○富の不平等とは能力の不平等ではありませんか。能力が違いますと、富を手に入れる能力の違いとなってきますから。
「そうであり、そうではない。又、悪行であり、強奪でもあるか?あなたはこのことを何と考えなさるか」
-しかし、遺産は悪意の成果ではありませんか。
「どうしてそうだと言うのかね。その源を尋ねれば、それが必ずしも純なものかどうか、お分かりだろう。そもそもの初め、それは奪ったもの、ないしは不正の成果、そうではないと言えるかな。しかし、その初めが悪かったなどと言わないことにしても、富を追い求めること、それが真面目な追求の場合でも、それを早く手にしたい心の奥底の願い、それが褒めてよい心持だとお考えか?これは神の裁き給うところ。神の裁きはこの者の思うところよりも、しばしば厳しいものである」

○財産というものが、その源はよろしからぬ入手であるとしますと、これを相続した者はその責任を負っていますか。
「いや、他者の為した誤り、本人の関わり知らぬその事には、本人は何の責任もない。しかしながら、次の事を心得られよ。財産が特定の人に譲られるということは、不正の償いをその者にする機会を与える、そういう目的の為だけに譲られることがよくあるのだ。このことの納得がいけば、その本人には幸福がある。もしこの償いを、不正を為した人間の名においてするなら、その償いは両人の為となる。何となれば、この事を仕組んだ当の人物は後者、不正の源となった人物のことがよくあるから」

○法を犯していなければ、財産は概ね公平に配分するでしょう。我々は自分の行った財産の配分に、死後になって、責任があるということなのですか。
「種子の中にその果実はある。善行の果実は甘く、その他の果実は実に酸っぱい。この事は変わらず-心得ておかれよ」

○富の平等は可能なことですか。これまでにそんな事がありましたか。
「いや、可能ではない。能力や個性の相違の為にそれはそういかなくなる」
-そうですが、中には、社会の病気は全部救済できると信じる人々がいますが、いかがですか。
「そのような者は組織作りの職人、又は野心や嫉妬心で動かされている者達である。彼等が夢想する平等はたちまちに打ち倒されるもの、それは物事の勢いである。彼等はこの事が分かっていない。利己と闘いなされ、これが諸君等社会のペスト菌である。そして決して妄想を追わぬことだ」

○もし富の平等は可能でないとしても、幸福という面では同じなのでしょうか。
「いいや、だが幸福とは相対的なものであって、人は自分の中で納得するものがあると、それで充たされるものだから。つまり、真の幸福とは、各々の性向に適ったその人の時を持つということで、本人にとり気に食わぬ事に掛かり合うことではない。また、各人は別々の資質を持つのだから、色々な事の中に価値あることが見出されよう。平等とは万物の中に存在する。これを壊しているのは人間である」
-お説のような理解に、皆が立つことが出来ましょうか。
「正義の法を行うようになれば、人はやがてそうなる」

○自己の欠陥が原因で、困窮したり不幸になったりする人がいます。こういう人々に社会は責任はないのですか。
「責任はある。前に申したように、社会はそのような失敗の根源的原因であることが多い。またそれだけでなく、社会はその全成員の精神的教育に目を光らせておく義務がありはせぬか。社会は成員の悪い傾向を正すどころか、誤った教育でしばしばその判断を狂わしておる」