歪められた結果が、自ずからそこに現れているのである」