ある日の交霊会で、死後の世界とそこでの生活の様子が主な話題となった。その中でシルバーバーチは、最近他界したばかりの人の現在の状態を説明して、地上に隣接した下層界は何もかも地上とそっくりであると述べた。すると次のような質問が出された。

-幽界がこの世とそっくりであるというのが、私には理解出来ないのですが・・・

「地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。もしそうでなかったら、何の予備知識もない幼稚な霊に、耐え切れないショックを与えることでしょう。ですから、霊界への導入は優しい段階を経ながら行われることになります。こちらへ来て直ぐの生活の場は、地上と非常によく似ているということです。自分が死んだことに気付かない人が大勢いるのは、その為です。
 こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念の世界ですから、思念が生活と活動のすべてに形態を与えます。他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現も極めて地上的で、考える事が全て物的感覚によって行われます。
 そういう人達は[物]を離れての存在を考えることが出来ません。かつて一度も、生命というものが物的なものから離れた形で意識にのぼったことがないのです。霊的な活動を心に思い浮かべることが出来ないのです。精神構造の中に、霊的なものを受け入れる余地が無いのです。
 ですが、死後の世界の生活にも段階があり、意識の開発と共に、徐々に、着実に地上臭が取れていきます。そして、生命というものが物的な相(すがた)を超えたものであることが分かり始めます。そして、自覚が芽生えると、次第にそこの環境に反応しなくなり、いよいよ本当の霊の世界での生活が始まります。こうして、死と誕生(に相当するもの)が何度も繰り返されるのです」

-死後の世界での体験は主観的なのでしょうか。客観的なのでしょうか。

「客観的です。なぜかといえば、こちらの生活はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこから離れていきます。成長と向上と進化によって霊的資質が身につくと、自然の摂理によって次の段階へ移行するのです」

-ということは、夢の世界ではないということですね?

「そこを通過してしまえば、夢の世界だったことになります。そこで生活している間は現実の世界です。それを[夢]と呼ぶか呼ばないかは、観点の違いの問題です。あなた方も夢を見ている間は、それを夢だとは思わないでしょう。夢から覚めて初めて夢だったことを知り、[なんだ、夢だったのか]と思うわけです。ですから、夢が夢幻的段階を過ぎてしまうと、その時の体験を思い出して[夢だった]と言えるわけです。ですが、その夢幻を体験している間は、それがその霊にとっての現実です」

-全ての人間が必ずその低い界層からスタートするのでしょうか。

「いえ、いえ、それはあくまでも、何の予備知識も持たずに来た者や幼稚な者に限っての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることの出来ない人の場合です。
 あなた方が[幽界]と呼んでいるところは、霊の世界の中の小さな区域です。それは、低い境涯から高い境涯へと至る、無数の段階の一つにすぎません。周囲が仕切られているわけではありません。それを[界]と呼んでいるのは、あなた方に理解できる用語を用いるしかないからです」

引き続き霊界での成長について-
「一つの界から次の界へよじ登って行くのではありません。自然に成長し、自然に進化していくのです。程度の低い要素が、程度の高い要素にその場を譲っていくのです。何度も死に、何度も誕生するのです。幽体は、肉体の死のような過程で失われていくのではありません。低級なものが消えるにつれて、浄化され精妙になっていくのです。それが幽体の死です。
 そもそも[死]とは変化であり、復活であり、低いものから高いものへの上昇です。時間と空間に縛られた地上的制約から解放された霊の世界を説明しようとすると、何かと困難に遭遇します。低いものは高いものを理解出来ません。有限なるものは無限なるものを包含することは出来ません。小さい器は大きい器を入れることは出来ません。奮闘努力の生活の中で理解力を増していくしかありません」

-幽界では、例えば心臓なども残っていて、やはり鼓動するのでしょうか。

「肉体器官の機能が残っているか否かは、その霊の[自覚]の問題です。地上生活の後にも生活があることを知らず、霊の世界があることなど思いも寄らない人の場合は、地上で具えていた肉体器官がそっくりそのまま残っていて、肉体的機能を続けています。あらゆる機能です」

-では、霊の世界についての理解をもった人の場合はどうなりますか。

「幽体の精妙化の過程がスムーズに進行します。ある器官が霊の生活に不要となったことを自覚すると、その器官が退化し始め、そのうち消滅してしまいます」

-死の直後からそういう現象が生じるのでしょうか。それとも、ゆっくりとした過程なのでしょうか。

「それも霊的自覚の程度によります。程度が高ければ、それだけ調整期間が短くて済みます。忘れてはならないのは、私達の世界は精神的な世界、霊の世界であり、そこでは自覚というものが最優先されるということです。精神が最高の権威を持ち、支配しています。精神が指示したことが現実となるのです。
 昔から、高級界からやって来た霊のことを[光り輝く存在]というふうに述べていて、姿形をはっきり述べていないことにお気づきになったことはありませんか。外形というものが無くなっていくのです。つまり形による表現が少なくなっていくのです」

-最後にはどういう形態になっていくのでしょうか。

「美はどういう形態をしているのでしょう?愛はどういう形態をしているのでしょう?光はどんな形態をしているのでしょう?」

-形態を超越してしまうと、色彩が認識の基本になるのでしょうか。

「その通りです。ただし、地上世界の基本的色彩となっているものが幾つかありますが、私達の世界には、あなた方の理解力を超えた別の色彩の領域が存在します。私達は高級霊の姿から発せられる光輝、そのメッセージと共に届けられる光によって、その方がどなたであるかを認識することが出来ます。形態というものが全く無いことがあるのです。ただ思念があるのみで、それに光輝が伴っているのです」

-翼がついている天使の絵をよく見かけるのですが、あの翼の概念はどこから来たのでしょうか。

「太古の人は宇宙を三段に分けて想像しました。自分達が立っている台地(地球)が真ん中にあって、その上に天国が、その下に地獄があると考えました。そして、その天国からも地獄からも訪問者がやって来ると信じ、そうなると天空を降りてくる天使には翼がある筈だと想像しました。鳥と同じ翼がなければ遠い距離を飛んで来れる筈がないと考えたわけです。こうして翼のある天使の概念が生まれました」

-実際に翼のある天使がいるのでしょうか。

「います。ですが、それはただの想念体にすぎません。霊の世界に翼は必要ありません。私達が霊媒にある概念を伝える場合にも想念による絵画を使用することがあるのですが、地上の幼い子供達が天使には翼があるものと思い込んでいる場合には、それに合わせて翼のある天使をイメージして届けることがあります。それが守護の天使として定着したのです」

 話題が変わって、他界した身内の者や友人・知人は、姿こそ見えなくても、地上にいた時より一層身近な存在となっていることを説いて、こう述べた。

「その方達は今なお実在の人物であり、地上にいた時と同じように、あなた方のことを気遣ってくれていることを忘れてはなりません。彼らはもはや言葉で話しかけることは出来ませんし、あなた方もその声を聞くことは出来ませんが、あなた方のすぐ身の回りにいて、何かと面倒を見てくれております。
 そう言えばそんな感じがすると思われるでしょうが、実際はもっともっと密接な関係にあります。彼らはあなた方の心の秘密、口に出さないでいる欲求・願望・希望、そして心配なさっていることまで、全部読み取っております。そして地上的体験から、あなた方の魂の成長にとって必要なものを、摂取するように導いてくれております。決して薄ボンヤリとした、影のような、或いはモヤのような存在ではありません。今なお皆さんのことを愛し、以前より更に身近な存在となっている、実体のある男性であり、女性なのです」

-霊界でも心霊治療を受ける人がいるそうですが、どういう人達でしょうか。

「様々な原因から、霊的身体に欠陥が生じている場合です。例えば無惨な事故で急死した場合は、新しい霊的生活に順応する為の調整が必要です。それを霊的エネルギーの注入によって行います。また地上時代ずっと、脳の欠陥の為に精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終った人の場合などです」

-戦争で爆弾の直撃を受けて、こっぱみじんになって死んだ場合はどうなりますか。

「これも、こちらの世界へ次々とやってくる他界者の為の受け入れ施設が受け持っている仕事の一環にすぎません。地上でも、道端に倒れている人がいれば病院へ運ぶという仕事が、戦争になると負傷兵を看護する施設へと発展するように、こちらでも、通常の受け入れ態勢の他に、様々な原因からいきなり放り込まれた霊界の生活に順応させる施設が沢山用意されております」

 別の日の交霊会で、前に一度シルバーバーチを通じて出席者の一人に、地上時代に掛けた迷惑についての詫びを述べたことのある霊が、その日にまた同じことについての詫びを改めて届けてきた。その詫びの言葉を述べた後、シルバーバーチがこう語った。
「あなたが、もういいのに、と思われる気持は私にはよく理解できます。でも、彼には詫びの気持を述べずにはいられない事情があるのです。懺悔をするということは、あなたに対してというよりは、彼自身にとって意味があるのです。
 他界した者が地上時代の行為について懺悔の気持を何らかの形で届けたいと思うようになるということは、本当の自我に目覚めつつあることの証拠です。あなたにとってはもう過ぎたことであり、忘れていらっしゃるかも知れません。が、その行為、ないしは事実は、霊的自我に刻み込まれていて、霊性が成長し、それについての正しい評価が下されるまでは、絶対に消えることはありません」

更に別の日の交霊会でも、他界した後に抱く地上界への思いを、こう述べた。
「皆さんは、一旦霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人達の気持がどんなものか、考えてみたことがおありですか。地上界を去ってこちらへ来てみて視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、その喜びを何とかして地上の愛する人達に教えてあげたいと、一生懸命になっている霊が大勢いることをご存知でしたか。
 ところが人間は、そういう人達の働きかけに全く鈍感なのです。見ることはおろか、聞くことも出来ません。愚かにも五感だけが実在の全てであると思い込み、その粗末で気の利かない五つの感覚が捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。
 私達がこちらでよく見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、手を思い切り差し述べてあれこれと尽くすのに、その内、どうしても気付いてもらえないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人達です。呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見てもらえず、思念を送っても感じてもらえません。
 悲しみに暮れている人達ばかりを相手にした話ではありません。楽しく暮している明るい家庭においてもそうです。そこで私達は、重苦しい気持を引き摺りながら、その人達に近付いて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです」

シルバーバーチは更に次のような、他界後の霊界の実情を打ち明けた。

「これまでに私は、何人もの[国教会の大黒柱]と呼ばれていた人を連れて、かつて彼らが勤めていた礼拝堂、大聖堂、教会などへ行ったことがあります。そこで彼らが目にするのは、当然、かつて自分も説いたことのある教説の繰り返しですが、今ではそれが間違っていることがよく分かるものですから、彼らの心は次第に重苦しく沈み込んでいきます。間違いと迷信とで出来上がった組織を助長したのは、他ならぬ自分達であることを自覚するからです」

-針のむしろに座らされる思いでしょうね?

「それが彼らにとっての煉獄なのです。辛いでしょうが、それが摂理なのです。自分が犯した過ちは自分で改めないといけません。自分が送った間違った人生の代償を払わないといけないのです。永遠なる公正のもとにおいて、ありとあらゆる勘定が清算させられます。この摂理から逃れられる人は一人もいません」

-その司教達はどういう方法で償うのでしょうか。

「間違った教えを説いた信者の一人一人に会って、その間違いを修正してあげないといけません」

-説教をした信者の一人一人に面接しないといけないのでしょうか。

「そうです」

-でも、それまでに信者自身が修正していることもあるでしょう?

「そういう場合は、それだけ負担が軽くなります」

-正しいと確信して説いていた場合はどうなるのでしょうか。少しは違うのでしょうか。

「その場合は事情が違ってきます。何事も[動機]が大切だからです」

-その場合でもやはり一人一人に会わないといけませんか。

「本心からそう信じていた場合は、その必要はありません。ですが、実際は、命をかけてそう信じている人は少ないようです。高慢と、地位、財産の方が、真理よりも大切な人が多いようです。一旦教会という組織の中に組み込まれて、その中に浸り切ってしまうと、それが鎖のように魂を縛り付けてしまいます。心の奥では納得出来ずにいながら、お座なりの説教を繰り返すことによって理性をマヒさせようという卑劣な態度を取るようになります。
 私達は、そうとは知らずに間違ったことを説いている真面目な牧師を咎めようとは思いません。咎めたいのは、心の奥では真理なんかどうでもいい-教会という組織を存続させることが第一だ、と考えている指導者達、或いは、間違っていると知りつつも、ではそれを捨てたら、これから先自分達はどうなるのだ、という単純な不安から、伝統的教義を守ろうとしている牧師達です。
 間違っていることに気付かずに、一生懸命に説いている者を咎めるつもりはありません。自分達の説いている教えや行っている儀式が何の根拠もないことを知りつつも、奇弁を弄して繕い、[これを捨てたら、他に何があるというのか-教えることが何もなくなるではないか]という幼稚な自己弁護をしている連中のことを咎めているのです。
 とは言うものの、たとえ知らなかったとはいえ、やはり間違っていたことは正さないといけません。ただし、その場合は煉獄の苦しみではなく、むしろ喜びすら覚えるものです。魂が進んでそれを求めてすることですから、それは一種のサービスの喜びとなります」

これを聞いて、かつてメソジスト派の牧師だったメンバーが訊ねた。

-では、私もこれまでに説教をしてきた信者の全てに会って正さないといけないことになるのでしょうか。

「そういうことです。会った時にまだ間違った教えを信じている場合、言い換えると、あなたの教えを信じた為に光明を見出すのが遅れている場合は、光明への正しい道を教えてあげないといけません」

-それは大変です。大変な数の人に教えを説いてきましたから・・・

「あなただけではありません。全ての牧師が直面させられる摂理なのです。でも、あなたの場合はそう苦になさることはないでしょう」

 ここで別のメンバーが「多分、この方の場合は、牧師を辞められてから救ってあげた人達が協力してくれる筈です」と言うとシルバーバーチが-
「その通りです。永遠に不変の公正は決して誤魔化されません。叶えられることなら皆さんにも、私が見ている通りの摂理の働き具合をご覧に入れて、公正の天秤がいかに見事にバランスが取れているかを知って頂きたいのですが・・・・大霊のなさることに寸分の狂いもないことを得心なさる筈です。
 教えを説く者には深刻な責任があることは、ここにおいでの皆さんがご存知ない筈はありません。知識には責任が伴うことを何度申し上げたことでしょう。自分を他の人達より高め、人を教え導きたいと思うのであれば、まずは自分自身が拠って立つ足場をしっかりと固めないといけません。
 徹底的に探求し試してみることを怠り、批判に身を晒すこともせずに自己満足し、本当かどうかの確信もないまま人に教えを説くようなことをしていると、その怠慢と軽率さに大きな代償を払わされる時が必ず来ます」

別の日の交霊会で地上時代に受けた間違った教えの為に魂の進化が阻害されている霊が話題になった。メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮している霊がいるという話を聞いたが、そんなことが本当にあるのかと訊ねると-
 「事実その通りなのです。それが私達にとっての厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならない限り、側からはどうしようもないのです。
 死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げてきているわけですから、その想念体が崩れない限りは、いつまでもその牢獄から脱け出られないのです。
 死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいる限り、私達も為す術がありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、皆さんには理解出来ないでしょう。
 随分前の話ですが、クリスタルデルフィアン(1950年代に米国で生まれたキリスト教の一派)だという霊と長々と話し合ったことがあります。私は何とかしてその人が既に死んでいる事実を納得させようとしたのですが、[こうして生きているのに、なぜ私が死んでいるんですか]と言い返して、どうしても信じてくれませんでした。復活の日まで待ちますと言って、その場から離れようとしませんでした」

-時間をどうやって過ごすのでしょうか。

「ただ待つだけです-[待つ]という想念の中にいるだけです。自分でこしらえた想念体の牢獄の中に閉じ込められているのです。そのことに気付けば、想念体が崩れて目が覚めるのですが、こうした事実を地上の人に説明するのはとても困難です。
 こちらの世界には[時間]というものがないのです。地球の自転によって昼と夜とが生じるようなことがないからです。昼と夜とで一日、といった計算をすることがない世界において、どうやって昨日と今日とを区別するのでしょう?」

-時間の単位はなくても、時間の経過はあるのでしょう?

「それもありません。周りで生じる変化との関連において成長と進化を意識することはありますが、時間の経過はありません。霊的な成長と、それに伴う環境の変化があるのみです。時間というのは、そうした変化との関連における尺度にすぎません。
 無意識でいる間は時間は存在しません。環境との関係が変わったからです。夢の中では環境との関係が変わっていますから、肉体に繋がれている時よりも物事が速く推移するわけです」