牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」
これが二回目の論争の最初の質問だった。
「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、最早人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長又成長と、いつまで経っても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」
牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」
「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」
牧師「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。又〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛してくださる。だから我々も全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」
この質問にシルバーバーチは呆れたような、或いは感心したような口調でこう述べる。
「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」
牧師「そう思います。完全な生活を送られたと思います」
「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」
牧師「当時行なわれていたことを不快に思われたことはあると思います」
「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」
牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」
「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化出来るかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・」
ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。
「私が言いたかったのはそのことです。あの時のイエスは教会堂という神聖な場所を汚す者共に腹を立てたのです。鞭をもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスも又一個の人間であった-ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。分かりましたか」
牧師「分かりました」
「私はあなたの為を思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエス様が喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方がよほど喜ばれる筈です。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでも出来ることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、折角地上へ降りたことが無駄だったことになります」
話題が変わって-
牧師「人間にも自由意志があるのでしょうか」
「あります。自由意志も神の摂理の一環です」
牧師「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」
「あなたはどう思われますか」
牧師「私は人間はあくまで自由意志をもった行為者だと考えます」
「人間には例外なく自由意志が与えられております。但しそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規制の範囲内において自由であるということです」
牧師「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」
「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」
牧師「感心出来ないことをしがちな強い性癖を先天的にもっている人がいるとは思われませんか。善いことをし易い人とそうでない人がいます」
「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気付いているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違って来ることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」
これを聞いてすかさず反論した。
牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」
「罪は罪です。身体が犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」
牧師「思念です」
「思念はどこから来ますか」
牧師(少し躊躇してから)「善なる思念は神から来ます」
「では悪の思念はどこから来ますか」
牧師「分かりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭に置いて語気強くキリスト教の最大の矛盾をつく-訳者)
「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定出来るものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違って来ます。もしもあなたが、あなたの仰る〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」
牧師「仰る通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分に非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」
「よくご存知の筈の文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益があらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝等のものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存知ですが、果して理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存知でしょう。
神の摂理は絶対に誤魔化されません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心で一変に立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それ位のことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送って来た人間と、我侭で心の修養を一切疎かにして来た人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言で全てが赦されるとしたら、果して神は公正であると言えるでしょうか。いかがですか」
これが二回目の論争の最初の質問だった。
「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、最早人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長又成長と、いつまで経っても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」
牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」
「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」
牧師「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。又〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛してくださる。だから我々も全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」
この質問にシルバーバーチは呆れたような、或いは感心したような口調でこう述べる。
「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」
牧師「そう思います。完全な生活を送られたと思います」
「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」
牧師「当時行なわれていたことを不快に思われたことはあると思います」
「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」
牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」
「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化出来るかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・」
ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。
「私が言いたかったのはそのことです。あの時のイエスは教会堂という神聖な場所を汚す者共に腹を立てたのです。鞭をもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスも又一個の人間であった-ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。分かりましたか」
牧師「分かりました」
「私はあなたの為を思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエス様が喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方がよほど喜ばれる筈です。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでも出来ることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、折角地上へ降りたことが無駄だったことになります」
話題が変わって-
牧師「人間にも自由意志があるのでしょうか」
「あります。自由意志も神の摂理の一環です」
牧師「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」
「あなたはどう思われますか」
牧師「私は人間はあくまで自由意志をもった行為者だと考えます」
「人間には例外なく自由意志が与えられております。但しそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規制の範囲内において自由であるということです」
牧師「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」
「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」
牧師「感心出来ないことをしがちな強い性癖を先天的にもっている人がいるとは思われませんか。善いことをし易い人とそうでない人がいます」
「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気付いているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違って来ることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」
これを聞いてすかさず反論した。
牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」
「罪は罪です。身体が犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」
牧師「思念です」
「思念はどこから来ますか」
牧師(少し躊躇してから)「善なる思念は神から来ます」
「では悪の思念はどこから来ますか」
牧師「分かりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭に置いて語気強くキリスト教の最大の矛盾をつく-訳者)
「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定出来るものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違って来ます。もしもあなたが、あなたの仰る〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」
牧師「仰る通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分に非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」
「よくご存知の筈の文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益があらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝等のものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存知ですが、果して理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存知でしょう。
神の摂理は絶対に誤魔化されません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心で一変に立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それ位のことで一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送って来た人間と、我侭で心の修養を一切疎かにして来た人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言で全てが赦されるとしたら、果して神は公正であると言えるでしょうか。いかがですか」