○(善悪の規準について問われて)それは一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置が組み込まれているのです。正常な人間である限り、言い変えれば精神的・知的に異常または病的でない限り、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行なうことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、その都度自動的に、直感的に、そして躊躇することなく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。それを人間は時として揉み消し、時として言い訳や屁理屈で片付けようとします。しかし真の自我はちゃんと分かっているのです。

○自分で正しいと思うこと、良心が指図することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人の為ということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象なります。

○何事も動機がその価値を決めます。慈善事業に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機故に霊性が伸びます。苦しむ人を見て止むに止まれぬ気持になるのは霊的属性の一つです。愛・情愛・友愛・同情・哀れみ・親切心・奉仕の精神は霊の属性です。それらを表現している時あなたは霊的自我を表現していることになります。

○あなた方が道徳的だと考えていることが私達からみると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようということであり、人の心を思いやることです。

○私は[悪]とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが[悪い奴等]と思っている人間は未熟な人間ということです。その人達が表現しているエネルギーは成長と改善の為にも使用できるのです。自分から[悪人になってやろう][利己主義者になってやろう]と思って悪人や利己主義者になる人は滅多にいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけが全てだと考え、従って物的世界が提供するものを全て所有することによってしか自分の存在を主張出来ない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方角を間違えたにすぎません。

○[悪]とは何かということを見極めておく必要があります。地上生活の究極の目的は[死]と呼ばれている現象の後に待ち構えている次の生活舞台に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の[我慢]です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し伸べる用意が出来ていなければなりません。

○霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。もしもその夫婦が霊的に傷付け合えば罪になることもあります。問題は視点をどこに置くかによって違ってきます。常に霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。

○故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば[悪人]と言える程の人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁く為に大ナタを振るうようなことは慎まねばなりません。そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。

○罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知・かんしゃく・せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。後になって[しまった]と思うようなことを考え、口に出し、行なっているものです。

○最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へは常に善意で接し、いつでも援助の手が差し伸べられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、折角のチャンスを自ら拒絶したその人を気の毒に思ってあげなさい。

○世間がどう言おうと、周りの人が何と言おうと、自分で正しいと思うことをしなさい。その方が都合が良いとか得策だからではなく、心の奥でかくあるべきと確信したこと、良心がそう命じていることを実行すればよいのです。いたって簡単なのです。ところが人間はなぜか複雑なこと、ややこしいことを好みます。もう当たり前になってしまった単純素朴なことは毛嫌いします。私はあくまでも良心の命じるままに従いなさいと申し上げます。良心こそ神の声であり、善と悪とを選り分け、進むべき道を指示します。

○良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わず従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考えることはないのです。これ以上簡単な話はありません。

○決断を下さなければならない事態に立ち至った時は、それが特定の少数の人ではなく、全部の人、或いはなるべく多くの人にとって益になることを動機として判断しなさい。

○霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理に則った生き方が出来ない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。

○霊的実在に目覚めたならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。

○霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮する為の環境を求めて生まれてくるところだからです。

○地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。

○ある国で不道徳とされているものが他の国では不道徳でないことがあります。例えば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手に掲げている教義に違反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為にすぎません。

○全ては[罪]とは何かという定義にかかわる問題です。私に言わせれは、罪とはその有為者とそれを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人の為になる行為の反対と思えばよろしい。

○神の摂理は、最終的には完全なる公正が行き渡るようになっております。こればかりは誰一人として例外はありません。あなたにも、そして地上に限らず他の全ての天体上の存在の一つ一つに公平な配慮がなされております。摂理は絶対です。何一つ見落とされることはありません。あなたの霊的成長と発達に必須のものは、それを受け入れる用意ができた時にはきちんと手に入るように配慮されております。

○その昔、[幼子が彼等を導くことになろう](イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼子の純心を取り戻さない限り、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。地上では太陽光線の作用の結果にすぎない肌の色で色々と差別が行なわれております。表面の肌の色だけを見て、その奥の霊性においてはみな同じであることを忘れております。

○いつの日か地上のあらゆる肌色の人種が融合することでしょう。どの人種にも他の人種にてきない役割をもっているからです。霊眼をもって見れば、全ての人種が調和し、それぞれの特質、特有の文化、特有の学問を提供し合って生きる時代の到来が見えます。

○私達は大霊を共通の父母とする、全人類の霊的同胞性という福音を説きます。その理解の障害となるのは地上的概念であり、教会という人工的建造物であり、権力の独占であり、暴君の自尊心と横暴です。

○霊的な教訓が地上に広まるということは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。更には、チャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴークといった各宗教の礼拝・儀式の場の区別も無くなります。なぜなら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包蔵しており、自分達にとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。

○私達はみな大霊の子供です。大霊はその内のある者を赤く塗り、ある者を黄色く塗り、ある者を黒く塗り、そしてある者には何も塗らずにおきました。が、それぞれが大霊の機構の中で存在価値をもっているのです。いつの日か大霊の摂理が行き渡り、様々な肌色の人種が混ざり合い、愛の心を抱いて共に暮らすようになった時に、世界中に調和が実現します。その一つ一つの色が何を意味するかを皆さんは理解しておりません。それぞれに大きな目的をもち、造化の摂理に貢献しております。全ての肌色が融合し、肌色で区別することをせずにその背後の魂を見るようになるまでは、地上に平和は到来しません。

○ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは[行い]です。[行為]です。つまり各自の毎日の[生活]そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理の裏をかくことは出来ないのです。誤魔化すことは出来ないのです。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切・寛容・同情・奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行き渡っております。霊的な小人が巨人のふりをしても誤魔化せません。死の床での悔い改めも通用しません。