○私達は、地上に幸福と健康をもたらす神法について語りたいと思う。今教会で語る者は、いつの日かその誤りを取り消さねばならない。彼等も神法の外にいるわけではなく、誰一人として神法を免れる者はなく、特に一度霊の教えを聞いたことのある者は、そうである。もし彼等がその言葉に違反すれば、まだその教えを聞いたことのない者よりも、その罪は重い。

○貴方の目が開かれて、霊の愛を知り、霊の教えをしっかり肝に銘じて後、なお奉仕を怠るなら、その罪は大きい。貴方はそうすべきことを知りながら、あえてそれをしなかったのだから。霊媒の中には、神の通路となり得るのに、何がしかの金銭の為に、その能力を売り払う者がいかに多いことか。

○貴方方の内部には、偉大な霊性が宿っている。又、人は幾多の進化過程を経て、今日に至ったのだから、誰でもその内部には、動物性の痕跡が残っている。しかしながら人間内在の霊性こそは、どんな遺伝や痕跡にもまして偉大なものであり、もし貴方が、それをちょっと働かせ発揮しさえすれば、貴方はまるで、地上を神のように歩くことも可能なのである。

○人間は本来その内部に、病気を治し悩みを克服する力をもっている。誰しも、弱った時にはいつでも引き出せる力の貯蔵庫をもっている。つまり天国は内部にある。しかるに、人はこのことを殆ど知っていない。この大我に接する道は、神法に従って生きるより外はない。しかるに、幾人かそれに従って生きているか。

○人生はその行為だけでなく、その言葉、その思念からも成り立っている。行為が全てと思ってはいけない。勿論、行為は重要だ。しかし言葉と思念もものを言う。悲しいかな、貴方方の多くは、思念の主とならず、その奴隷となっている。

○私達は全て神の分身である。神はある者を赤く、ある者を黒く、ある者は黄色に、そしてある者には色をつけ給わなかった。だが、これら全ての色は、神の計画の一部である。

○やがて地上に神法が実り、これらの色が一つに溶け合って互いの愛が芽生えれば、初めて調和が実現する。人はこれらの色の意味を知らない。だが、それには一つ一つ大きな目的があり、生命の法に役立つのである。

○皮膚の色が一つに溶け合い、もはや人が皮膚の色を意に介さず、唯内部の魂にのみ目を向け合う時、初めて地上に平和が来る。黄色は黄色なりに、白色は白色、黒色は黒色なりに、それぞれ他人種の役に立つものをもっている。このことをまだ世界は知らない。

○人は全て、一人一人が神の分身であり、一人一人が神の御業と力と愛と知とを、担うことの出来るものである。仮に貴方が弱い人に手を差し伸べれば、神の力はたちまち貴方を通じて、働くようになるのである。

○どのようにそれをするか、誰を助けるか、どこで闇に光を点ずるか、そんなことは問題でない。ただ、貴方が失意の人を立ち上がらせ、力萎えた人に力を与え、暗い所に光を灯し、飢えた人には食を、枕する所のない人には、寝ぐらを与えさえすれば、それでよいのだ。

○霊の力は地上一切の差別を無視する。地位・身分・肩書・人種・民族・国籍のいかんを問わない。誰であれ、どこであれ、応える者に目を向け、真理の根源から来る力で彼等を満たし、その心に光あらしめ、その魂を興起させ、神の園にあって働き手とさせ給う。

○皆さん、一つには神の為、一つには疲れて悩む人々の為、働く決意をもちなさい。彼等の重荷を下ろし、彼等に希望を与え、新しい知識と光と力とを与えなさい。これによって彼等が、身体には力を、心には勇気と生気とを満たし、神の賜う天賦の恵みを享受出来るようにと。こうして皆さんは、奉仕の喜びを知るに至るであろう。人を助けることの他、己の為には何も求めない奉仕の喜びを。

○神は無限であり、人はその神の分身である。人がもし完全な信と正しい生を守るなら、神の天賦の賜物を受ける者となる。人がもし、飢えていても、完全な信さえあれば、その応えは必ず得られるのである。

○これが法の働きである。人がもし法に同調する道を体得するなら、その成果が必ず手に入る。もし成果が得られなければ、それは法に同調しなかったからである。史書をひもといてみても、貧しい人賤しい人でも法を試みた人は必ずその報いを得ている。いたずらに、法を試みず法は働かないと訴える者に、目を向けてはいけない。

○時には、魂が挫けて、環境に負けてしまうこともある。だがもし、貴方に完全な信念があれば、必ずどんな地上の困苦にも屈せず立ち上がることが出来る。顔を太陽に向けなさい、太陽は神の素朴な象徴。そうしてこう言いなさい「私は神の分身です。滅びることはありません。私は永遠であり無限です。地上の物質や有限なものは、決して私に指一本触れることは出来ません」。こう言い終われば、貴方はもはや、何ものにも犯されることはない。

○人は何か事を始めるに当たり、まず心に怖れをもつ、上手くいかないのではないかと。この恐怖が心の波長を乱す。しかし全き神への信と愛があれば、恐怖は無くなる筈。まず神の国と神が正義であることを、心に描きなさい。そうすれば、全て必要なものが貴方に与えられる。これは昔イエスが教えた教えであるが、イエスは法の働きをよく知っていて、人の目の前で法を働かせては、その証拠を人に示した。皆さんも、このように法を働かせさえすれば、その成果は貴方のものとなるのである。

○ここにもう一つ、神の法則を語ろう。それは、この世では代価を払わないで、何一つ手に入れることは出来ない、ということである。霊交の代価は、霊能を磨くこと。皆さんは代価を払わないで、富を積んではいけない。もし富を積みながら、霊的義務を怠れば、地上では富者であっても、霊界に入れば最も貧しい者となる。

○人はその内部に至高の富を所有している。地上には、これと比べられる富は一つもない。皆さんはこの富を探しなさい。貴方の胸の奥深く、土にまみれて潜んでいる宝石を、霊魂を発掘しなさい。

○至高の霊魂と感応道交する道を、どうか学んで頂きたい。まず大切なことは、貴方は一人ぼっちではないということ、貴方の周りには、貴方を守り導こうとする沢山の霊魂が、ぎっしり貴方を取り囲んでいるということ、これを知って頂きたい。第二に、貴方が霊眼を開くことの大切さ、これである。つまり、貴方の霊眼が開けるにつれて、貴方は神法との調和を増して、段々神の方へ近づいていくということ、これを肝に銘じて頂きたい。

○貴方が人に奉仕することは、神に奉仕することである。その時、無限の神の御手は貴方に触れ、貴方は神の愛に包まれつつ、完全な平和の中に立っているのである。

○唯信じるだけの信仰は、嵐が吹けば倒れてしまう。知識の上に立った信仰は基礎があるから、逆境にあっても倒れることはない。まだ見たことのないものを信じる者は幸いである。しかし知っていて、知っているが故に、まだ見たことのないものを信じる者は、更に幸いである。何となれば彼等は知っているから、宇宙の法は、愛であり知恵である力によって、動かされているということを。

○皆さんは完全な信仰を、即ち知識から生まれた信仰を、どうかもってもらいたい。皆さんは霊力についての証を知っている、だから次の信仰があってしかるべきだ。「全てはこれでよし、全てに英知が満ち満ちている。又、人がもし神法に心を向ければ、必ずや、神法の果を手に入れることが出来る」と。

○暗い影、いわゆる悪が、いやしくも自分を犯すという怖れを、人は誰でも心から消し去ることが出来る。人は誰でも、神と神法の加護の下に生きるもの、又現に生きているものであるから。だから心に悪意がなければ、よいことだけがある。善は善意のある所にだけ住み、霊界の何者も、神の使途の他は、その人の傍に行かない。恐れることは何もない。貴方を包み、支え、導き、気を奮い立たせる力こそ、実に神から発する力である。
 その力はどんな試練や困苦にあっても、貴方を支える。その力は嵐を陽光に変え、絶望に希望の灯を点じる。足はしっかりと進歩の道程に立ち、貴方は何も恐れることはなくなってしまう。

○神に対する完全な信と愛があれば、恐怖はない。又知識があれば恐怖は起こらない、恐怖は無知から生まれるものだから。かくて、信と愛と知がある限り、恐怖のさし入る隙はない。進歩した霊魂は、どんな場合にも恐れを知らない。彼は知っている、自分の人生に、自分で克服出来ない環境や経験はある筈がないと。何となれば、彼は神性であるから。

○恐怖心は魂の牢獄をつくる。恐怖を克服し、その念波に乱されないようにしなさい。人は何ものにも犯されはしない。これを知りこの信念に燃えて、こう言いなさい「私は神の霊だ。世の嵐も私に触れはしない。どんな刻苦も、私の前では色褪せてしまう。私には内在の無限の力がある」と。
 人には、あらゆる環境に打ち勝つ力がある。この無限の魂の力を、貴方は自ら制限しようというのか。

○神は物質的なものと、霊的なものと、共に支配し給う。神の王国には、両者の差別はない。物的生命と霊的生命とを差別してはいけない。両者は別個の分離したものではない。物は霊に作用し、霊は又物に作用する。両者は共に、一なる不可分の生命の両面である。

○地上には、私達霊魂の力で動かせない障害はない、但しそうすることが法にかなっているならば。時には、人の背負う十字架があまりに重く、私は自分の進歩を諦めても、その重荷を取り除いてあげたいと思う。だが、よく覚えていてもらいたいことは、人がその十字架を背負い、その重荷から教訓を学び取ることは、もっと大切なことだ。人は現世だけでなく、もっと永遠の目をもって、物事を考えてみねばならない。

○人がもし人であると共に、神であることを心にとめているなら、人生はどんなにか容易なものとなろう。人は地に属し、又人の神性は神に属す。

○富人は貧者より悩みが少ないと皆さんは言う。だが、富者の悩みをどのようにして貴方は知るのか。神法は人を欺かず、何ものも逃がすことはない。

○人は人格を形成する為に、地上に生を受けた。そして人格の形成とは、自分が直面する苦難に立ち向かっていくことである。しかし地上には人に内在する力をもってして克服出来ない苦難というものはない。何となれば苦難は地のもの物的なもの、しかし人は聖なる神の分身であるから。

○平和とは唯一つしかない。それは神と一つになっている人を訪れる平和である。その心臓は神と共に打ち、その意は神の大いなる意志と一つになり、心も魂も情も神と共に唯一つである。その平和は神法と調和しているから生まれるもので、この外に平和はどこにもないのである。

○私が語るのは、常にただ神法についてだけである。かつて人はこう教えられた、神の国は内部にあると。外にではない。この地上のざわめきの中に、それがあり得ようか。神の国はただ内部に、魂の中にある。

○神法は調和と正義に満ちていて、その働きにはいささかの狂いもない。一人としてその罰を逃れ、誰一人として、その報いを受けずに終わるということはない。物質を見る目で永遠を測ってはいけない。まだ大いなるものを見ないで、小なるものを断定してはいけない。

○地上の喜びは一時、これを永続するものと思い誤ってはいけない。それは薄っぺらでケバケバしいだけ。人は地上の有限の目でものを見る、だが私は霊的な目でものを見る。神法を曲げて人を喜ばせるわけにもいかぬ。

○霊界から地上と通信する霊魂に聞いてみられよ。彼等は異口同音に言うだろう。神法は完璧であると。彼等は誰一人として、地上に戻って住みたいと言う者はいない。皆さんは平和を外に求める。だが、私は永遠の平和は内部にあると、又最大の富は霊的な富であると、皆さんに言う。

○まだしなければいけないことがあると思っているのに、私達が幸福そうに見えるか。地上の子等が食べるに事欠いているのに、私達が苦しまないと思うか。又神の御名において、偽りが語られているのを聞くにつけ、この胸が痛まないと思うか。

○光があるべき所に、闇だけがあり、人は自由になり得るので、欲望の奴隷となっている。地上には唯、混沌の渦が巻いている。これを目にして、私達が苦しまないと思うか。

○私達はそれが哀れに思えて苦しい、何とかして、神の愛を地上世界に送りたい、本来手に入るようになっているものを、自ら拒絶している多くの者達が住んでいる、かの地上世界へ。彼は彼等に、全てのものをあり余る程与え給うたのに、彼等はそれを拒絶している。ここに飢えた者がいるのに、貴方はそこで満ち足りている。それで貴方は偉大な魂といえるか。

○私達に一番辛いことは、皆さんの傍に在って、その苦しむ様を眺める時である。私達は承知している、これは本人の霊魂の闘いだから、決して助けてはいけないということを。もし貴方が勝てば、私達も勝つ。もし敗れれば、私達も敗れる。これはまさに私達の闘いである。だが指一本、貴方に差し伸べてはいけないのだ。

○私も時には涙を流すことがある。その人の苦しみを見て、しかも助けてはいけないと知った時。それが神の法なのだ。これは本人にもまして、私には辛いことだ。

○私は貴方の為に、貴方の問題を解いてあげるわけにはいかぬ。これこれしなさいと、一々指示すれば、それは貴方の自由意思を妨げることになる。私がもしこの霊媒に、こうせよ、ああしてはならぬと教えれば本人の自由意思は止まり、これで進歩もお終いだ。
 貴方が貴方の手で、貴方の問題を解決すること、ここに貴方に内在するものを発現させる道がある。何事も坦々として容易であれば、霊性の進歩はない。苦しみあるところに、霊性の進歩がある。

○だが時には、皆さんの判断に、干渉せねばならぬということもある。このままでは大変重大な事が脅かされるという時には、私はあえて干渉する。例えば、こうして霊媒を通じて行っている私の通信が、何か障害を受けそうな時には、私は通信の安全を守る為に、断じて手を下す。だが、問題が霊媒個人の進歩の為のものなら、それは彼の自己責任の範囲だから、本人自らの解決に委ねる。

○神はなぜ戦争を止めないのか、神はなぜ戦争を未然に防がないのか、多くの人はそう言う。だが神法を曲げてもそうせよと言うのなら、それは言う人の方が悪い。
 地上世界は、自分でやったことの結果を免れることは出来ない、私共にもその法を曲げることは許されない。一度蒔いたものを必ず刈り取る、利己主義の種を蒔けば、いつかは必ず、その報いを受ける。高慢、嫉妬、妬み、貪欲、悪意、不信、疑い、これらはどれをとっても、それが実を結ぶ時、戦争となり困窮となり不和となる。

○霊界通信の背後の意味を知らない人達は、私達神法を伝える者をさして、とかくの批判をする。だが私達はあくまでも、神法を伝えることに変りはない。仮に皆さんがこれを宗教と呼び、科学と言い、哲学と名付けようとも、これはあくまでも神の自然の法、それに変わりはないではないか。

○法に逆らって生きる者は、個人であれ、団体であれ、種族であれ、国民であれ、その果を受ける。何度も繰り返すように、法はその働きに狂いがないのだから。時には、皆さんの目には結果が見えないこともある。だが、原因があれば、必ず結果はこれに従って起こる。それが法というものだから。

○物質にばかり目を向けている人は、大きな誤りを犯している。その人は幻影を追い、永遠を忘れているのだから。これは単純な真理なのに、地上はまだこのことを知らない。
 どうしてもこれが分からなければ、酷い陣痛と涙によって、即ち流血の惨と悲劇によって、これを学ぶしかない。皆さんはどうか私がいつも言っているように、互いの愛と奉仕によって、これを学び取って欲しい。もし、この方法で学んで頂けないとすれば、法に背いて生きる者の代価を、払ってもらわねばならぬ。
 地上で偉大な者が、霊界で偉大な者ではない。私達の言う偉大さとは、魂の偉大さ、霊の偉大さ、奉仕の心の偉大さである。

○自由意思は神からの贈りものである。もしこれを不正に使えば、必ずその報いを受けなければならぬ。もし世界が法に従えば、利益を受け、これに反すれば、その果を受ける。前者は平和と幸福と豊饒の道、後者は、悲劇と戦争と流血と混乱への道。

○この世には、傾向とか波動とかというものがある。だか、これは克服出来ないものではない。人間とは、放射や影響に取り囲まれて生きているもの、そしてこれが人間の運命に、影響を及ぼす。だが、神は人に神性の一部を与え給うた。もし人がその自由意思を正しく使えば、内在の神性が開花して、どんな障害でも克服出来るのである。

○神は人の内部に種子を置き給うた。人は園丁である。その種子が花を開くことが出来るか、又その時期はいつか、これはひとえに本人の努力いかんにかかっている。貴方がその種子を闇の中に置き、光を与えず、魂の光である愛と奉仕を注がなければ、内在の神性は少しも大きくならないのである。

○幾多の経験が集って、人生絵巻が織り成される。人は一時の出来事をもって、全てを計ろうとする。このように目先の物質にだけ目をとめれば、混沌が見えるだけ。だが全人生を貫いて、一本の神の糸が通っている。人はこのことを知らない。

○広い目で宇宙を見渡せば、調和がその法則となっていて、貴方方一人一人は、全て神の計画の何らかの役を果たしている。時には風波があり絶望がある。時には、苦しみがあり悲劇がある。だが、人の一生の出来事はどれをとっても、貴方が辿る道程に相応しく、貴方を創る為に、みんな役に立っている。

○光と闇、陽光と影、これは単に一なる全体の反映にすぎない。影がなければ光はない、光がなければ影もない。そのように人生の苦しみは、魂が上へ上って行く為の階段である。困苦・障害・不利益、これらは全て魂の試練であり、魂はこれらを全て克服し得て、初めて強くなり、浄化され深みを増し、高く飛躍出来るのである。

○苦痛もなく影もなく、悲しみも、又災禍や悲劇もなしに、どうして無限の可能性を秘めた魂の内在の力が発現出来よう。勿論、不可能なことだ。
 人生の辛酸をなめつくして後、初めて頬笑みと喜びの味が分かって来る。人生はどん底に落ちた分だけ、高く飛翔出来るものだ。地上の影を経験し嘗め尽くす程に、人は陽光のもつ大きな喜びを、味わいとることが出来る。

○人の嘗める経験は、全てこれ本人の進歩を形作る一コマである。いつの日か、肉のくびきから解き放たれ、物質で曇らない目をもって、過ぎ来し地上の人生を振り返る時、人は初めて、あらゆる出来事を貫いて達観する。一つ一つの経験は、まさに置かれるべき場所に置かれていたと。又どの経験をとっても、魂の進歩の教訓であり、又内在の可能性を自覚させる薬でないものはなかったと。

○人が受け取る経験で、これを正しく真直ぐに理解すれば、どの一つといえども、魂の役に立たないものはないのである。貴方は、苦しみもなく試練もなく、障害や痛みや災禍もない物質世界を、考えてみることが出来るか。
 それでは、何の進歩もなく、又克服努力すべき何ものもない。従ってこれでは衰滅があるだけだ。

○あらゆる生命は神のもの、相手が人間でなくても、決して殺してはいけない。昔、狐が二十羽の雛を食い殺したという話がある。これがもし、狐でなくて貴方だったらどうしよう。もし私が鉄砲をやり、雛を食い殺した貴方を撃てと命じたら。神は全ての人に、どこに在っても困らないように供え給うた。人間を飢えさせるのは人間自身である、狐ではない。
 地上の人間も、今後進歩を遂げていけば、低俗な欲望を振り落としていくだろう。もし、人が狐にしろ雛にしろ創造出来るものなら、その命を奪ってもよい。又、人が狐や雛なら殺してもよいと言うのなら、人はまた人間を殺してもよいことになる。生命は人間のものではない。神のものである。従って、他の生命を奪う者は、後日その報いを受けねばならぬ。
 将来、人は神法を理解する時が来る。神法は言う、宇宙のあらゆるもの、動物、鳥、魚、花・・・・これらは全て神の計画の一環である。彼等は全て神の被造物として、それぞれそこへ置かれているのである。