○無数の生命の相が互いに融合し合っております。境界線のようなものは存在しません。一方の側に物的なものが存在し、他方の側に霊的なものがあって、それが混ざり合っているのです。原理は無線電信と同じです。無数の波長、無数の振動があるのですが、同じ空間を飛び交っております。その内のどれに反応するかは器機の感度によります。地上の人間は物質の波動の世界に閉じ込められております。物的な波長しか感知できません。霊視能力者は普通の波長より一段と精妙な波長を感知できる人であり、霊聴能力者は普通の音の波長より一段と精妙な波長を感知できる人です。これも霊媒という器機の感度の問題です。

○地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいました。元々人類は数多くの霊的感覚を使用することが出来たのです。内部の霊妙な能力に気付いていたのです。古い記録を御覧になれば、太古にさかのぼるほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達と共に次第に委縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチできる人は極めて少数となりました。

○死後にも生命は存在します。いわゆる『故人』も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題を片付けてはなりません。なぜ生き続けることが出来るのか、どういう過程で甦るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどういう影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐったあとにどういう体験をしているかー教訓として何を学んでいるか・・・こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永いあいだ人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。

人間は本質的には地上にいる時から既に霊的資質や属性の全てを所有しております。時たまチラリと発現することはあっても、大半は居眠りの状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。

○人類の大半は霊的に高度なものを自らの力で手にすることは不可能です。バイブレーションがあまりにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、あまりにも洗練されている為に、よくよく鍛練されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。そこで地上との交信には私達の方から言わば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しさが大きく殺がれてしまいます。

○死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛で繋がった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく脱け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きする態勢が出来ております。

○向上進化の道は孤独なものです。が、背後にはあなたを絶対に見捨てることのない霊団が付き添っております。魂を鼓舞する力は霊界から送られているのです。すべてのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。

○肉眼で見ることも肉耳で聞くことも肌で触れてみることも出来ませんが、背後にはあなたとの地上的縁のある霊、血縁はなくても無私の愛に動かされた霊が控え、援助し、鼓舞し、もっとも生き甲斐のある生き方へと導いてくれております。

○背後霊にはあなたの困難、問題、願望のすべてが分かっております。又、ここが物質の世界であり、それなりの物的必需品というものがあることも承知しております。あなたが真理に忠実に生きておれば、飢えや渇きに苦しむことはありません。絶対に必要なものは必ず用意されます。

○[聖霊に対する罪]とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になる否定します。こうして皆さんとの交わりが出来るのも霊力のお陰なのです。ホンの僅かの間とはいえ、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。

○[復活]は生命の法則の一つです。死の訪れと共に物的身体から離れた魂は全て復活したことになるのです。キリスト一人の話ではありません。大霊の子の全てに復活があるのです。死の関門を通過すると、物的身体を後にして今度は霊的身体に宿って霊の世界で新しい生活を始めるのです。地上生活は全てその為の準備なのです。

○地球が物的世界の一つとして存在を始めた当初から、神の教えを説く為の霊が派遣されてきました。そして各民族、各時代の言語で喋りました。その内容の程度もその国、その時代の要請、その民族の成長と発達の程度に即応したものでした。その方法・手段も理解力に応じたもの、高踏的になりすぎないものが用意されました。

○人間は墓場を乗り越えて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことは出来ません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何をもってしても、内部に宿る神性、この世に生をうけることによって賦与された生命の炎を消すことは出来ません。

○いかなる極悪人といえども『存在』そのものを失ってしまうことはありません。神性の火花が衰えて微かに明滅する程度になっていることはあっても、完全に消滅してしまうことはありません。なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。又いかに高級な霊といえども、その堕落した霊に救いの手を差し伸べるために身を低くすることは出来るものです。

○魂が開発され霊的波長が高度なものになるにつれて、それだけ高度なエネルギー、大きなエネルギーと接触できるようになります。それは見えるものでもなく聞こえるものでもなく、永遠の霊的実在そのものです。それが生命の実在なのです。人間は生涯の大部分を影を追い求め、幻を捕えようとし、儚(はかな)いものを後生大事にしながら生きております。本当は静寂の中において、調和の中において、愛の中においてこそ、あなたの魂は着実に開発するのです。ゆっくりではあっても確実であり、間違いがありません。

○物質界の条件が、大きい方の意識で行なわれていることを小さい方の意識で思い出せなくしているのです。人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えないほどです。が、時として霊が物質の次元から離れて霊界からのインスピレーションに触れることがあります。その時、ホンの一瞬ですが言語を絶した無上の法悦に浸ることになります。

○睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長に合っていて自然に引き付けられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。地上に籍を置く人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界に降りて行く話があります。睡眠中の話ではありませんが、原理は同じです。

○邪霊に憑依される人は、自らそういう条件を内部でこしらえています。あくまでもその人個人の問題です。愛と奉仕の精神に燃えた人に高級霊が引き寄せられるのと原理は同じです。法則は良いことばかりに働くのではありません。崇高な目的に作用する法則が悪い方向に作用することもあります。問題はあなたがどういう心がけでいるかに掛かっております。

○地上の人間は現実界と霊界とのつながりについて理解が出来ておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることが出来ると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。

○皆さんは過去の偉人のことを過ぎ去ったこととしか考えませんが、その人達はその後も同じ情熱を地上の同胞に対して抱き続け、今なお活躍しているのです。