先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の有(も)ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は〝腹黒い〟実業家を念頭に置いて述べている-訳者)

 「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼等が何世紀もの永い年月に亘って受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業に相応しい罰なのです」

-でも、今現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。

 「では一体どうあって欲しいと仰るのでしょう。人間から自由意志を奪い去り操り人形にしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有り難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」

 別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどういう影響があるでしょうか〟と尋ねる。

 「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、今申し上げた邪悪な人間と同じ運命を辿ります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。例えば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思い留まった場合に比べて、遙かに重い罪を犯したことになります」

-臆病であるが故に思い留まることもあるでしょう?

 「臆病者の場合は又別です。私は今邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。初めに申し上げた通り、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたい程だ〟と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと前者の方が遙かに罪が重いといえます」

-あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をお持ちですか。

 「解答が得られずにいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く-どこまで行ってもこれでお終いということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終いのない計画を神がお立てになったのかが分かりません。色々私なりに考え、又助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得た限りの解答には得心がいかずにおります」

-神それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも神は完全ですと仰ってますが・・・

 「随分深い問題に入って来ましたね。かつて入ってみたことのない深みに入りつつあります。
 私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とは懸け離れた男性神であるかのような言い方をしてしまいます。(〝大霊〟 the Great Spirit を使用しても〝神〟God を使用しても二度目からは男性代名詞の He,His,Him を使用していることを言っている-訳者)私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気がありません。これまでに到達した限りの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。
 私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言出来ません。だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟というものの概念は、皆さんが不完全である限り完全に理解することは出来ません。現在の段階まで来てみても尚私は、もし仮に完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就出来ないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解出来ないのです」

-こうして私達が問題を携えてあなたの下(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。

 「上層界へ行けば私より遙かに叡智を身に付けられた方がいらっしゃいます」

-こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。

 「私達にも助言者や指導者がいます」

-やはり入神して行うのですか。

 「プロセスは地上の入神と全く同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私達に適切な波長に転換したり光輝を和らげたりして楽にしてくださいます。一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭に置いてくだされば、上には上があってヤコブの梯子(注)には無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一番上の段と一番下の段は誰にも見えません」(注-ヤコブが夢で見たという天まで届く梯子。創世記28・12-訳者)

-霊媒を通じて語りかけてくる霊は我々が受ける感じ程に実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像している程身近な存在ではないような気がします。少し簡単過ぎます。

 「何が簡単過ぎるのでしょうか」

-思っている程我々にとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればする程、喋っているのは霊本人ではないように思えてきます。時には全く本人ではない-単にそれらしい印象を与えているだけと思われるのがあります。

 「霊が実在する-このことを疑っておられるわけではないでしょうね?次に、我々にも個性がある-このことにも疑問の余地はありませんね?では我々は一体誰か-この問題になると意見が分かれます。なぜかと言えば、そもそも同一性(アイデンティティ)とは何を基準にするかという点で理解の仕方が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。
 では一体我々は何者なのかという問題ですが、これ又アイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身を一番上手く表現出来るからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまう程の、様々な出来事が生じております。
 通信がどれだけ伝わるか-その内容と分量は、そうした様々な要素によって違って来ます。まして、普段の生活における〝導き〟の問題は簡単には片付けられません。なぜかというと、人間側はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一番良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばあるのです。
 この問題は要約して片付けられる性質のものではありません。これには意識の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持は山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。時には私の方が耐え切れなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨ておけ!〟という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束が出来ている以上、私の勝手は許されないのです。
 この問題は容易でないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいて頂きたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私達から見れば光(幸福)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが私達から見れば影であることがあるということです。人間にとって晴天のように思えることが私達から見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが私達から見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが私達から見れば静けさであることがあるものです。
 あなた方が実在と思っておられることは私達にとって実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件付けられ支配されております。霊の目で見ることが出来ない為に、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることは出来ないのです。
 私達スピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこの私が真っ先に認めます。やりたいことが何でも出来るとは限らないことは否定しません。しかしそのことは、私達があなた方自身の心臓の鼓動と同じ位身近な存在であるという事実とは全く別の問題です。私達はあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添う如く、イヤそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私達の世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。それを物的な現象によってもお見せ出来ないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でも出来ます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというのは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、全ての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、私達霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が生長しようとしていることの指標だからです。真面目な意見であれば私達はどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことを仰ろうと、又どんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心がいささかでも減る気遣いはいりません」

-私達もあなたに対して同じ気持を抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。

 「今私が申し上げたことに批判がましい気持は微塵も含まれておりません。我々はみんな神であると同時に人間です。非常に混み入った存在-一見単純のようで奥の深い存在です。魂というものは開発される程単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。元々容易に得られるように意図されていないのです。我々はお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えになってくれます。その杖に縋ることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」

-私達はあまりに霊的知識に近過ぎて、却ってその大切さを見失いがちであるように思います。
 「私は常々二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込む時は、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、常に理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。一見矛盾しているかに思える言説が色々とありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。(訳者注-この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)
 理性が不満を覚えて質問なさる-それを私は少しも咎めません。私は寧ろ結構な傾向として嬉しく思う位です。疑問を質(ただ)そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。
 さて私は何とか皆さんのご質問にお答え出来たと思うのですが、いかがでしょうか」と言ってから、その日の中心的な質問者であったかつてのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。
 「私の答案用紙に〝思いやりあり〟〝人間性に富む〟とでも書き込んでくださいますか」