ある日の交霊会で〝宗教〟の定義を求められてシルバーバーチはこう述べた。
「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とは殆ど何の関係もありません。人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と神との繋がり、そして自分と同胞との繋がりを大きくするものでなければなりません。自分一人の世界に閉じ篭らずに広く同胞の為に自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人の為に自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。
その他のこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで永い間後生大事にしていたもの、その為に争うことまでした教義の全てが空虚で無価値で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人の為に自分を忘れている内に魂がその大きさと力を増すものだからです。
地上にはこれまであまりに永い間、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教が最も大事にして来たものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を一インチたりとも増しておりません。逆に、イタズラに人類を分裂させ、障壁を拵え、国家間、果ては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかりを行って来ました。神の子等を一つに結び付けることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです」
続いて子供の宗教教育のあり方について聞かれて-
「今日の子供は明日の大人であるという、ごく当たり前の考え方でその問題と取り組んでみましょう。当然それは学校教育を終えた後の社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるべきものでなければなりません。
意義ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会の為人類の為に貢献出来る人物に育てる為の知識を授けることが教育の根本義なのです。それには何よりもまず宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てる為に開発するよう指導してやらねばなりません。
子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果して真理であるかどうかを自分で判断することが出来ません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。
このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ系となりヨコ系となって織り込まれていくのですから、教育者はまず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。子供の潜在意識に関わることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象付けられ、それが子供のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明の将来に大きな障害を築いて行くことになり、罪を犯していることになるのです。
子供に種々様々な可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人-こうした人に育てられた子供は健全な精神的発育を阻害されます。
ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは私の領分ではありません。それについては既に十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学とあらゆる生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役に立つもの全てを教えてやるべきであることは明白です。
そこで宗教の問題に絞って申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理である以上、教育上極めて重大な意義を有することは明らかです。子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、〝自由〟がもたらすところのあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期に拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的勝利を無視することになります。奴隷状態に陥らせることです。霊的奴隷としてしまうことです。
〝自由〟こそが教育の核心です。私の考えでは、宗教についての正しい真理を教わった子供は自由闊達に成長します。教育に携わる人が子供に自由を与えてやりたいという意図からではなく、古い神話や寓話への忠誠心を植え付けたいという願望から物事を教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。もしも知性があれば拒絶する筈の間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。
それだけでは済みません。いつかきっと反発を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教え込んだ人達みんなに背を向けるようになります。幼い魂は若木のように逞しく真直ぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは存在の根をいじくり回されることであり、生長が阻害されます。
霊について、神との繋がりについて正しい真理を教えるのでなく、倒れ掛かった教会を建て直し、空席を満たそうとする魂胆から誤った教義を押し付けんとする者全てに対して私は断固として異議を唱えます。宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有り得ないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月の内に歪められ、狂信者によって捏造されております。
子供には宗教とは人の為に自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、真面目で無欲の生活を送り、自分が生活している社会の為に尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません」
「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とは殆ど何の関係もありません。人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と神との繋がり、そして自分と同胞との繋がりを大きくするものでなければなりません。自分一人の世界に閉じ篭らずに広く同胞の為に自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人の為に自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。
その他のこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで永い間後生大事にしていたもの、その為に争うことまでした教義の全てが空虚で無価値で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人の為に自分を忘れている内に魂がその大きさと力を増すものだからです。
地上にはこれまであまりに永い間、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教が最も大事にして来たものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を一インチたりとも増しておりません。逆に、イタズラに人類を分裂させ、障壁を拵え、国家間、果ては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかりを行って来ました。神の子等を一つに結び付けることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです」
続いて子供の宗教教育のあり方について聞かれて-
「今日の子供は明日の大人であるという、ごく当たり前の考え方でその問題と取り組んでみましょう。当然それは学校教育を終えた後の社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるべきものでなければなりません。
意義ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会の為人類の為に貢献出来る人物に育てる為の知識を授けることが教育の根本義なのです。それには何よりもまず宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てる為に開発するよう指導してやらねばなりません。
子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果して真理であるかどうかを自分で判断することが出来ません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。
このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ系となりヨコ系となって織り込まれていくのですから、教育者はまず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。子供の潜在意識に関わることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象付けられ、それが子供のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明の将来に大きな障害を築いて行くことになり、罪を犯していることになるのです。
子供に種々様々な可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人-こうした人に育てられた子供は健全な精神的発育を阻害されます。
ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは私の領分ではありません。それについては既に十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学とあらゆる生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役に立つもの全てを教えてやるべきであることは明白です。
そこで宗教の問題に絞って申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理である以上、教育上極めて重大な意義を有することは明らかです。子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、〝自由〟がもたらすところのあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期に拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的勝利を無視することになります。奴隷状態に陥らせることです。霊的奴隷としてしまうことです。
〝自由〟こそが教育の核心です。私の考えでは、宗教についての正しい真理を教わった子供は自由闊達に成長します。教育に携わる人が子供に自由を与えてやりたいという意図からではなく、古い神話や寓話への忠誠心を植え付けたいという願望から物事を教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。もしも知性があれば拒絶する筈の間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。
それだけでは済みません。いつかきっと反発を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教え込んだ人達みんなに背を向けるようになります。幼い魂は若木のように逞しく真直ぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは存在の根をいじくり回されることであり、生長が阻害されます。
霊について、神との繋がりについて正しい真理を教えるのでなく、倒れ掛かった教会を建て直し、空席を満たそうとする魂胆から誤った教義を押し付けんとする者全てに対して私は断固として異議を唱えます。宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有り得ないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月の内に歪められ、狂信者によって捏造されております。
子供には宗教とは人の為に自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、真面目で無欲の生活を送り、自分が生活している社会の為に尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません」