○道徳法を定義すれば、何と言ったらよろしいですか。
「道徳法とは間違いのない人生を送る法、換言すれば、善と悪を見分ける為の法と申すべきか。それは神法の遵守を基本とする。人が善をその目的、その道として選ぶ時、人は正しく道を踏んでいる、これが神法の道である」
○善と悪をどのようにして見分けたらよろしいですか。
「善とは神法と一致するもの、悪とは神法から外れるもの、これが目安。従って、善行を為すとは神法に従うこと。悪を為すとは神法にもとること、これである」
○人は善悪を見分ける手段を持っているのですか。
「𠮟り、神を信じ、善を為す望みを抱く時、それがある。神は善悪二つを見分けるようにと、知性を授け給うている」
○人が道を誤っている時は、善悪のけじめが狂っていることなのですか。これも、明らかに間違っていながら、自分では正しいと思い込んでいるのですか。
「イエスは申した[人から自分がしてもらいたいと思う事を、人にも為せ]と。全ての道徳法は、この戒めの中にある。これを諸君の法となせ、その時、道を誤ることはない」
○善悪の法、互恵と連帯の法、これは言うは易く、中々行うは難しいものがあります。自然の法の中に、この行為をうまく規制してくれる安全弁がありますか。
「過食すれば身体を害する。この不快感、神は人に必要な秤を与え給うた。この物差しを越えれば人は罰せられる。万事がこの通りである。自然の法は全ての人に、この必要な限度を刻み付けている。この限度を踏み出せば、人は苦しみを受けて罰を受ける。人は万事においても、[もう充分]この声に注意を向けておれば、身を苦しめる病気の多くは避けられるのである」
○この自然界に、なぜ悪などがあるのですか。悪とは道徳上の悪のことですが。神は人類をもっと良い環境の中に創ることが出来なかったのですか。
「既述の通り、霊は素朴で汚れのないものとして創られている。神は自ら道を選択するように、人間に自由を与えられた。もし誤った道を選んで悪に馴染めば、その分だけ彼の人生航路は長くなる。もし彼の前に山がなければ、人は上り下りのあることを知る機会はない。もし岩がなければ、世に固いものがあることを知ることもない。霊には経験が必要である。そのゴールに至るには、善悪ともに知らねばならぬ。この為に、魂は肉体を身にまとうのである」
○社会的立場が違えば、人の抱く欲求もまた夫々違ってきます。それ故、自然法は、万人に通用するとは思えませんが。
「地位や状況の違いは自然であり、進歩の法に従っている。その為に、万有に働く自然の法の統一性が否定されるわけのものではない」
○善悪は誰にとっても絶対的なものですか。
「神法は誰にとっても同じ。しかし、悪は悪を犯そうとする思いの中に住む。善は常に善であり、悪は常に悪である、人の立場が何であろうと、相違があるとすれば、責任の度合いだけである」
○野蛮人が本能のままに人肉を食べる時、これは罪を犯したことになりますか。
「悪の本質は意志にあると、先程申しましたな。されば、人はその心の光に応じて罪であり、罪ではない」
○悪は、時にはもののはずみと思えるものがあります。例えば、ある場合には、それは物の生命を奪うに至るまでの破壊の必然と申しますか。このような場合も神法の違反と言えますか。
「この場合も、事の成り行きとは申せ、悪は悪である。ただ、魂が浄化していれば、それに応じてこのような必然性と申すか、それも消えていく。この場合、過ちを犯せば彼は前以上にけしからんことになる。というのは、自分が何をしているか、その行為を前よりもはっきり知る者となっているから」
○人のせいで、そういう立場に置かれて、我々が悪を犯すということがしばしばあります。この場合、どこに一番の不都合な点がありますか。
「過ちを犯す原因となった者にある。つまり、人のせいでその立場に置かれ、過ちを犯す破目になった人は、道を誤らせた者よりも罪は軽い。何となれば、人は自分の犯した悪の罰だけでなく、人をそこに誘い込んだことの罰を受けねばならぬものだから」
○他者の悪行で利益を受ける者は、その犯行に参加していなくても、その犯行に参加した者と同じように罪がありますか。
「ある。ある罪から利益を受ける者は、その罪に参加することである。恐らく、その罪の実行には尻込みしたのであろう。しかし、悪が実行され、それから利益を受ければ、それはその行為をしたのと同じ事だ。そのことはまた、もしそれが自分に可能なら、敢えてしようとすれば、彼はその犯行に参加していたという事であるから」
○悪をしようと思うことは、その悪をすることと同じことですか。
「それは場合による。悪への欲求を自分で抑えることは良いこと、特にそれがやれる状況にある時には。しかし、やりたくても機会がなくて、それをやらなかった場合は、その悪をしたのと同じことである」
○神の目から見てよしとされ、未来の幸福を確実にするには、悪をなさなかった、この事で充分でしょうか。
「いや、そうではない。善を為すこと、自分に出来る限りの、この事がまた必要なのである。人は自分の為した悪の全てに対してだけでなく、し損なった善全てに対しても、その報いを受けねばならぬのである」
○その立場上、善行が行えないという人がいましょうか。
「善行が出来ないという人は一人もいない。善が行えないというのは利己主義の為である。他者と交わっているという事実がある限り、人は善行を為す機会を持つ。人が利己的でない限り、人は日毎善行の機会を持っている。何となれば、善事を為すとは、人に物を施すことに限らない、他者が助けを必要としている時、出来る限りの手助けをその人にしてあげること、これであろう」
○人の置かれている立場によって、悪徳や罪が非常に犯し易い、そういう事がよくあるのではありませんか。
「左様。しかし、これは本人の霊が出生の前に既に選んだ、試練の一つなのである。これによって抵抗の力を得んが為に、試練に身を晒すことを彼は選んだのである」
○悪徳の雰囲気の中に人が投げ入れられれば、悪への衝動は抑えられないのではありませんか。
「衝動は強い、しかし、堪えられない訳ではない。というのは、人は悪徳の中にあっても、徳行を為す機会を見出すものだから。悪徳の誘惑が充ちている中で、徳をしっかりと守る人は、もともと誘惑に負けないだけの力を充分備えている人であり、また、この試練を通じて、彼は周囲の人々に良い影響を与える使命を、果たしているのである」
○徳行の価値は、その時本人が置かれていた立場で、評価が違ってくるのでしょうか。換言すれば、善行には程度の差が色々あるのかという事ですが。
「徳行の価値とは、それを為す困難度にある。もし自己犠牲と努力がなければ、善事の価値はない。神はそれを、富者の多額の献金よりも、貧者の一灯をもって計り給う。イエスはその事を、老婆の例え話をもって教えたではないか」
「道徳法とは間違いのない人生を送る法、換言すれば、善と悪を見分ける為の法と申すべきか。それは神法の遵守を基本とする。人が善をその目的、その道として選ぶ時、人は正しく道を踏んでいる、これが神法の道である」
○善と悪をどのようにして見分けたらよろしいですか。
「善とは神法と一致するもの、悪とは神法から外れるもの、これが目安。従って、善行を為すとは神法に従うこと。悪を為すとは神法にもとること、これである」
○人は善悪を見分ける手段を持っているのですか。
「𠮟り、神を信じ、善を為す望みを抱く時、それがある。神は善悪二つを見分けるようにと、知性を授け給うている」
○人が道を誤っている時は、善悪のけじめが狂っていることなのですか。これも、明らかに間違っていながら、自分では正しいと思い込んでいるのですか。
「イエスは申した[人から自分がしてもらいたいと思う事を、人にも為せ]と。全ての道徳法は、この戒めの中にある。これを諸君の法となせ、その時、道を誤ることはない」
○善悪の法、互恵と連帯の法、これは言うは易く、中々行うは難しいものがあります。自然の法の中に、この行為をうまく規制してくれる安全弁がありますか。
「過食すれば身体を害する。この不快感、神は人に必要な秤を与え給うた。この物差しを越えれば人は罰せられる。万事がこの通りである。自然の法は全ての人に、この必要な限度を刻み付けている。この限度を踏み出せば、人は苦しみを受けて罰を受ける。人は万事においても、[もう充分]この声に注意を向けておれば、身を苦しめる病気の多くは避けられるのである」
○この自然界に、なぜ悪などがあるのですか。悪とは道徳上の悪のことですが。神は人類をもっと良い環境の中に創ることが出来なかったのですか。
「既述の通り、霊は素朴で汚れのないものとして創られている。神は自ら道を選択するように、人間に自由を与えられた。もし誤った道を選んで悪に馴染めば、その分だけ彼の人生航路は長くなる。もし彼の前に山がなければ、人は上り下りのあることを知る機会はない。もし岩がなければ、世に固いものがあることを知ることもない。霊には経験が必要である。そのゴールに至るには、善悪ともに知らねばならぬ。この為に、魂は肉体を身にまとうのである」
○社会的立場が違えば、人の抱く欲求もまた夫々違ってきます。それ故、自然法は、万人に通用するとは思えませんが。
「地位や状況の違いは自然であり、進歩の法に従っている。その為に、万有に働く自然の法の統一性が否定されるわけのものではない」
○善悪は誰にとっても絶対的なものですか。
「神法は誰にとっても同じ。しかし、悪は悪を犯そうとする思いの中に住む。善は常に善であり、悪は常に悪である、人の立場が何であろうと、相違があるとすれば、責任の度合いだけである」
○野蛮人が本能のままに人肉を食べる時、これは罪を犯したことになりますか。
「悪の本質は意志にあると、先程申しましたな。されば、人はその心の光に応じて罪であり、罪ではない」
○悪は、時にはもののはずみと思えるものがあります。例えば、ある場合には、それは物の生命を奪うに至るまでの破壊の必然と申しますか。このような場合も神法の違反と言えますか。
「この場合も、事の成り行きとは申せ、悪は悪である。ただ、魂が浄化していれば、それに応じてこのような必然性と申すか、それも消えていく。この場合、過ちを犯せば彼は前以上にけしからんことになる。というのは、自分が何をしているか、その行為を前よりもはっきり知る者となっているから」
○人のせいで、そういう立場に置かれて、我々が悪を犯すということがしばしばあります。この場合、どこに一番の不都合な点がありますか。
「過ちを犯す原因となった者にある。つまり、人のせいでその立場に置かれ、過ちを犯す破目になった人は、道を誤らせた者よりも罪は軽い。何となれば、人は自分の犯した悪の罰だけでなく、人をそこに誘い込んだことの罰を受けねばならぬものだから」
○他者の悪行で利益を受ける者は、その犯行に参加していなくても、その犯行に参加した者と同じように罪がありますか。
「ある。ある罪から利益を受ける者は、その罪に参加することである。恐らく、その罪の実行には尻込みしたのであろう。しかし、悪が実行され、それから利益を受ければ、それはその行為をしたのと同じ事だ。そのことはまた、もしそれが自分に可能なら、敢えてしようとすれば、彼はその犯行に参加していたという事であるから」
○悪をしようと思うことは、その悪をすることと同じことですか。
「それは場合による。悪への欲求を自分で抑えることは良いこと、特にそれがやれる状況にある時には。しかし、やりたくても機会がなくて、それをやらなかった場合は、その悪をしたのと同じことである」
○神の目から見てよしとされ、未来の幸福を確実にするには、悪をなさなかった、この事で充分でしょうか。
「いや、そうではない。善を為すこと、自分に出来る限りの、この事がまた必要なのである。人は自分の為した悪の全てに対してだけでなく、し損なった善全てに対しても、その報いを受けねばならぬのである」
○その立場上、善行が行えないという人がいましょうか。
「善行が出来ないという人は一人もいない。善が行えないというのは利己主義の為である。他者と交わっているという事実がある限り、人は善行を為す機会を持つ。人が利己的でない限り、人は日毎善行の機会を持っている。何となれば、善事を為すとは、人に物を施すことに限らない、他者が助けを必要としている時、出来る限りの手助けをその人にしてあげること、これであろう」
○人の置かれている立場によって、悪徳や罪が非常に犯し易い、そういう事がよくあるのではありませんか。
「左様。しかし、これは本人の霊が出生の前に既に選んだ、試練の一つなのである。これによって抵抗の力を得んが為に、試練に身を晒すことを彼は選んだのである」
○悪徳の雰囲気の中に人が投げ入れられれば、悪への衝動は抑えられないのではありませんか。
「衝動は強い、しかし、堪えられない訳ではない。というのは、人は悪徳の中にあっても、徳行を為す機会を見出すものだから。悪徳の誘惑が充ちている中で、徳をしっかりと守る人は、もともと誘惑に負けないだけの力を充分備えている人であり、また、この試練を通じて、彼は周囲の人々に良い影響を与える使命を、果たしているのである」
○徳行の価値は、その時本人が置かれていた立場で、評価が違ってくるのでしょうか。換言すれば、善行には程度の差が色々あるのかという事ですが。
「徳行の価値とは、それを為す困難度にある。もし自己犠牲と努力がなければ、善事の価値はない。神はそれを、富者の多額の献金よりも、貧者の一灯をもって計り給う。イエスはその事を、老婆の例え話をもって教えたではないか」