-ヨガの行者の中には、霊との交信は危険であり有害であると言う人がいます。そして彼らは、背後霊の援助なしに直接的に神との交流をもつのだと言います。それが事実だとすると、スピリチュアリズムはなぜ指導霊などの世話にならなければならないのでしょうか。

「もしも宇宙の最高神と直接の交流がもてるとすれば、指導霊のような中間的存在は無用となるでしょう。が、そんなことが出来るかの如き言葉を耳にすると、私は、言いたくはないのですが、[キザな霊的俗物根性]の響きを感じずにはいられません。
 私達は、地上の人間であろうとこちらの世界の者であろうと、みんな大霊の子です。子供なのです。交信が出来るのは、各自が到達した霊性開発の熟達度に応じた範囲内でのことであって、至高の極致など、とんでもありません。勿論、より高いものを求めるのは結構なことです。が、それも日々の生活で獲得する進化によって初めて可能なのです。
 私のような指導霊がなぜ地上圏へ戻ってくるのか、そして、その為に敢えてそれまでに獲得した霊的資質まで犠牲にするかといえば、地上の人々を本来の霊性に目覚めさせ、せめて地上において霊的進化の階梯の最初の一歩を踏ませてあげたいと望むからです。それがその後の進化を促進することになるのです。
 大霊との触れ合いの問題ですが、それも各自の霊的発達に関わる問題です。生命を授かったということ、すなわち地上に生を享けたという事実それだけで大霊との間の霊的な繋がりがあることを意味し、その生命力にあずかることが出来ることになります。
 が、どの程度の触れ合いが出来るかとなると、それは各自の霊的発達の程度によって違ってきます。大霊は無限の存在ですから、触れ合いにも無限の段階があることになります。各自が最善と思える方法によって、霊的啓示という目標に向けての手段を講ずることです」