○破壊は自然法ですか。
「全てのものは破壊されること、これが必要である。その再生と更新の為に。諸君の言う破壊とは形の変化にすぎない、その目的は生命体の刷新改善にある」
-では、破壊本能は神慮によって、全ての生き物に与えられた。このように思われますが。
「神の創造物は、神がその目的を遂げられる為の道具である。生き物達は食物の為にお互いを滅ぼし合う。それがなければ殖え過ぎてしまうだろう。こうして再生産の均衡がこれで守られている。その為に、外衣である身体が利用されている。この外衣と申すは装飾に過ぎぬのであって、肝心な部分、思考する生命ではない。破壊されるのは、この外衣の部分に過ぎぬ。この肝心な部分、知性原理、これこそは破壊されぬもの、また、これは通り抜ける数々の変容の過程を経て、入念に仕立てられていくもの」

○生物の再生の為に破壊が必要なら、どうして自己保存などというものが生物にはあるのですか。
「破壊つまり死が、起こるべき時以前に起こらないように。早すぎる破壊は知的原理の発達を遅らせる。この故に、神は全ての生き物に、生と生殖の意欲を与え給うた」

○死によって私共は一層よい生活に入れます、死によって私共は現世の苦から解放されます、従って死は恐るべきものではなく願わしいものです。しかるに何故、人は身震いする死の恐怖の本能を持っているのですか。
「前に申したことがあるが、人間は長生きして、仕事の達成を求めるべきである。この目的の為に、神は人間に自己保存の本能を与え給うた。この本能があるから、人間は試練に耐えている。だが、その為に随分と、心が萎えてしまうこともあるが。内在の声が彼に囁く、死に負けるなと、進歩の為にもう一踏ん張りせよと。危険な目に遭うことがあるが、あれは警告である、神から与えられている寿命を生かしてしっかりやれという。しかるに、人は感謝もせず、神よりも自分の運に感謝する始末である」

○自然はなぜ自己保存と破壊の二つを、並べて置いたのですか。
「前に申したとおり、平衡を保つ為、その二つが釣り合う力となるのである。病気と治癒の二つは並んで置かれている」

○破壊は何処の世界においても、同じ様なものですか。
「それは夫々の世界の物質的レベルによって違いがある。上の方の、物質的にも精妙で、精神的にも浄化した世界では、破壊はなくなる。地上より進化した世界では、情況はすっかり違うのである」

○地上の人類にとって、破壊は常に必要なものですか。
「人間の霊が物質の主となっていく割合に応じて、破壊の必要は減っていく。それ故、人間が知性や精神を外に発揮するという事は、破壊の怖れが付きまとうという事だ」

○現況において、人間には、動物を無際限に殺戮する権利がありますか。
「食用の為、人間の安全の為、これ以外は権利ではない。乱用は権利とは申せない」

○その必要とか安全を超えた破壊は、いかがなものでしょう。例えば、狩猟、良い目的などではなく、ただ殺戮の楽しみだけで、ちょいちょい出掛けるような場合。
「それは獣性が霊性を支配している状態である。必要を越える破壊は、すべて神法違反である。動物は必要を限度として他を殺す。しかし、人間は自由意志があって、不要な殺戮を行う。人間はこのような自由の乱用の責任を問われることになろう。人間はむしろ戒めるべき悪の本能に、こうして身を委ねているのだから」

○動物の生命を奪うことについては、極端に神経質になる人がいますが、これは良いことですか。
「その事自体は立派だが、余り神経質になり過ぎるのは、神経の乱用である。従って、その効果は差し引きゼロとなる。その気持は、真実の愛というより、迷信的恐怖の所産なのである」