○崇拝は形の上の実践が大切なのでしょうか。
「真実の崇拝は心にある。崇拝を行う時は常に、神の目があなたに注がれていることを、心に止められよ」
-礼拝の行為は効果がありますか。
「左様、それが形だけのものでないならば。その態度がよろしければ礼拝は常に有効である。しかし、虚飾や形だけの礼拝、もっともらしいばかりで心の伴わぬもの、これは悪い態度であって、本人は気付かぬが害のあるものである」

○神は一定の方式に従って礼拝を行う人達をよしとされますか。
「神は心から真摯に礼拝する者を好み給う。また善を為し悪行を避け、自己の為に祈らず人の為に祈る者をよしとし給う」
「人はすべて兄弟であり、神の子等である。故に、神は神の法に従う全ての者を御許に呼び集め給う、その礼拝の形式が何であろうと」
「形だけの祈りを捧げる者は偽善者である。格好ばかりの祈り、祈りと行状の違う者、これは悪い礼拝を捧げる者である」
「キリストの名を口で唱えながら、高慢で、嫉妬深く、僻みっぽく、人を許すことを知らず、地上の財貨を追い求める者は、口先だけの信仰で心の伴わぬ者達である。全ての事を見そなわす神は、このような者にこう申されておる、『真理を知りながらこれに従わぬ者は、野蛮人に比して、同じ悪行でも百千倍の罪に値する、やがての日それ相応の報いを受けよう』と。盲人が道であなたにぶつかれば、あなたはこの者を許す。しかし目明きが同じ事をすれば、あなたはこれを咎める。これは道理である」
「だから、どんな礼拝の仕方がよいかなど、問わぬこと。それは、神に向ってどちらのお世辞がよろしいですか、と問うているに等しい。神への讃歌は、心のドアを通って神に届く、この事を心得られよ」

○自分の信じていない宗教の儀式を行うのはよくないことですか。それは関係者の、信仰は違ってもその人に敬意を表して行う場合ですが。
「この場合は、何れの場合もそうだが、どんな意図で行うのか。その気持が問題である。その人の信仰に対する敬意で行うのなら、それは間違いではない。それを物笑いの種にするような者に比べれば、それは遙かによい。後者は愛を欠いた罪である。しかし、単純に興味本位の為とか、見栄の為とかで行えば神の目からも人の目からも、賤しむべきことである。人に良く思われたい為に、唯ただ神の前に平つくばってみせる手合いを、神が喜ばれよう筈がない」

○礼拝は一人でするより、集まってやった方がよろしいか。
「思想や感情が同じ者達が一堂に集まれば、善霊を引き寄せる力は一層強くなる。神の礼拝の場合も同じ事である。しかしその為に、個人の礼拝は価値が低いと早合点してはいけない。個人の場合は、その人の思い通りの礼拝が可能になるのである」