○人身御供、かような習慣が太古よりございます。こんな極悪が神を喜ばせるなどという信仰に、人間はどのようにしてなったのでしょうか。
「まず第一点は、人間が神は一切の善の本源であることを知らなかったこと。原始民族の間では、物が霊よりも優れていること。未だ精神の発達が十分でないので、動物的本能のままに身を委せていること。第二点は、原始期の人間達はこう思った、生きているものは、神の目からすれば、単なる物体よりも価値あるものに違いないと。かような考え方で神への供犠が始まった。最初は動物、後には人間が。彼等の誤った観念によると、犠牲の価値に捧げ物の重要性は釣り合っていると思ったから。諸君も地上生活では、誰かに贈物をする場合、相手の人に示したいと思う愛着や配慮に見合った値段の品物を選択する。神性を知ることもなかった人間が、同じ事をしたとて当然のことであろう」
-では、動物の犠牲が人間の犠牲に進展したのですか。
「左様、その通りである」
-このご説明からしますと、人身御供というのは、人間の残忍性が起源ではないのですね。
「そうではない。神が喜んで下さるだろうという間違った考えからである。例えばアブラハムの話に目を向けなされ。後世に至り、人々はこの間違った観念を一層悪いものにしてしまった。個人的な怨恨の対策、その敵を犠牲に供することによって。しかし、神はいかなる種類の犠牲をも求められぬ、人間のみならず動物の犠牲も。無益な神の子等の殺傷によって、神の名が高められる筈のものでもあるまい」

○敬神の意図で捧げられた場合には、人間の犠牲を神が喜ばれたことがありましたか。
「ない、あり得ない。しかし、神は常に物事を行う時の意図を重視し給う。未開の故に、人々は同胞を犠牲にして、褒め称えるべき事をしたと信じていたかもしれぬ。この場合、神は彼等の意図を受け入れ給う。しかしその行為ではない。このような供犠を続けた結果、人類はこの誤りを知るに至った。更に高級な精神には受け入れられようもない犠牲の観念を忌避するに至った。私は『高級な』と申したが、その理由は次の通りである。どんなに肉の衣が厚く鈍重でも、その当時でも自由意志さえ働けば、人間の源や運命がチラリとくらいは分かったのである。現に既にその頃、直観によって自分達が行なっている、悪感情の満足の為に少なからず行なった犠牲の悪を、理解している者が沢山いたのである」

○「宗教的」と呼ばれる戦争を何と考えられますか。あの感情に昔同胞を犠牲にしたのと同じ根拠から出ているのではありませんか。とにかく、神に自分達を認めて頂く為に、自分達の信仰と違う者は根絶やしにしてしまおうと、狂信の国民を駆り立てるのですから。
「ああいう戦争は邪悪霊によってけしかけられている。戦争する者達は、自分のように兄弟を愛せという神の御意志とは、正反対の場に自己を置いているのである。いずれの宗教も、いかなる人も、その呼び名は違っても、同じ神を崇拝しているのである。しかるに何故、片方が片方を根絶やしにする為の戦争をするのか。その理由は単純、宗教が違うから、相手の宗教がいけないから。神から遣われた者の言葉を信じなくても、その者を見ない者にとっては、未だ弁解の余地はある。ともかく、火と剣で相手をねじ伏せて、平和の言葉を聞かせようとして、何が期待できようか。相手が進歩せねばならぬこと、諸君がキリストの教えを聞かせるよう努力せねばならぬこと、これはよろしかろう。しかし、これは穏やかに説得によって為されるべきことである、暴力と流血によってではない」

○動物の供犠よりも、果物を供えた方が、神の目からはよろしいわけですか。
「流血の犠牲よりも、果物の方が、明らかによろしい。しかし。前にも質問に答えたとおり、神の裁きの目はその意図に向けられている。神の目には物は余り意味をもたない。心を込めての祈りこそ、どんな供物にも増して、神には好ましい。もう一度繰り返す、意図、それが全てである。物、それは無」

○供物も、貧しい人の救済に捧げるなら、神には好ましいものではありませんか。
「神は常に善をなす者を祝福される。貧しい者苦しむ者を助けることは、神に仕える最善の道である。我等はここで、諸君が神の礼拝の為にする儀式を、神は好まぬと言うつもりはない。しかし、その為に多額の金が使われる。それはもっと有効に使える金である。神は万事単純を好み給う。心よりも外的な事に重きを置く者は、心の狭い霊である。されば、示されている心持よりも、神が形を重視されるということが、いやしくもあり得ようか」